Second Attack
あの事件から数日が経ったある日。
王泥喜はどくどくと早まる鼓動を抑えながら、成歩堂龍一の前に立ちはだかっていた。
あれから。どうにかして、なかったことにしようとか、もう忘れてしまおう!とか。色々な努力を試みていたのだけど、どれも上手くいかなかった。
当然、だろう。相手はあの成歩堂だ。それに、もし本当にそんなことがあったなら、いつまでも逃げている訳にもいかない。
―ちゃんと責任取るよ、オドロキくん。
いつもの成歩堂からは信じられないけれど、そんな言葉まで聞くことが出来たのだし。いい加減、覚悟を決めないと。そんなこんなで。
「あの、成歩堂さん。あなたに話があります。この前の、ことで」
ぎゅっと拳を握り締めて話し掛けると、ソファの上でこれ以上ないほどリラックスしていた彼はゆっくりとこちらに顔を向け、気だるげな笑みを浮かべた。
「やっと話してくれる気になったんだね、良かったよ、オドロキくん」
その言葉に、きゅっと胸が締め付けられる。そうだ、これで良かったのだ。今まで逃げ回っていて、本当にすまないことをした。
「すみません。俺、心の準備が出来てなくて」
「いいよ、別に。てっきりあのまま逃げられると思ってたから、来てくれて嬉しいよ」
「そ、そんなこと!に、逃げるだなんて…!」
やりっぱなしで逃げるなんて、最低だ。いや、でもそもそもどっちがどっちか解からないから、こんなこと言うのは可笑しいかも知れない。
(ま、待てよ)
今の成歩堂の口ぶりから察するに、やっぱり自分が上だったのだろうか。
それに。彼の言う通りだ。自分は逃げ捲くっていた。その間、彼には本当に申し訳ないことをしてしまった。でももう、腹は括った。迷いはない。
「じゃあ、オドロキくん…」
「でも、その前に、一つだけ確かめたいことがあるんです」
「……?」
成歩堂の言葉を遮り、王泥喜はキッと強い眼差しを彼に向けた。先ほどよりも一層強く拳を握り締める。
一体、どっちが上だったのか!今確かめさせてもらう!
「成歩堂さん!」
「……!」
徐に呼び声を上げると、王泥喜は勢いを付けてソファの上に圧し掛かった。正しくは、ソファの上にいる成歩堂に。
急に寄せられた体温に、彼は驚いたように目を見開いた。でも、組み敷かれていると言うのに、一切抵抗はしない。
やっぱり…やっぱり自分が?
いやでも、これだけじゃ、解らない。
更に続けて行為を進めようとすると、彼から待ったが掛かった。
「ちょっと待った、オドロキくん。その前にぼくも、確かめたいことがあるんだけど…」
「だ、大丈夫です!成歩堂さんは何も心配しないでください!!俺が、責任取りますから!覚悟は出来てます!」
「オドロキくん…」
そう、覚悟は出来ているのだ。
前に成歩堂にその話を持ち出されたときは心底うろたえてしまったけれど、今は違う。
(そうだ、俺は…成歩堂さんと、け、け、け、結婚だって、してもいい!)
でも、何度も言うようだけど、その前に確かめたいだけなのだ。
すうっと息を吸い込んで再び口を開こうとすると、今度は成歩堂の声に遮られた。
「でもさ、オドロキくん」
「は、はい…」
気だるそうな眼差しに捉えられ、どく、と鼓動が跳ねる。彼は意味有り気な笑みで口元を綻ばせ、意味深な様子で口を開いた。
「いくら覚悟が出来ていても…先立つものがないと、ね」
「え……っ」
先立つもの?お金が、何だと…。
暫し思い巡らしたところで、ハッとした。
(そ、そうか!結婚式の費用!?)
「だ、大丈夫です!俺、何とかします!先生の事務所にいたとき、少しは溜めていましたし、これからだって…」
「そうか、良かった。じゃ、これに判子をお願いするよ」
そう言って、成歩堂は一枚の紙切れを王泥喜の目の前に翳してみせた。
(遂に来た!!!婚姻届け…!)
急激な展開にごくりと喉を鳴らす。けれど、こんなこともあろうかと思って、準備は万端だ!
王泥喜はスーツのポケットから印鑑を取り出すと、証拠をつきけるときのように振り上げた。
(くらえ…!!)
胸中で叫んで、バン!と印鑑を押してやろうと思った、直後。
目の前の紙に改めて目が留まり、王泥喜はぴたりと動きを止めてしまった。
な…何だ、この紙は?
これが婚姻届なのだろうか。何と言うか、ただの薄っぺらいメモ用紙に見える。しかも、よく目を凝らしてみると、成歩堂芸能事務所の文字が薄っすらと透けている。
(って、これは!)
どう見ても、成歩堂事務所のパンフレットの裏だ。
「な、何なんですか!これは!!」
「何がだい?」
からかうにも、ほどがある。
バン!とデスクを叩いて抗議すると、成歩堂はきょとんとしたように首を傾げた。
「やっぱり覚えてないんだね。これ、よく見てくれるかな」
「え……?」
首を傾げつつも、じっと紙切れを見詰めると、そこには一番上にドンと”誓約書”の文字。そして、『グラス代10個分』やら『カーペットのクリーニング代』やらの代金が細かに書かれていた。そして、文末には―上記の代金を支払うと誓います。王泥喜法介―の文字が。
「な、何ですか、これ…」
「だから、あの夜の、だよ。きみにも払って貰わないと困るから…こうして書いてみたんだけど…判子、貰えるかい?」
「……??」
本当に何が何だか、と言う顔の王泥喜に、成歩堂はようやく誤解があることを悟ったのか、ぽつぽつとことの経緯を話してくれた。
数分後。
「あはは!そっか、それできみ、そんなに」
「そ、そんなに笑わないで下さいよ!!」
誤解が解けたのは良いのだけど、お腹が捩れそうなほど笑っている成歩堂を前に、王泥喜は顔から火が出るような心境だった。
「あ、あなたがいけないんですよ!お、思わせぶりな話し方しかしないから!」
「ごめん、ごめん、悪かったよ」
言いながらも、彼は涙を流して爆笑している。全く、冗談じゃない。こっちは思い悩んだ末に先走って、押し倒したりなんてしてしまったのに。
「もう、いいですよ!それ、全部俺が払いますから、貸して下さい!」
成歩堂の手からメモをひったくって、王泥喜はそれをポケットにしまいこんだ。そのまま、逃げ出すように事務所を出ようとすると、再び彼から待ったが掛かった。
「ちょっとさ、待ってよ、オドロキくん」
「何ですか!まだ笑い足りないんですか!」
「いや、そうじゃなくてさ」
本当に笑うのを止めて首を横に振ると、成歩堂はゆっくりと立ち上がって、王泥喜の側へと歩み寄って来た。
「な、何ですか?」
警戒心丸出しで睨み付けると、彼はニット帽の下から覗いた双眸に、子供のように悪戯っぽい光を湛えた。
「で、きみはさ…どっちだと思ってたんだい」
「へ……」
「どっちが、上だと思ってたのか、ってことだよ」
「……!!」
「気になるから、知りたいんだけどなぁ…。教えてくれないかい」
「な……っ!」
突然の台詞に、カァっと頬が赤く染まる。
こんなときに、何を言い出すのか。
でも。もう、ここまで来たらヤケだ。
王泥喜は一度大きく深呼吸をして、それから思い切って口を開いた。
「お、俺は……」
「うん?」
「俺は、自分が上だと、思ってました!そ、そうだったら、いいかな、って…」
「……へぇ」
(う……)
言ってから、しまったと思った。
また笑われる。そうに違いない。
居た堪れなくなって、身を翻そうとした直後。
ぐい、と腕が掴まれて、王泥喜の体は成歩堂へ向けて思い切り引っ張られた。
「な、成歩堂さん?!」
目を見開く王泥喜にお構いなく、彼は耳元に唇が触れそうなほど寄せると、そっと囁いた。
「ぼくもだよ」
「……?!」
「ぼくも、そうだったらいいと思うよ」
「……な、な……っ」
あまりのことに、それ以上は言葉が出ない。
耳まで真っ赤に染まった王泥喜を置いて、成歩堂はそのまま身を離し、何だか楽しそうに鼻歌を歌いながらソファへと戻って行った。
今のは一体、どう言う意味ですか!とか。どこまで本気なんですか!とか。
色々な言葉が浮かんでは消えたけれど、一つも口に出来ないまま、王泥喜は事務所を飛び出した。
折角、色々覚悟を決めてこの日に臨んだのに。
また仕切り直しになってしまった。
(でも……)
あんなことを言われて、このまま引き下がるなんて、出来ない。
彼がそう言うなら、証明して貰おうではないか。今はちょっと心の準備が出来ていないから、又の、機会に。
ポケットの中に無造作に突っ込んだメモを改めて握り締めて、王泥喜は再び決意を新たにした。
終