スレイブ




「……リュウちゃん」

自宅への帰り道。
不意に、背後から自分を呼ぶ声がして、成歩堂龍一は足を止めた。
気のせいかとも思ったが、何と無く予感がして振り向いてみると…。

「あれ、ちいちゃん?!ど、どうしたの?」

数十分前に別れたばかりな筈の、大好きな彼女がそこに立っていた。
華奢で可憐で、この世で一番可愛いと信じて疑わない彼女、美柳ちなみ。

「ごめんなさい、リュウちゃん。何だかまた会いたくなって、戻って来てしまいましたの。もう少し…一緒にいて下さるかしら?」

そう言うと、彼女はにっこりと可愛らしい笑みを浮かべた。



「ねぇ、リュウちゃん。やっぱり、ペンダントは返して頂けないの?」

二人で並んで歩いていると、又彼女が何度目になるか解からないことを尋ねて来た。
彼女が言うペンダントは、実際に今成歩堂の首から下がっているもので、半年前にプレゼントされたもの。
しかも、運命の日に。
そんな大事なもの、幾ら彼女の頼みでも、おいそれと渡すことは出来ない。

「ごめんね、ちいちゃん、そればっかりは…」
「……そう」

申し訳なさそうに謝ると、彼女は少し気落ちしたように顔を伏せた。

「それは…残念…」
「……え?」

語尾が聞き取れなくて聞き返すと、彼女はそれには答えず。
突然、その白い手を成歩堂へ向けてゆっくりと差し出し、ぴた、と額に触れて来た。

「ところで、リュウちゃん…。本当に酷いお風邪を引いてらっしゃるのね」
「え…。う、うん…そうだね。ちいちゃんにうつらないといいけど…」

受け答えをしながらも、顔を覗き込むちなみに、成歩堂は何故か…少しの戸惑いを感じた。
優しい手つきで触れた彼女の掌が、何故かとても冷たく感じられて。
一瞬、その感触に、何故か動けなくなってしまったのだ。

「どうしたの?リュウちゃん」
「い、いや、何でもないよ」

こちらの態度を不審に思ったのか、ちなみが不思議そうに首を傾げるのに気付いて、慌てて首を横に振る。
きっと、彼女から自分に触れて来るなんて、滅多になかったから、嬉しくて動けなかったんだろう。
よく言うじゃないか、痺れるような恋、みたいな…。

「リュウちゃん、お薬は?ちゃんと飲んでらっしゃるの?」
「うん、大丈夫だよ、ちいちゃん。ちゃんとカゼゴロシ・Zを毎日飲んでるからね」
「カゼゴロシ…Zを…。そう、でしたの」

何故か妙に納得したうように呟いて、彼女はふふ、と小さく声に出して笑った。

「明日また、お昼をご一緒しましょうね、リュウちゃん」

その日。
最後にそう言い残して、彼女は成歩堂の元を去って行った。



そして、その翌日。
あの、恐ろしい事件が起こった。
大学の構内で、呑田と言う男が殺された。
第一発見者は、驚くべきことに、美柳ちなみだった。
そして恐らく、疑われるのは…この自分。
雨で濡れた冷たい地面にへたりこんで、二人は警察が来るのを待っていた。
集まってきた大学生たちは警察を呼びに行ったり人を呼びに行ったりしているのか、閑散してしまって、今はあまり人気がない。
そんな中、ちなみは涙に濡れた目を成歩堂に向けた。

「お願い、リュウちゃん。わたしのこと、誰にも言わないで」
「え、で、でも…」

そんなことが許されるのだろうか。
それに、そのことが自分の立場にどんな影響を及ぼすのか。
この状況で、一体どんな判断をすべきだったのか。
まだしがない大学生だった成歩堂には、解かる筈もない。

「お願い、リュウちゃん…」

けれど、綺麗な目にいっぱいの涙を溜めて懇願され、成歩堂は即首を縦に振った。

「大丈夫だよ、ちいちゃん。ぼくに任せて」

そう言うと、ちなみはようやく平静を取り戻したようで、成歩堂の手を取って両手で握り締めて来た。

「ありがとう、リュウちゃん」
「う、うん…」

その言葉に頷いてみたものの、不安は消えない。

どうして、ぼくが…こんな。
ぼくじゃない、ぼくは…。

「リュウちゃん…」
「……?」

沈黙して青褪める成歩堂の手を、不意にちなみが力を込めて握り返して来た。

「…震えているわ。怖いのね…、リュウちゃんも…」
「え?い、いや、大丈夫だよ、このくらい!」

明らかに動揺を隠せない態度で強がると、不意に、彼女の白い腕がこちらに向かって伸ばされた。
それを視界の中で確認するかしないかの間に。
ぐい、と引き寄せられて、成歩堂はちなみの胸元に顔を埋めていた。
母親が小さな子供を抱き締めるような、そんな体勢。

「ち、ちいちゃん…」

呆然としたまま呟くと、ちなみの白い手が成歩堂のギザギザの頭をあやすように優しく撫でた。

「大丈夫よ、リュウちゃん」
「……?」
「わたしが、守ってあげますわ」
「ちい…ちゃん…」

頭の奥に直接響くような、不思議な優しさの籠もった声。
急に、不安が嘘のように溶けて行くような気がした。

美柳ちなみ。
彼女さえいれば、何も怖くない。
何もなくていい。
彼女こそ、正しい。

その時、この異常な状況で、成歩堂は本気でそう思った。

「だから、リュウちゃんもわたしのこと、ちゃんと守って下さいね」

彼女の声に導かれるまま顔を上げ、力強く頷く。

「勿論だよ、約束するよ。ええと…この、ペンダントに懸けて!」

何が何でも、きみのこと守ってあげる。
そう言うと、成歩堂を抱き締めていた腕が、するりと解けた。

「ありがとう、リュウちゃん」

そう言って、にっこりと微笑んだ彼女、ちなみは。
この半年間に見たどんな表情よりも、一際気高くて、完璧なほど美しくて。
成歩堂の両目に、強烈にその姿を焼き付けた。
五年経った今でも、自分はまだ、あの鮮明な光景を忘れることが出来ずに。

そうして、成歩堂龍一の中の美柳ちなみは、あの瞬間こそが、全てになった。



END