林檎




(だるい…)

デスクの上にぐったりと突っ伏しながら、成歩堂は胸中で力なくぼやいた。
資料に目を通そうとすると、視界が歪む。
頭が重くて、ずきずきと痛む。
又矢張に風邪をうつされてしまったのだ。
はっきり言って、今日は仕事になりそうもなかった。

「もう、情けないなぁ、なるほどくんは」

明るく声を掛けながら、真宵がギザギザの頭を指先で突いて来る。

「ごめんね、真宵ちゃん」

呂律の回らない口調で言うと、彼女は不意に成歩堂の腕をぐいっと引っ張った。

「ほらほら、さっさとソファに横になる」
「え、でも…まだ仕事中…」
「いいから。どうせ、今日も来ないよ、お客さん」
「う、うん…」

確かに、そうかも知れない。
真宵に言われるまま、成歩堂はソファにどさりと身を投げ出して横になった。

「ちょっと待ってて。今あたしがリンゴ剥いてあげるから」
「え、大丈夫なのか?」
「何言ってるの!それくらい余裕だよ」
「そ、そう。あんまり、ムリしないようにね…」
「任せて、なるほどくん!」

少し得意げに言って、真宵はりきったように奥の部屋に消えて行った。



数分後。

「剥けたよ!なるほどくん」

リンゴや果物ナイフを乗せたトレイを片手に、真宵が顔を出した。
リンゴの形が少しだけいびつに見えるのは、成歩堂の視界が歪んでいるせいではないようだが…。
そんなことにはお構いなく、彼女はそのまま軽快な足取りでこちらに向かって歩き出した。
けれど、あまりに軽快だったせいか…。
側まで来た時に、いきなり躓いて大きくバランスを崩してしまった。

「きゃあ!」
「……?!」

悲鳴に驚いてそちらを見やると、彼女が手に持っていたトレイが、思い切りこちらに向かって吹っ飛ん来るのが見えた。

「…うわっ!!」

当然避ける暇も何もなく、次の瞬間、成歩堂の顔面にはリンゴがごつごつと音を立てながら降って来た。
お皿はそのまま床に叩き付けられ、ガシャーンと言う音と共に割れてしまった。

「……っっ!!」

しかも、とどめとばかりに、枕元にグサ!と果物ナイフが突き刺さり、反動でビーンと揺れている。
ナイフを間近で見つめて、成歩堂は血の気が引く思いだった。
危うく傷害事件になるところだった。

「あ、危ないな、もう!真宵ちゃん!」

思わず声を荒げたけど、すぐに返事はない。

「真宵ちゃん、聞いて…」

もう一度言おうと顔を上げて、成歩堂はぴたりと言葉を止めた。
目の前に広がる光景に、驚いて息を飲む。

「ごめんなさいね、なるほどくん」

いつの間にか、そこにいたはずの真宵の姿は消えていて、代わりに千尋の姿があった。

「ち、千尋さん…!」
「真宵ったら、咄嗟に呼んじゃったのね、私のこと」
「そ、そう…ですか」

突然の千尋の出現に、成歩堂は目を見開いて、上手く回らない舌で曖昧な返事を返した。
彼女が現れるのは本当にいつも急で、心の準備が出来ていないと言うか…。
いつもは裁判中だから、とにかく必死で、そんなことを考えている暇はないのだけど。
今日みたいなときは、どうして良いか解からなくなる。
成歩堂がやたらとどぎまぎしている間に、千尋はそっと床に屈み込んで、まだトレイの上に無事残っていたリンゴを指先で摘んでみせた。

「リンゴ、食べる?」
「あ…は、はい…」

思わず頷くと、千尋は手を伸ばして、それを成歩堂の口元にそっと押し当てた。

「はい、なるほどくん」
「……」

甘酸っぱい爽やかな香りが鼻先を擽る。
でも、このまま頬張ると、彼女の手から直に食べることになってしまう。
何だか妙に意識してしまって、成歩堂は一瞬固まってしまった。

「いらないの?」
「いえ、た、食べます」

少し口を開けると、ぐい、と口内にリンゴが押し込まれる。
同時に、唇に少しだけ彼女の指先が触れて、何だか訳もなく身を強張らせてしまった。

「どうかしたの?なるほどくん」

どうにも落ち着かない成歩堂に、千尋は首を傾げて、果物ナイフの柄でくいと顎を上げさせた。

「な、何でもありませんよ」

無理にでも千尋の方を向かされて、彼女に双眸を覗き込まれると、何だか全部見透かされているような気がする。

「どう?元気?と言っても、風邪を引いてるみたいね」
「は、はい」

ごくんとリンゴを飲み干して、成歩堂は居心地が悪そうに視線を泳がせた。

「あ、あの…。ナイフ、引いて下さい。怖いですよ」
「あら、そうね。ごめんなさい」

さも今気が付いたように千尋はにこりと笑みを浮かべた。

「ちょっと待ってて、お茶でも淹れるわね」
「…は、はい、ありがとうございます…」

絶対にわざとだ、と思いながら、成歩堂は少しだけ恨みがましそうな視線を送った。

「真宵とは、随分仲良しになったのね。もしかして、何かあった?」
「……!!」

差し出された湯飲みを受け取って、一口飲んだところで今度はそんなことを言われて、成歩堂はごふっとお茶を噴き出してしまった。

「ないですよ!そんなこと!千尋さんまで、春美ちゃんみたいなことを!」
「あら、はみちゃん、そんなこと言ってるのね」
「でも…その、真宵ちゃんには、随分と助けられていますよ」
「そう…、良かった。本当はね、少し心配だったのよ。あなたのこと」
「千尋さん…」
「でも、こんなに立派になっちゃって、何だか寂しいくらいね」
「そ、そんなこと、ないです。真宵ちゃんにはいつも振り回されているし、春美ちゃんにも会う度泣かされてますし…」

認めて欲しいのか、まだ甘えていたいのか、どっちなのだろう。
千尋への感情は、まだよく解からない。
しどろもどろになりながら言うと、彼女が笑ったような気配がした。
何でだろう。何だか、顔が上げれない。
いつ帰ってしまうか解からない人で、一秒だって多く見て目に焼き付けてしまいたいのに。
今、熱があって良かった。
頬が赤くても、誤魔化すことが出来る。

「あの、また…会えますよね?千尋さん」

ぎこちない様子で、俯いたまま声を上げると、ややして優しい返事が返って来た。

「勿論よ、なるほどくん」

そう言うと、彼女はそっと手を伸ばして、成歩堂の額に軽く触れた。

「今度は、私がリンゴ剥いてあげるわね」

彼女の指先はほんの少しだけ冷たくて、そこから僅かに熱が逃げる。
それがとても心地良くて、もっとずっと触れていて欲しいと思って、成歩堂は無意識に目を閉じた。



END