ウザギとリンゴ




成歩堂が風邪を引いたとみぬきに連絡を貰って、王泥喜はなんでも事務所へと足を進めていた。
今日は休みだったのだけど、そう言うことなら仕方ない。みぬきは夜のショーに行っていないから、あの我侭な子供みたいな大人の男は、一人で塞ぎ込んでいるに違いないから。
知らず小走りになる足を諌めながら、王泥喜はもくもくと事務所へ向かった。

「成歩堂さん、大丈夫ですか?」
「オドロキくん、きみ、なんで」
「みぬきちゃんに連絡貰ったんですよ。今日は俺ここに泊まりますから、心配しないで下さい」

ぐっと両方の拳を握り締めながら言うと、ソファにだらしなく横になっていた成歩堂は、半分だけ体を起こして頷いた。

「ありがとう、オドロキくん」
「いえ、大丈夫です!」

そこまで言って、彼の顔色が優れないことに気付く。

(成歩堂さん。顔がミドリ色だ)

何だか、本当に心配になって来る。

「薬は飲んだんですか」
「まだだよ。食後って書いてるのしかないんだけど、食欲なくて、と言うか、食べ物がなくて」
「そ、そうですか」

昨日、何か買って冷蔵庫に入れておけば良かったかな。
そんなことを思いつつ、王泥喜は彼の顔をそっと覗き込んだ。

「あの、何か食べたいもの、ありますか?俺買って来ますから」
「じゃあ、キャビアかフォアグラ」
「へっ!?」
「冗談、だよ」
「こんなときに!止めて下さいよ、全く」

少し苛立ちながらびしっと人差し指を突き付けると、彼は俯いて、小さく呟いた。

「じゃあ、リンゴがいい」
「リンゴですか」

確かに、風邪にはいいはずだ。それならいい。

「待ってて下さい!俺、今買って来ますから!」

事務所中に響き渡る大声でそう言うと、王泥喜はサイフを握り締めて買い物に飛び出した。



それから、数分後。
物凄い勢いで買って来たので、すぐに事務所に戻って来れた。急いで買ったばかりのリンゴを洗って、素早く剥いて皿に乗せる。

「さぁ、どうぞ、成歩堂さん!」

はりきって言いながら、良い香りのするリンゴを目の前に差し出したのだけど。
ゆっくりと顔を上げてそれを見た成歩堂は、またソファに力なく突っ伏してしまった。

「……?成歩堂さん?」

どうしたんだろう。まさか、リンゴを食べる食欲もなくなってしまったのだろうか。
王泥喜が酷く心配する中、不貞腐れたような声が聞こえた。

「これじゃいやだ」
「え……」

(……は?)

聞き間違いかと思って、呆然としていると、彼の言葉は更に続いた。

「ウサギちゃんになってるのがいい」
「……」

え、ウサギ?ウザギちゃん?
いい年こいてちゃん付け?じゃなくて…。

物凄く動揺する内心を落ち着けて、王泥喜はすぅっと深呼吸をしてから口を開いた。

「あの、味は一緒だと思いますけど」
「いいや、違うね。全然違うよ」
「で、でも、折角剥いたの、勿体無いですし」
「きみが食べればいいじゃないか」
「あ、え…、ええ、まぁ…」
「ぼくはウサギじゃなきゃ嫌だよ」
「……」

あんまりな物言いに、王泥喜は怒る気もなくして絶句してしまった。

何だろう、この人は。風邪を引いて弱気になるとか、そう言う話はよく聞くけど。これじゃ逆だ。ちょっと暴君に近い。
そこまで思って、ハッとしたように慌てて首を横に振った。
いや、何を言っているんだ。風邪なんだから、仕方ない。成歩堂のためなら、リンゴの一個や二個、いや、十個だって二十個だって剥いてみせる。
王泥喜は気を取り直して、赤いベストを脱ぎ捨てると、半分ほど撒くってあったシャツを更に上まで捲り上げた。

そして、数分後。

「出来ました!成歩堂さん!」

王泥喜が差し出したお皿の上には、ウサギの形へと変貌したリンゴが数個乗っかっていた。それを見ると、今度は成歩堂も嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ありがとう、オドロキくん、食べさせてくれるかい?」
「ええ、勿論です!」

こくんと頷いて、王泥喜は握り締めたフォークにリンゴを刺して、成歩堂の口元へと運んだ。

「は、はい、どうぞ」
「うん」

ぱく、と成歩堂が王泥喜の手元からリンゴを頬張る。何だか、直接的に食べさせている訳じゃないのに、ドキドキしてしまう。
そんな中、本当に美味しかったのか、ウサギの形が気に入ったのか、成歩堂はあっと言う間にリンゴを全部食べてしまった。結構多めに剥いたのに。余程お腹が空いていたらしい。
リンゴがなくなると、成歩堂は何だか物足りなそうな顔になって、それから熱の為か潤んだ目でじっとこちらを見詰めて来た。

「もっと」
「え…」
「もっと食べたいなぁ」
「あ、でも…、リンゴもう一度買ってこないと、ないんです」
「ふーん…。じゃあ、ちょっと」
「え…?」

ちょいちょい、と手招きする指先に誘われるまま、王泥喜は成歩堂の方へと顔を寄せた。
途端、彼がぐっとソファから身を乗り出すのが視界に映る。
そして、次の瞬間。王泥喜の唇には、ちゅっと軽い感触が触れていた。

「………」

思わず、言葉と共に呼吸まで止まる。

「ごちそうさま、もういいよ」
「え…、あの」
「美味しかったよ、オドロキくん」
「いや…、え、ええと…」

な、何だ。今のは。
何で、何でキス!?

王泥喜が呆然としていると、成歩堂はこちらの様子に気付いて、ふふ、と小さく笑みを漏らした。

「きみのその頭、何だかウサギみたいだよね」
「………」

それが、何だと?

全く持ってよく解からない理由を述べ、成歩堂は一人満足したように頭から毛布を被ってしまった。

王泥喜の方はと言えば―。
リンゴを食べさせてあげた彼に、逆にばくりと頭から食われてしまったような気がして、それから一晩中落ち着かない気分だった。