スレイブ2




「ちいちゃん…?どうしたの?」

目を丸くして、そんな言葉を吐きながら、こちらに向かって走り寄って来る人物。
何ヶ月か振りに会う成歩堂は、初めて会った時と、殆ど変わっていなかった。
お人よしそうな顔、緩んだ表情。相変わらず、癪に障る。
変化があるとすれば、二つほど。
まずは、凄いデザインのセーターを着ていること。
大きなハートのマークにローマ字のネーム入り。
そのセーターは、ちなみを心底うんざりさせたけれど。
もう一つ。
あやめが数日前から心配して愚痴を溢していた通り、彼は見事な風邪を引いていた。
こっちの方は、使えるかも知れない…。

「ところで、リュウちゃん…。本当に酷いお風邪を引いてらっしゃるのね」

そう言いながら、手を伸ばして額に触れると、成歩堂は少し身を硬くした。

「……?」

何だか、一瞬だけ怯えたような反応に、ちなみの表情が曇る。
どうしたと言うのだろう。

「どうしたの?リュウちゃん?」
「い、いや、何でもないよ」

尋ねると、彼は慌てたように首を振った。
気のせいだったのだろうか。
何か、気付かれたかも知れない何て。
頭に浮かんだ懸念を追い払って、ちなみは再び口を開いた。

「リュウちゃん、お薬は?ちゃんと飲んでらっしゃるの?」

あくまでさりげなく、恋人を心配している健気な女を装って。

「うん、大丈夫だよ、ちいちゃん。ちゃんとカゼゴロシ・Zを毎日飲んでるからね」
「そうでしたの…」

(カゼゴロシ…Z…)

すぐに返って来た暢気な返事に、内心で笑みを溢した。
それを聞き出せば、もう彼に用はない。

(嬉しそうな顔しちゃって…バカな男…)

成歩堂に気付かれないように、胸中で冷ややかな呟きを漏らすと、ゆっくりと髪の毛を掻き上げる。

「明日また、お昼をご一緒しましょうね、リュウちゃん」

そう言って、彼と別れ、ちなみは明日訪れる運命の日を待った。



翌日。
成歩堂の風邪薬を盗み出すまで、全ては完璧だったのに。
ある男の出現で、計画はゆっくりと狂い出してしまった。
呑田が、あろうことか…成歩堂にちなみのことを忠告しに来たのだ。
幸い、成歩堂は彼の言葉を聞き入れることはなかったのだけど。
これ以上、彼を生かしておくのは危険なことだった。

「ノンちゃん・・・」

地面に突っ伏しているその人物に、感情の籠もらない声で呼び掛ける。

「迂闊に…人のものにちょっかいを掛けるから、こうなるのよ…」

冷ややかに告げると、側に屈んで、息があるかどうかを確かめた。
やがて、送電線が切れた為だろうか。
人の声が遠くてで聞こえ出した。
まずい…。
ちなみは急いで薬のビンを取り出すと、呑田の手の中に握らせた。

「ちいちゃん…」
「……?!」

不意に、呼び掛けられて振り向くと、いつの間に戻って来たのか、背後に成歩堂が立っていた。

「リュ、リュウちゃん…」

咄嗟に、わっと泣き崩れてみせる。
呑田を惜しむように、瓶を持たせた手を握り締めて。
でも、演技するまでもなかったようだ。
成歩堂は、涙を溜めて懇願するちなみの要望を、あっさりと聞き入れてくれた。
きっと、酷く混乱しているのだろう。
警察が来る前に、自分はここを去らなければいけなかったけど。
少しの間二人で座り込んでいると、ふと、彼の震える手が見えた。
怯えている……。
彼にしてみれば、当然だろう。
でも、自分は違う。
こんな状況であろうと、ちなみは何も感じない。
たった今犯した恐ろしいことも、間近で雨に打たれたまま倒れている呑田の姿も。
何も、心を揺るがすものではない。
その筈だったのだけれど…。
雨の雫が滴り落ちて、怯えきった成歩堂の頬を伝っている。
それが、幾つも幾つも零れる涙のように見えて。
不意に…意思とは関係なく、ちなみの手は真っ直ぐに伸びて、彼に触れていた。
そこから先は、何故か勝手に言葉が出た。

「震えているわ…。怖いのね、リュウちゃんも」
「え?い、いや、大丈夫だよ、このくらい!」

裏返った声で一生懸命に叫んでいる。
こんな状況だと言うのに、何故だか…口元が綻ぶような気がした。
それが嘲笑だったのか、微笑みだったのかは解からないけれど。
徐に、ちなみは両腕を伸ばして、成歩堂の頭を抱き寄せた。
驚いたのか、咄嗟に抵抗しようとする力にお構いなく…胸元に顔を埋めさせるように、強く引き付ける。
そして、とても優しい声で囁いた。

「大丈夫よ、リュウちゃん…。泣き虫のリュウちゃん…」

あやすような仕草で、繰り返し頭を撫でる。
ギザギザの髪の毛に、白い指先を遊ぶように潜らせる。

「ち、ちいちゃん…」

胸元に顔を埋めたままで、成歩堂が息を飲むのが解かった。

「わたしが、守ってあげますわ」
「ちい…ちゃん…」

それは、どんな気付け薬よりも、効果てき面だったらしい。
成歩堂の震えは少しずつ治まり、冷たく冷え切っていた手はぬくもりを取り戻して、逆にちなみの手を握り返して来た。
それは、当然のことだろう。
どんな理由であれ、この自分が、本気で慰めたのだから…。
こんな気持ちで誰かを抱き締めたのは、初めてのことだった。
けれど、計画を忘れた訳ではない。
可哀想な彼に、釘を刺すことも忘れなかった。

「だから、リュウちゃんも…わたしのこと、ちゃんと守って下さいね」
「勿論だよ、約束するよ!ええと…この、ペンダントに懸けて!」

成歩堂が力強く叫ぶのに、満足そうに頷く。

(それでいいのよ、リュウちゃん…)

―だって、あんたは…。
そこまで思い巡らして、ふと…先ほど呑田に投げ捨てた台詞を思い出した。

『迂闊に、人のものにちょっかいを掛けるから…』

さっきは何気なく口にしただけだったけど。

(そうよ…だって…)

そこで、ちなみは成歩堂を抱き締める腕をするりと解いた。
途方にくれた子供のような顔の彼に、真っ向から向き直る。

「ありがとう、リュウちゃん…」

そう言って、ちなみは初めて、心の底から偽りのない笑みを浮かべた。



あやめのものでも、なんでもない。
彼の命は、彼のものですらない。
成歩堂龍一は、最初に出会った瞬間から、自分の…。
彼を虜にした、この…美柳ちなみのものなのだから…。



END