ストレイ・キャット
今日は何だか、とても穏やかな一日だった。
窓から見える夕方の街並みを眺めて、王泥喜は小さく溜息を付いた。
穏やかな日……それが、弁護士として良いのか悪いのかは、微妙なところだけど。
まぁ、これはこれで悪くない。
そろそろ日も暮れるし、夕飯の支度でも始めようか。
暢気にそんなことを思っていたら、急に携帯電話の着信音が鳴り響いた。
(あれ、この番号は……)
心当たりのある並んだ数字に、王泥喜は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし!成歩堂さん?!」
『オドロキくん……助けてくれないか……』
「え……!?ど、どうしたんですか?!何かあったんですか!?」
『迎えに来て欲しいんだ……頼むから……』
「な、成歩堂さん!今、何処ですか?!大丈夫なんですか?」
慌てて尋ねると、成歩堂は今いる場所をざっと述べ、そこで電話を切ってしまった。
掛け直しても、電波が入っていない。
けれど、今の声、ただ事じゃなかった。
一体、何事だと言うのだろう。
(成歩堂さん……!!何があったんだ!)
財布と携帯を引っ掴んで、王泥喜は事務所を飛び出した。
聞いた場所は本当に大まかなものだったので、彼を探し出すのは至難の業だった。
幾つも電車を乗り継いで、散々探し回って、ようやく見付けた成歩堂は、小さな公園の隅っこで膝を抱えて座り込んでいた。
「成歩堂さん!!」
「あ、オドロキくん、早かったね」
「は、早かったね、じゃないですよ!何があったんですか?!」
「え……?確か……迎えに来て欲しいって、ちゃんと言ったよね?」
「はぁぁ?!そ、それだけですか?!」
「うん、そうだよ」
「……」
彼に会って、たった数秒で、王泥喜は1週間分の気力を使い果たしたように脱力してしまった。
「全く…だったら、あんなに悲痛な声で呼び出さないで下さいよ!」
「でも、仕方ないだろう?財布なくしちゃったんだから」
「だったら、そう言えばいいじゃないですか!」
「けど、携帯の電池も切れそうだったしね……」
(そんな古いの使ってるからだろ!)
胸中でしか突っ込めないのが痛いところだ。
そう言えば……。
以前も、こんなことがあった。
成歩堂が車に跳ねられた時。
(あの時も、こんな感じで事務所に行っちゃったんだよな…)
頭を抱えて後悔の念を募らせていると、すぐ隣で、ぼそりとだるそうな声がした。
「まぁ、別に……誰か適当に引っ掛けても良かったんだけどね……」
「え……?!」
(ひ、引っ掛ける?!)
「何か、後できみに怒られそうだったから」
「あ、当たり前です!!駄目ですよ、そんなことっ」
「だからこうして呼んだんじゃないか」
「わ、解かりましたよ」
(全く……)
いつもそうだが、どうも上手く丸め込まれてしまう。
まぁ、それも…成歩堂ならば、仕方ない。
苛立つ反面、そんなことを思ってしまう自分もいるのだけど…。
「あ、そうだ……財布のこと、一応警察に届けましょう。幾らぐらい入ってたんですか?」
「うーん、そうだなぁ……詳しくは覚えてないけど、10円玉が、2、3枚」
「ええ!?財布なくさなくても、どっちみち帰れなかったんじゃないですか!!」
「ああ、あと……牙琉に貰ったカードがあったかな」
「……?!ええーっ??」
「でも、それはもう使えないし」
「……そ、そうですか」
(深く追求するのは、止めておこう)
とんでもなく恐ろしいものが出て来そうで、怖いし。
何だか、軽い頭痛がして来た。
もう今晩は、夕飯を作る気力はない。
「とにかく、何か食べて帰りましょう。これからは、あんまりふらふらしないで下さいよ」
「うん、すまないね」
「……」
にこりと笑みを浮かべて素直に謝られ、王泥喜は言葉を詰まらせた。
でも、こんな笑顔一つでほだされてしまう訳にいかない。
ここはちょっと、厳しくしておかないと。
でないと、いつまた同じようなことがあるか、解からない。
その時、いつでもこうして飛んで来れる訳じゃないのだから。
(誰か引っ掛けるなんて、絶対に許せないし)
問い詰める決意を固めると、王泥喜は背後からサンダルの音をぺたぺたと立てて付いて来る成歩堂を、ガバっと振り返った。
ついでに人差し指もビシっと突き付けてみせる。
「だいたいあなたは、こんな辺鄙なところで一体何をやってたんですか!」
「え……?うん、ちょっとね……」
「成歩堂さん!ちゃんと、教えて下さいよ」
少し声をきつめにして言うと、不意に、成歩堂の表情がさっと曇った。
思わずハッとするような、見たこともない、寂しそうな表情。
「……?」
(な、何だ?)
王泥喜が息を詰める中、彼はそっと顔を伏せて、表情が見えないまま、静かに口を開いた。
「実はね、ぼくのお師匠さんが……」
「……?」
「もう、亡くなってしまったんだけどね、10年くらい前かなぁ……」
「え……」
「あの人が眠ってる場所、近いんだよね、ここから……」
「そう……なんですか」
「それでさ、今日は……」
彼はそこで語尾を濁し、一端口を噤んでしまった。
成歩堂の、師匠?
それって、つまり……。
(弁護士……か)
もう亡くなっていたなんて、知らなかった。
わざわざそこへ足を運ぶと言う事は、まさか……。
今日は、命日だったんだろうか。
だったら、きつく言ったりして、悪いことをしたかも知れない。
けれど、王泥喜の懸念は外れてしまったようで。
「その人の……お師匠さんの、誕生日だったんだよね」
やがて、再び口を開いた成歩堂の言葉に、ずるりと肩が落ちる気がした。
「そ、そうなんですか」
何か、言葉でも掛けて来たのだろうか。
いらない心配をして、何だか損をしたような気持ちになったけれど。
少し考えて、ふと、あることに思い当たった。
「今日は、その…成歩堂さんのお師匠さんの、誕生日だって言いましたよね」
「うん、そうだよ」
「じゃあ……あの、命日はいつなんですか」
尋ねられるとは、思っていなかったんだろう。
成歩堂は少し、意表を突かれたように目を見開いた。
まずいことを聞いただろうか。
ハラハラしつつ返事を待っていると、彼は何だか遠くを見るような目になった。
一瞬だけ、その目が泣きそうに歪んだように見えて、又ドキッとする。
本当に、今日の彼の顔は、心臓に悪い。
「九月五日……だよ」
ややして、彼はこちらに向き直ると、独り言のようにぽつりと呟いた。
(九月五日…)
まだ、先の話だ。
「ええと、その……。じゃあ、その日は俺、空けておきます」
「え……?」
「俺も一緒に、行きますからね」
「…きみも?」
急な申し出に驚いたのか、成歩堂の目が再び見開かれる。
自分でも、何故こんなことを言い出しているのか、よく解からないけれど。
何だか黙っていることが出来なかった。
「何となく、ですよ。放っておいて、また迷子になられても困りますし…。だから、俺も行きます」
彼の目を見ながら、最後まで言うことが出来なかったので、王泥喜は途中で顔を逸らした。
伺うことの出来ない彼の反応が、少し怖い気もするけれど……。
「……そうだね」
暫くして、そう返って来た返事は、とても穏やかで優しいものだった。
「じゃあさ、ぼくが迷子にならないように、ちゃんと見張っててよ」
「勿論、大丈夫です!」
ぐっと拳を握り締めて、張り切って顔を上げると、とんでもなく全開の、成歩堂の笑顔が目の前にあった。
(う……っ)
今のは、今までで一番心臓に悪い。
自分の頬が朱に染まったような気がして、王泥喜はコホンと咳払いをすると、くるりと成歩堂に背を向けた。
「じゃ、じゃあ、早く帰りますよ。みぬきちゃんだって、もうそろそろ帰って来ますからね」
「うん」
頷いた彼の前を、道案内でもするように早足で歩き出す。
何だか……緊張で、手と足が一緒に出てしまいそうだった。
そのまま、暫く無言で歩いて。
「オドロキくん」
「……!?」
突然、そう名前を呼ばれた。
直後、背後から成歩堂が近付く気配がして、王泥喜の頬に温かい吐息が掛かった。
続いて、生温い濡れた感触。
(な……?!)
ぎょっとして振り返ると、すぐ側に成歩堂の顔が見えた。
「ありがとう、オドロキくん」
「……!!!」
びっくりし過ぎて、すぐには声が出ない。
(い、今のは…)
「……っ!!」
自覚すると、顔から火が出そうになった。
今度こそ、真っ赤になっているのも何もかも、成歩堂にばればれに違いない。
「な、な、舐めないで下さいよ!ね、猫じゃないんですから!」
「ははは、そうだね」
声を張り上げて怒鳴ると、成歩堂は楽しそうに笑って、そのまますたすたと先を歩き出した。
(なっ、何なんだよ、もう……!)
この人のペースには、本当に付き合っていられない。
財布はなくすし、妙な電話はしてくるし、お金は持ってないし、立て続けにドキッとするような顔はするし…。
そもそも、本当に、ただお師匠さんの誕生日だったからここへ来たんだろうか。
それだって怪しい。
それに、何だか…見たこともない、寂しそうな顔とか、暗い顔ばかりするから。
だから、無理矢理一緒に行くなんて言ってしまったのだけど。
その上、あんな……。
あんな、心臓に悪いこと、平気で……。
(……って!今はそんなこと考えてる場合じゃない!)
ハッと気付くと、ぐるぐる考えている間に、いつの間にか彼の姿は遥か遠く先に行ってしまっていた。
さっき、見張っていると言ったばかりだ。
ここは、早速。
「成歩堂さん!!待って下さい!!」
辺りに響き渡る大声でそう言うと、王泥喜は思い切り走って、成歩堂の背中を追い掛けた。
終