白い夢の終わり2
「わたし…少し疲れたわ」
それから暫くの間、どちらともなく手を繋いであちこち歩き回っていると、やがて彼女が言った。
「あ、ああ。じゃあ、どこかお店に入ろうか。何か食べるかい?」
そう言えば、ずっと歩きっぱなしだ。
人ごみにも疲れてしまったのかも知れない。
優しく尋ねると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「わたし、おじさまのお家に行きたい。駄目?」
「え、ぼ、ぼくの?」
「うん」
「で、でも、ぼくの部屋散らかってるし、ここみたいに賑やかじゃないよ?」
「いいの。わたし、行きたいわ」
ぎゅっと、繋いだ手に力が籠もる。
(参ったな…)
いくら何でも、葉桜院の人だってそろそろ気付くだろう。
騒ぎになっていないと良いけれど。
「大丈夫よ、誰もわたしたちを探したりしてないわ」
「え……」
心の中を読み取るような台詞に、思わず息を飲む。
成歩堂が目を見開いて見詰めると、少女はこちらを安心させるように、にこりと笑って見せた。
結局、連れて来てしまった。
普通のマンションの一室。
その中に足を踏み入れると、少女は珍しそうに辺りを見回した。
「ふぅん、ここがおじさまのお部屋なのね」
「ごめんね、散らかってるだろ。何か飲み物入れるから、その辺に座ってて」
床に散らばった衣服や本を慌しく掻き集めて、成歩堂はコップを二つ取り出した。
もう、何時間経っただろう。
明確な時間の感覚がないけれど、もうそろそろ、本当に不味い。
これを飲んだら、連れて帰ろう。
「はい、これ」
カップに注いだジュースを手渡すと、少女は美味しそうにそれを少しずつ飲んだ。
コトン。
小さな音を立てて、空になったカップがテーブルの上に置かれた。
もう、タイムリミットだ。
いつまでもこうしている訳にはいかないのだから。
軽く深呼吸して、成歩堂は口を開いた。
「ねぇ、きみ、そろそろ…」
「おじさま…!」
「……!」
途端、こちらの言葉を遮るように上がる、大きな声。
意表を突かれて目を見開く。
「どうかしたの?」
顔を覗き込むと、少女は突然立ち上がって、成歩堂の目前に全身を晒す様に両手を広げてみせた。
「もっと…楽しいことしない?わたしと」
「……え?」
何を言っているのだろう?
考える暇もなく、成歩堂の視線は目の前の少女に釘付けになった。
少女の雰囲気が、今までと全然違う。
服を買って貰ってはしゃいでいた無邪気な面影は、もうどこにもない。
完璧な人形のように整った綺麗な顔と、怪しく艶やかな笑み。
まるで、それに体の動きを奪われてしまったように、成歩堂は息を詰めて目の前の少女を見詰めた。
「例えば…こう言うの、嫌い?」
「……?」
鈴の音のような声の後、する、と音がして、細い肩紐が白い肩口から抜け落ちた。
(……え)
今、一体何が起きているのか。
認識するまで酷く時間が掛かった。
まるでスローモーションでも見ているように、先ほど買ってあげたばかりの白いワンピースが、音もなく床に落ちる。
続いて、更に衣擦れの音が聞こえて、成歩堂はただ目を見開いて息を飲んだ。
「どうしたの、おじさま?そんなに驚かないで」
「…っ、…」
細い足が、こちらに向けてゆっくりと動き出すのを、制止することが出来ない。
目の前にあるのは、既にあどけない少女の無垢な笑顔ではなかった。
怪しい魅力に溢れた、甘美な笑みを湛えた、綺麗な色の唇。
その唇がゆっくりと開いて、誘うような甘い声を発した。
「わたしね、得意なの。こう言うの…」
「……!」
毒でも飲み込んだときのように、急激に息が詰まって、苦しくなった。
何だ。一体、何が起きているのだ。
喉が渇いて、上手く言葉が出ない。
「だ、駄目だよ…そんな…」
掠れた声で、やっとのことでそれだけ言ったけれど、少女には届かない。
尚もこちらへ一歩一歩足を進めながら、少女はまるで他愛もない玩具をねだるときのように、小さく首を傾げた。
「だから、ね…。お願い…」
「…っ!!だ、駄目だ!!」
体の動きを奪っていた呪縛を解くように声を張り上げると、成歩堂は素早くワンピースを拾い上げて、少女の肩に羽織らせた。
そのまま思い切り少女に背を向け、腹の底から絞り出すように、必死な訴えを上げた。
「駄目だ、こんなことは!こんなこと、二度としちゃいけない…!」
「……」
少女から、すぐに返事はなかった。
ただ、いつか聞いたように、長い溜息が聞こえて。
それから、何の感情も籠もらない声が耳元に聞こえた。
「…じゃあ…どうすればいいの?」
「きみ…」
「帰るつもりなんでしょう?あんたの、場所に…」
「……!?」
どう言う、意味だろう。
確かめる為に、振り向いた直後。
急にどこからともなく溢れた霧で視界が曇り、目の前が真っ白になった。
少女の姿以外は何も見えなくなって、その後、目前に広がっていた光景が一変した。
何だか、見覚えのある場所。
ここは、知っている。
(おぼろ橋?!)
どうして、いつの間に、こんなところに。
たった今まで、自分の部屋にいたはずなのに。
「許さない…」
「……?!」
煙に包まれたような気分の中、低い声が聞こえてハッとする。
「きみ……」
両の目に映し出されたのは、あの、少女の姿だ。
彼女は呪うような声で何事か言いながら、先ほど成歩堂の部屋でそうしたように、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た。
ただならぬ雰囲気に驚いて、咄嗟に逃れるように一歩後ずさる。
けれど、すぐに背中に橋のワイヤーの感触がして、逃げ場はなくなってしまった。
正面を向くと、少女の冷たい瞳は未だ真っ直ぐにこちらを見上げていた。
そして、真っ白なその手がゆっくりと持ち上がって、自分を捕えようと伸ばされる。
「く、来るな…」
言いようのない恐怖が込み上げて、成歩堂は緩く頭を打ち振った。
少女はまだ何事か呟いている。
自分の心臓の音が煩くて、よく聞こえない。
けれど、手が届く距離まで近付くと、ようやくその声が聞こえて来た。
「許さない…」
「……!!」
「許さないわ、リュウちゃん」
「……っ!!」
何かで殴られたような衝撃。
同時に、頭の中に色々な光景が浮かび上がって来た。
『お姉さま!ちなみお姉さま!』
そう呼ぶ、少女と同じ声と、橋の真ん中に落ちていた弁護士バッジ。
そうだ。思い出した。
彼女は・…あの“彼女だ”。
「リュウちゃん。あんたも、アタシと…」
先ほどよりも濃い霧が辺りに溢れ、もう少女の姿を見ることも出来ない。
でも、見えなくても、解かる。
「きみ、は…」
視界が塞がれている中、声のする方に向け、成歩堂はゆっくりと手を伸ばした。
数秒後、差し出した指先に冷たい感触が伝わり、そのまま体を引かれてバランスを崩した、途端。
別の方向から強い力に引き上げられて、成歩堂は我に返った。
「成歩堂!」
同時に、自分を呼ぶ力強い声。
顔を上げると、よく見知った顔が険しい表情で自分を覗き込んでいた。
「……!み、つるぎ…?」
「何をしているのだ!また落ちるつもりなのか、きみは!」
「あ、…え…?」
言われて、成歩堂は今にも橋から落ちそうなほど身を乗り出していたことに気付いた。
「お前、何で…」
「たまたま、帰国していたのだが…事務所に寄ったとき、真宵くんに聞いたのだ。きみが又おぼろ橋に行くと行って、そのまま帰らないと」
「……え」
そうだったか。
いや、確かにそうだった。
「真宵くんは、かなり心配していたぞ」
「そ、そうか、ごめん…」
「…もう一度確かめると言っていたそうだが、一体何のことだ。あの事件なら、もう終ったのではないか」
「あ、ああ…そう、だったな」
どこか上の空な成歩堂の様子に、御剣は怪訝そうに眉を寄せた。
「…何か、あったのか?」
「いや、何でもないよ…」
「だが……」
「何でもないんだ、帰ろう」
穏やかに言って、成歩堂は御剣の背を押した。
「車まで、少しある。歩けるか?」
「大丈夫だよ。すまない…」
「いや…。霧が濃い。気を付けろ」
「うん……」
何か言いたげだったが、彼はそれ以上何も言わなかった。
御剣が乗って来た車に乗り込むと、成歩堂は頬杖を突きながら、ぼんやりと窓の外を見詰めた。
御剣の言う通り。全ては終わったことだ。
全部、霧の中で見ただけの夢だ。
「もう終ったんだよな…。ちなみさん…」
小さく呟く声は、誰の耳に留まることもなく、そのまま霧の中に吸い込まれるように消えてしまった。
END