Rash
「へぇ、これがその、惚れ薬とやらですか」
「何、その顔。信じてない?」
「い、いえ、そんなことないですけど……。ちょっと、怪しいなって」
「そう、よね。注意書きにも色々あるのよね。効き目がなくても責任取れないとか、その後の記憶障害に注意とか」
「何て怪しい薬なんですか!よく売ってましたね」
「まぁ、ギリギリのところでね」
「ギリギリと言うか、スレスレですね」
「そう、スレスレなのよ」
ラーメンを食べる手を止めて、ハァ、と溜息を吐く茜を見やって、王泥喜も釣られるように溜息を吐いた。
相談があるからと二人でやたぶきやにやって来て、ラーメンを食べている最中、茜はいつも肩に下げているバッグから怪しげな小瓶を取り出してみせた。どうやら、飲み薬が入っているらしい。その名は、ずばり惚れ薬。怪しいことこの上にない。ハイドロキシアセアニリドホスホモノエステラーゼ溶液よりも怪しい。
王泥喜が眉根を寄せると、茜はうーんと考え込むような素振りを見せた。
「でも、もし本当に効果があるなら、試してみたいと思わない?」
「……えっ」
茜の言葉に、王泥喜はどきりとした。はっきり言って図星だった。
こんな飲み薬一つで、本当に思い人が振り向いてくれるなら、と言う思いは心のどこかにあった。でも、薬なんかに頼っても、虚しいだけと言う気持ちもある。茜も、そうなのだろうか。ゆらゆらと手の中で揺れる液体をじっと見詰めて、ぼんやりしている。でも、そう思ったのは一瞬のことだった。
「でも、効かないと意味ないし、記憶障害も、怖いわよね。しかも一番最初に見た人にしか惚れないんですって」
「はぁ、そうですか」
何だ。悩んでいたのはそっちのほうか。こう言うとき、女の人って言うのは案外逞しい。
そんな暢気な感想を抱いていた王泥喜の耳元に、直後、とんでもない言葉が飛び込んで来た。
「と言う訳で、あんたには実験台になって貰うから」
「…………はい?」
「さっき、そのラーメンの中にたっぷりと入れておいたから、よろしくね」
「は、……い?」
「ええと、説明書によると、効果が現れるのはカガク的に言って十分後」
「ちょ、ちょっと!!何てことしてくれるんですか!!」
「つまりあと、十秒後ね、ちょっと、大人しくしてて」
「い、いやいやいや!」
喚く王泥喜を軽くいなしながら、茜は時計を見ながらうきうきしている。
冗談じゃない。何てものを飲まされたんだ。まさか、その惚れ薬が本物だとしたら、自分は茜に惚れてしまうのだろうか。
「ちょっと、茜さん!」
「あ、時間だわ!」
抗議の言葉を無視して告げられた茜の言葉に、王泥喜は思わずごくっと喉を鳴らした。
先ほどの彼女の言葉が真実なら、薬の効果が現れてから一番最初に見たのは、目の前の彼女だ。
でも。
「……」
「……」
数秒経っても数分経っても、王泥喜には何の変化も見られなかった。
「ど、どう?何か、変化はある?」
「い、いえ、何も、ないです」
「…………そっか」
やっぱり、そんな都合のいい話あるはずない。
二人は顔を見合わせて、どっと疲れを感じた。
その後。成歩堂にすぐ帰って来て欲しいと連絡を貰って、王泥喜は周りも見ず一目散に事務所を目指した。
彼にこんな風に呼び出されるのは、何も初めてじゃない。いつもいつも大したことない用事で王泥喜を振り回しているだけだ。でも、何故か無視出来ない。何故かって、王泥喜の好きな人はその成歩堂龍一だからだ。叶う見込みなんて少しもない、虚しい恋だ。でも、今日も王泥喜は一生懸命走ってしまう。
「成歩堂さん!今帰りました!」
辺りに響き渡る大声でそう叫びながら、王泥喜はバン!と事務所の扉を開けた。
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成歩堂龍一が、王泥喜法介を事務所に呼び戻したのは、つい先ほどのことだ。
みぬきが学校へ行っていなくて、お昼を一人で食べるのもつまらなかったから。ただ、そんな他愛もない理由からだ。それだけのはずだった。
それが、どうして今、こんな状況になっているのか。
「成歩堂さん」
「……っ、あ」
ぐい、と奥を突き上げられて、自分の声じゃないみたいな甘ったるい声が喉を突いて出た。
上に圧し掛かっているのは、王泥喜法介、先ほど自分が呼び出した彼だ。
そう言えば、いきなり彼の態度が急変したんだっけ。
少しずつ理性が削られていく中で、成歩堂は数分前のことを思い返した。
取り敢えず昼食を用意して貰って、いざご馳走にありつこうと言うときだった。突然、王泥喜が真剣そのものと言った顔をして、こちらを見詰めて来たのだ。しかも、妙に潤んだ目で。
(何だろう、その目は)
ちょっとだけ嫌な予感がしたけれど、知らないふりで、いつも通りだるそうに微笑んでみせた。
すると、彼はもっと側に身を寄せて来て、じっと下からこちらを覗き込んで来た。これは、ただごとじゃない。彼の言葉を、成歩堂は無言のまま待った。
そして、数秒後。
「あの、成歩堂さん、キスしても、いいですか」
「うん?」
ああ、何だ、キスか。そんな真剣な潤んだ目で言うから、何ごとだと思ってしまった。
(……って、……え?)
今、何て言ったっけ。確か、キスとか?どうして?
そう暢気に自分で突っ込みを入れている間に、王泥喜の顔がぼやけるほど至近距離に寄せられていた。
「ちょっと、オドロキく……」
名前を呼び終わる前に、むに、と柔らかい感触が目一杯唇に押し付けられ、目を見開く。
「ん、……ぅ?」
キス、されている。しかも、物凄い勢いで。
吸い付かれ過ぎて痛いくらいだ。かと思ったら、甘く柔らかく噛んだり、舌先が唇を割って中に入って来たり。好き放題してくれている。
一体、どうしたって言うんだろう。突き飛ばすのも可哀想だったし、別に嫌ではなかったので、成歩堂は彼の気が済むまでと思って、好きにさせていた。
いつの間にか腕が首筋に回されて、ぎゅっとしがみ付かれている。体も密着して、王泥喜の熱がありありと伝わって来る。
「ふっ、……ぅ」
しかも、濡れた舌先で敏感な場所を弄られて、思わず甘ったるい声まで上げてしまった。
その声に煽られるように、王泥喜の行為はますます大胆になる。
名残惜しそうに絡みついた舌先を解くと、彼の唇は首筋に移動して、そこにも柔らかい刺激を与え始めた。これには、流石に焦りが浮かぶ。
「オドロキくん?一体、どう言うつもりで」
二の腕を掴むと、力を込めて引き離した。どう言うつもりか知らないけれど、こんなにいたずらに刺激を与えられたんじゃ、こっちも困る。そのつもりがないなら、早々ににこんな戯れは終わりにして貰おう、そう思って。
でも、引き離された王泥喜は、相変わらず潤んだ目で、恨みがましそうにこちらを見詰めると、はっきりとした口調で言った。
「成歩堂さん、あなたを、抱きたいんです!」
「……え」
「お願いします!!大人しく俺に抱かれて下さいっっ!!」
「……!!」
そんな台詞と共に物凄い勢いで飛び付かれ、成歩堂は王泥喜ごと引っ繰り返って事務所の床にゴン!と頭を打ちつけた。
それからは、なし崩しだ。初めてなんだからちょっと加減して欲しいなんて泣きを入れそうになるほど、無茶苦茶に突き上げられて、喉が枯れそうなほど喘いだ。冷たい床に背が擦れて痛いし、がっちりと掴まれた内腿も小刻みに震えているけれど、王泥喜はまだ満足しないらしい。中に温かいものが放たれて、ようやく終わると思った直後、今度は裏に引っ繰り返されて、何度も揺さ振られた。
本当に解放される頃には、流石に満足に口も利けなくなっていた。喉はからからだし、声を上げ過ぎてひりひりする。何より、下肢が痛い。しかも、体はお互いのもので濡れて、卑猥なことこの上ない。
「オドロキ、くん」
ちょっと、水かなにか取ってくれ。そう言おうと、声を上げた瞬間だった。
目の前にあった熱と欲に浮かされたような目が、ハッと生気を取り戻した。そして、次に浮かんで来たのは、驚きと、恐怖に似た動揺。
「……あ、俺……」
「オドロキくん、きみ……」
うろたえる声に、先ほどまでの彼は正気ではなかったんだと、何となく気付いた。
「す、すみません。俺っ!あ、あなたに、こんな……、こんなこと……」
「いや、ぼくは別に……」
「す、すみません!!」
「……え、あ……」
「すみません!失礼します!!」
「オドロキくん!」
ガバ!と床におデコが付きそうなほど頭を下げると、彼は衣服をあたふたと直して脱兎の如く逃げてしまった。
ぴょんぴょん揺れる前髪が、本当にウサギみたいで可愛い。なんて暢気なことを思っている場合じゃない。
何だろう、これは。所謂、やり逃げ、ってものか。
三十三歳。曲がりなりにも人の親でもある自分が、やり逃げされるとは。何て世知辛い世の中だろう。
「はぁ〜〜」
未だに気だるさの残る体を引き摺って、成歩堂は一人でバスルームに向かった。
それから数日経ったけれど、王泥喜とは未だに顔を合わせていない。
あれから、避けられているような、そんな気がする。いや、気のせいなんかじゃない。電話を掛けても繋がらないし、事務所に顔も出さない。みぬきだって不審に思っている。どうしたものか。
まぁ、こっちが必死で動くのも可笑しいし何より面倒臭いので、成歩堂は成り行きに身を任せることにした。
そして、更に数日後。
「成歩堂さん、お久し振りです」
そんな言葉と共に、白衣の刑事が事務所に姿を現した。
「あれ、茜ちゃん。どうしたんだい」
「いえ、ちょっと、この辺りに来る用事があったので。成歩堂さんの顔が見たくて!」
「そっか、ゆっくりして行くといいよ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んだ茜を中へ迎え入れ、一緒にお茶を飲んでかりんとうを頬張った。そこで、成歩堂は茜からあのとき王泥喜の様子が可笑しかった理由を理解することになった。
「それで、あたしすっかり騙されて……」
「へぇ……、惚れ薬ね」
「全然効き目なかったんですよ。少しは期待してたのに」
「茜ちゃん、その説明書、まだ持ってるかい?」
「あ、はい。ちょっと待って下さい」
茜が取り出した紙切れを眺めて、成歩堂はうーんと唸った。
薬の効果が現れるのは、約十分後。ただし、個人差がある。人によっては三十分ほど掛かる。なんて書いてある。それに、効果が切れた後は、記憶障害に注意、なんて……とんでもないことまで書いてある。
とすると、王泥喜が事務所に戻って来てから薬が効き始め、あんな行為に出たのだとしたら、納得できる。その後、我に返ったように驚いて逃げ出したこともだ。
だとしたら、自分なんかに手を出してしまって、さぞ不本意だったろう。ショックで顔を合わせたくないのも解かる。
「どうしたもんかねぇ」
ぽつりと呟いてみたけれど、結局良い方法が解からなかったので、成歩堂はやっぱり成り行きに任せることにした。
けれど、その数時間後だった。
「あ、あの、成歩堂さん」
そんな声と共に、王泥喜が数日振りに姿を見せたのは。
「オドロキくん」
成歩堂が名前を呼ぶと、彼はぺこ、と頭を下げた。弾みでトレードマークの前髪がぴょんと跳ねて、やっぱりウサギみたいに見えた。でも、浮かぶ表情は悲痛だ。
「すみません……。俺、あなたを避けていました」
「……うん」
「茜さんに、薬を飲まされて、それで……」
「男に手を出しちゃって、怖くなった?」
それで逃げていたんだろう。想像はつく。
でも、彼は慌てたように首を横に振った。
「ち、違います!そうじゃありません、ただ!」
「ただ?」
「お、俺が、嫌がる成歩堂さんを無理矢理手篭めにしたのかと!」
「……ぶっ」
そこで、真剣な彼には悪かったけれど、成歩堂は思わず吹き出してしまった。
そんな握り拳を作って思い切り叫ばないで欲しい、そんなこと。成歩堂が肩を揺らして笑っていると、王泥喜はみるみる首まで真っ赤になった。
「そ、そんなに、笑わなくても!」
「い、いや、ごめん。でもきみがあんまり突拍子もないこと言うから……」
「だ、だって、そう思って、俺、怖くなって……」
「ごめんごめん、いや、安心してよ、オドロキくん。一応合意だよ、ぼくも嫌じゃなかった」
そう言うと、彼の表情がパッと明るくなった。
「そ、そう、なんですか……!」
何だ、男とあんなことをしてしまったことより、成歩堂を傷付けたと思って悩んでいたのか。何てお人よしで可愛いんだろう。
「まぁ、気にしなくていいよ、薬のせいなら、お互いもうあのことは忘れ……」
「違うんです!!成歩堂さん」
「……?」
言い掛けた言葉が、大音量の叫びに掻き消されて、成歩堂は目を見開いた。
何事かと続く言葉を待っていると、王泥喜はまた拳を握り締めて口を開いた。
「あの後、茜さんが、言ってました。あの薬、本当なら異性同士じゃないと効かないって」
「………」
「でも、茜さんには何の反応も出ませんでした。だから、あんなもの偽物だと思ってました。でも、俺が、あの、あなたのことが好きだったから」
「……え?」
「だからきっと、あんなに押さえが効かなくなるくらい効果が出てしまったんだと思います」
「オドロキくん、きみ……」
「すみません!俺のせいなんです。責任、取りたいんです!」
だから、と続けて、王泥喜はがばりと顔を上げた。
「好きです!!成歩堂さん!俺と、俺と付き合って下さいっっ!!」
「……!!」
次の瞬間。
以前と同じように物凄い勢いで飛びつかれ、成歩堂は王泥喜ごともんどりうって事務所の床に再び頭をゴツン!と打ちつけた。
「す、すみません。大丈夫ですか?成歩堂さん」
「うん、まぁ、ね。危うく、ぼくまで記憶障害になるとこだったよ」
「うう、すみません」
「いいよ、もう」
項垂れて反省している王泥喜を安心させるように、成歩堂は笑顔を作った。
「そ、それで、あの、こんなときになんですが、返事は……」
しどろもどろになりながら、王泥喜は成歩堂の気持ちを聞きたがった。
そりゃ、そうだろう。彼にとってはきっと、一世一代の告白だ。
(うーん、どうなんだろう)
今まで、そんな風に意識したことなかったから、自分の気持ちはよく解からない。
でも、王泥喜にあんな風にされたのは、全然嫌じゃなかった。もし他の誰かだったら、きっと頑張って抵抗していたに違いない。
そう思うと、それ以上悩むのが面倒になった。
「うん、いいよ、オドロキくん」
「……え」
「付き合おうか、ぼくと」
「な、な、な、成歩堂さん」
彼はぱくぱくと口を酸欠したみたいに動かして、それからまた首まで真っ赤になった。
「これから、宜しくね」
「はいっ!!ありがとうございます、成歩堂さんっっ!!」
「わっ、ちょ、ちょっと、オドロキく……」
凄い勢いで飛びついて来た王泥喜を受け止めて、成歩堂は再び事務所の床に頭を打ち付ける羽目になった。
終