失墜
「どうしたの、ナルホドちゃん」
「……」
「久し振りだね、キミと会うのは」
「……はい」
目の前にいる人物。
実際、何日ぶりに聞く声だろう。
顔を合わせていたのは少し前のことだと言うのに、何だか随分と久し振りな気がする。
双眸に映し出されたその姿は、当然、以前よりやつれたような印象はあるものの、未だ眼光に衰えはなかった。
分厚い硝子に遮られてはいるけれど、この男の目に、今の自分はどう映っているのだろう。
じっと見詰める視線に耐えられなくて、成歩堂はそっと顔を伏せた。
彼に会うつもりなんか、絶対になかったのに。
気が付いたら、勝手に足がここへと向いていた。
そのまま、力なく四肢を投げ出すように椅子に腰掛ける。
少しの沈黙の後、巌徒は再び含みのある言葉を発した。
「キミがどうしてここへ来たのか、ボクには解かるよ」
「……!!」
「ボクの言った通りになったね、ナルホドちゃん」
「巌徒さん……」
「覚えてる?あのときキミに言ったこと」
「……」
彼が何を言いたいのか、あの時とはいつのことなのか、すぐ解かった。
恐らく、あの日のことに間違いない。
あの時。体に刻み付けられた感覚。
痛みと痺れと、胸を妬く様な罪悪感が、吐き気を伴って胸の内に込み上げる。
鮮明に浮かび上がった場面に、成歩堂は無意識に口元を手の平で覆った。
「御剣、み、つるぎ……っ」
ここにいない人物の名前が、勝手に唇を突いて出る。
熱に浮かされたように、悪い夢に魘されているように、自分は無意識に彼の名前を呼んでいた。
でも、目の前にいるのはその彼ではない。
「そんなに呼んでも、彼は来ないよ」
揶揄するような声が降って来て、革の手袋をはめた指先が、涙の滴る成歩堂の頬をするりと撫でた。
「第一……彼が来て、見られていいのかな、こんなとこ」
「……んっ!」
軽く腰を揺らされて、喉が仰け反る。
「ナルホドちゃん」
「……っ」
つ、と無防備な喉元を指先でなぞられて、成歩堂は引き攣った声を漏らした。
ゆっくりと肌の上を這う革の感触に、体中をざらついたもので弄られるような違和感を覚える。
息が詰まって、仰け反った喉が小さく鳴った。
「ミツルギちゃんがキミを選んだの、よく解るよ。キミのその、真っ直ぐ過ぎるところとか汚れてないところとか……堪らないよねェ、本当に」
彼は、何を言っているのだろう。
曇り掛かった視界と痺れた思考のせいで、耳に届く言葉の意味は半分も理解出来ない。
「でもね」
それが解かっているだろうに、巌徒局長は尚も言葉を続けた。
「彼はいつか、キミといるのが苦痛になる。少しの捻れもないキミの前で何もかも曝け出されるのが怖くて、彼はいつか逃げ出すよ、キミの前から」
「な、んで……そんなこと……」
得体の知れない恐怖に襲われて、成歩堂は顔を上げた。
問い掛けるような視線に、巌徒は満面の笑みを浮かべてみせた。
「ボクにはよく解る。ミツルギちゃんとボクは、よく似てるから」
「巌徒さ……」
優しいと思えるほどの柔らかい声で、彼が言う。
子供に言い聞かせるような口調にも聞こえた。
その声に、思わず緊張が解け、体の力が抜ける。
けれど、次の瞬間にはその目に鋭い光が宿り、成歩堂の両腿を掴む指先に力が込められた。
「だからさ、きみをこうしたいって気持ちも、本当にとてもよく理解できるよ」
「ぁ……っ!」
ぐっと奥まで突き上げられて、掠れた声が上がる。
「キミをこうして征服していると、何故かとても安心出来る。でも彼はきっと、こうする度にそれよりも酷い罪悪感を抱いているよ」
「……っ、う!」
喉の奥が焼け付き、乾いた声を上げながら、成歩堂は眉をきつく寄せた。
罪悪感?
(そんなの……)
それを抱いているのは、自分の方だ。
彼以外の人物にこうして組み敷かれて体を投げ出しているのだから。
それ以上のものなんて、きっとない。
何も、解らない。
けれど、そのまま容赦なく続けられる律動に、成歩堂は考えることを放棄してしまった。
いつか、御剣が自分の前から逃げ出す。
その言葉だけが頭の奥に張り付いて、いつまでも離れなかった。
そして、その通りになった。
あの晩のことは、今でも、思い出すと体が震える。
それなのに、どうしてここへ来てしまったんだろう。
黙り込んだ成歩堂に、巌徒局長・・・元局長は真っ直ぐな視線を向けて来た。
「あの時あんなに汚してあげたのに、次の日にはけろっとしてて、容赦なく追い詰めてくれたよね」
「……」
「それなのに……。今のキミ、まるで死にそうな目をしてるよ、ナルホドちゃん」
余程、ミツルギちゃんの存在が大きかったんだね。
今度は揶揄する様子などなく、巌徒は溜息のような声でそう言った。
返す言葉が見付からない。
まるで抜け殻のような成歩堂の様子を巌徒は黙って見詰め、顎の骨をそっと親指の腹でなぞった。
「それより……ボクに聞きたいことがあったんじゃないのかい?ミツルギちゃんのことで」
御剣。
彼の名前に反応して、成歩堂は反射的に顔を上げた。
そうだ。彼に聞こうと思ったのだ。御剣のことを。
「あの……」
上手く回らない舌を必死に動かして、成歩堂は声を上げた。
「巌徒さんには、解かるんですか?何故、あいつがいなくなったのか」
彼は、自分で言った。御剣と自分が似ていると。
だから、あんな短い言葉だけ残して御剣が消えた訳も、何か解かるのではないか。
意識のどこかで、そう感じていたのかも知れない。
けれど、縋るような声に反して、返って来たのは素っ気無い返事だった。
「それは……もし解かったとしても、教えてあげる義理なんて、ボクにはないよね?違うかな」
「……」
それは、そうだ。
知っていたところで、すんなり教えて貰えると、思っていた訳でもない。
「そう、ですね……」
力なく項垂れ、そのまま席を立とうとすると、静かな呼び声が掛かった。
「ああ、ナルホドちゃん」
「……?」
「一つだけ聞きたいんだけど……」
顔を向けると、以前と変わらない、威圧感と自信に満ちた双眸が見えた。
その中に映る自分があまりにちっぽけでみっともない気がして、何だか居た堪れない気持ちになる。
視線を合わせない成歩堂にお構いなく、少し前まで局長だったその人は続けた。
「ミツルギちゃんがいないと、きみはそれで終わりなのかい?」
「……え」
「きみの目指していたものって、そんなものなのかい?ミツルギちゃんがいなければ、何も出来ないのかな、キミ……」
「……巌徒さん」
尤もな内容のその言葉が、曇った頭の中に響く。
確かに、彼の言う通りだ。
そんなこと、当たり前のことなのに。
何もかも放り出したまま、何をやっているんだろう、自分は。
頭の中に、真宵と千尋の顔、それに御剣の顔が交互に浮かんだ。
まだ、やらなくてはいけないことが沢山ある。
「いえ、違います。ぼくは……そんな……」
「そうだよねぇ。だったらさ、こんなとこへ来ても、答えなんて見付からないよ」
「……」
「早く帰るんだね、キミの事務所に」
「はい……」
おぼつかない足取りのまま、席を立つ。
「ありがとうございます、巌徒さん……」
言いながら軽く頭を下げた成歩堂の目には、ここへ来たときとは違い、しっかりと力が戻っていた。
ゆっくりと扉を開け、小さな息苦しい部屋を出る。
「大丈夫。ミツルギちゃんは、戻って来るよ。きっとね」
そう呟いた巌徒の声は、分厚い扉に阻まれて、成歩堂に届くことはなかった。
終