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対峙する相手があまりに大きくて偉大だと、追い抜きたいだとか嫉妬だとか、そんな感情は湧き上がらないらしい。
事実、ぼくが彼、夜神月に抱いていた感情は、憧れだとか尊敬だとか、そんなものばかりだったと思う。
けれど、容姿も頭脳も完璧で優秀な彼はまだ出会ったときただの少年で、時折見せる幼さや無邪気な笑顔は好感を抱くに値するものだった。
そんな風に言うと大袈裟かも知れないけれど、まぁ、一言で言ってしまえば、ぼくは彼が好きだった。
嫌う理由がなかったからとも言える。彼のような人間が異性からもてるのも当然で、優遇されるのも当然で。可愛い女の子や美女と一緒にいても、凄いなと感心することはあっても、僻むことはなかった。
でも、彼は不幸なことにその優秀さゆえ、キラではないかと言う疑いを掛けられていた。自分だったら、生涯身に招くことのない不幸だ。
ぼくは、自分で言うのもなんだけれど、ごくごく単純な人間だった。
それなりに正義感もあり、悪を憎いと思う反面、甘い誘惑には屈っし易い。すぐに人を信用してしまうけれど、酷いことをされれば腹も立つ。けれど、涙ながらに謝られたりすれば、すぐに許してしまう。それも、心から。ときには同情の涙を流し、怒りに打ち震える。周りの信頼は厚くないけれど、いざと言うとき、味方であると信頼はして貰える。
そんな、どこにでもいるような人間である自分が、彼に出会った。
何年も一緒に過ごしてキラと言う人物を追い掛けて、それなりに信頼関係は築いていたと思う。
けれど、Lがいなくなってからの彼は、どこか気が抜けたように呆けて、何だか遠くを見ているようなことが度々あった。
「月くん、大丈夫?疲れてる?」
たまにそうやって声を掛けると、彼はその中性的な顔を上げ、数秒経った後に視線を伏せて笑った。
「いつも、松田さんにはバレちゃいますね、流石です」
「いや、そんな」
そんな感じで彼に褒められると、いつも何だか妙に舞い上がってしまった。雲の上の人に褒められたようなものだ。それだけで、ぼくの一日は薔薇色になった。
けれど、それだけではなかった。
何度も彼の作戦を目の当たりにしているうちに、やがて思うようになった。
ただ、頭が良いだけではない。彼は特別だ。選ばれた人間だ。
彼は、何か人の心を動かすような力がある。
それは、少し頭を働かせればキラと言う人物像に容易に結び付くことだったかも知れない。でも、彼の優しい目だとか、柔らかい口調だとか、ありがとう、松田さん、そんな風に言うときの幼い顔だとか。それはあまりにも冷酷な殺人鬼とはかけ離れていたから。
Lだろうがニアだろうが、彼らがいくら夜神月を疑っても、ぼくは一度も疑ったことはなかった。
いや、考えてみたことはある。月くんがキラなら?と。でもそれはどこか遠くのおとぎ話のようで、少しも現実的じゃなかった。
しかも、疑いを掛けられた彼は、少なからず疲れているようにも見えた。
「正直、参りますよ。Lにも、Lの後継者にまで、疑われて」
「月くん、気にすることないですよ。今、Lはきみなんだから」
「松田さんは、いつもそうやってさり気なくぼくを励ましてくれるんですね」
「い、いや、そんな」
謙遜するように首を横に振ると、彼はどこか自虐的な笑みを浮かべてみせた。
「すみません、ぼくを、だなんて、自惚れかも知れない。松田さんは皆に優しいから」
「いや、そんなことないよ、月くん。ぼくはそんな気が利くような人間じゃないから」
「はは、それもそうですね」
「そんなあっさり、酷いな」
他愛もない会話だったけれど、あの中に彼の本音はあったのだろうか。
一体彼は、どこからどこまで夜神月で、どこからがキラだったんだろう。
解からない。解かるはずもない。
彼は、Lがいなくなってから、どこか遠くに一人きりで立っているような気がする。孤独で強く、そのくせ妙に儚げで、手が届く場所にいるのに遠い。
段々と、自分の中で彼の印象は変わりつつあった。凄い天才少年から、何だか、守ってやりたいと思わせるような。
勿論、彼は自分の助けなど必要としていない。でも、いつの間にか自分の目標はキラであって、キラではなくなっていたのかも知れない。
それから、夜神次長が亡くなって、夜神月は今まで見たことないほどに取り乱し、目も当てられなかった。痛々しくて、見ていたくなかった。
そのとき、初めて心の底からキラが憎いと思った。悪か正義かよりも、ただ、単純に、許してはいけないと思った。尊敬する夜神次長を死に追いやり、彼の息子を、月を悲しませているキラの存在を。
その後、本格的にニアが動き出して、こちらの状況もかなり切迫して来た。夜神月がキラではないかと言う疑いは更に深まり、その波紋は仲間たちにも少しずつ広がって行った。
「全く、皆どうかしてるよ」
彼と二人きりになったとき、ぼくはついそんな愚痴を溜息混じりに零した。ぼくの知る夜神月はとても精神的に強い人物だったから、気遣いを忘れたのかも知れない。
だから、その言葉に振り向き、双眸に暗い影を落とした彼を見て、ハッとした。
「松田さんも、ぼくを疑っているんですか?」
「月くん!」
そう言って、夜神月は酷く悲しそうに笑った。あの泣きそうな笑顔も、今思えば偽りだったのだろう。でも、もしかしたら、彼の中に残っていた弱さがあのときだけ現れたのかも知れない。いや、そう、思いたい。
とにかく、あのときは夢中だった。ただ眺めているだけの存在だった、水に映る月のように。今まで少しも手の届かなかった彼に触れ、気付いたら腕の中に抱き締めていた。
腕の中に納まった彼の体はとても華奢で、力を込めれば折れてしまいそうだった。
そのまま、彼はぼくに縋り付くように寄り掛かり、肩口に顔を埋めて来た。
「……!!」
今更ながら、触れたぬくもりにぎくりと身を強張らせる。嫌だった訳ではない。その逆だ。ぼくは自分の理性がちぎれてしまう前に、急いで彼の体を引き剥がした。
「え、ええとさ、ミサミサに、慰めて貰おうか、何とか明日時間を作って」
「……いえ」
苦し紛れに言い掛けた言葉は、静かな彼の声に遮られた。
「ミサのことは、ぼくが守ってあげる存在だと思ってます。彼女に心配は掛けたくない」
「……月くん」
「松田さん、今日だけでいいんです。側にいてくれませんか」
そう言われて、誰が断れるだろう。
「解かったよ。今日は、ここにいるから」
ぼくはただ首を縦に振って、甘い香りのする彼の体をそっと離した。
このままでは、理性が飛んでしまうと思ったからだ。でも、夜神月は引き下がらず、ぼくの腕を掴んで愛撫でもするように撫でた。
「ありがとうございます。松田さんがいて、良かった」
彼の吐く言葉は脳の奥を痺れさせるように甘くて、理性を麻痺させるような不思議な力があった。ぼくはただ誘われるまま、その恍惚とした感覚に酔い痴れる為、彼の唇を夢中で塞いで、我も忘れて貪った。
シャツの前を夢中で割って直接肌に触れると、その後はもう自我なんて保っていられなかったんだと思う。はっきりしているのは、ぼくは確かに夜神月をベッドに押し倒して、そして抱いてしまったと言うことだけだ。けれど、その余韻も残り香も、その後一切ぼくを満たしてくれることはなかった。恍惚とした感覚はほんのひと時の間で、喉が究極に渇いて水を欲するように、また何度も彼を求めた。
まるで麻薬のようだと思った。麻薬に手を出したことはないけれど、きっと、こんな感じではないかと思うほど。危険で甘く魅力的で、齎す快感は計り知れない。頭の奥は熱に浮かされたように熱く、思考は考えることを放棄したように痺れたまま。
あまりに魅力的なその味は、ぼくの体と心に彼と言う存在を強烈に刻み込んでしまった。
手を出しては、いけなかったのだ。水に映る月の輝きはとても美しくて、ぼくを魅了して止まない。でも、掬い上げようとすれば、触れようとすれば崩れてしまう。遠くから眺めていれば良かったのに。
触れてしまったから、ぼくの胸の中は苦いもので、吐き気がするほど苦く痛いもので満たされることになった。
勿論、そんなことになったすぐ後は、あんな状況だと言うのに、ぼくは浮かれていた。
ミサミサに悪いとか、そう言う気持ちはなかった。ぼくは弥海砂と言う女の子が好きだし、彼女は夜神月にとても相応しい子だ。自分とは、役割が違うのだ。ぼくは、夜神月の脆さを支え、守ってあげるのだ。でも、ぼくは基本的には女の子が好きだし、本当なら夜神月の妹、粧裕のような女の子が好みなのであって、それは変わりない。ただ、夜神月が自分にとって特別なだけだ。だから、ブラウン管越しに見詰めるやり取りは本当に実感がなくて、軽快で濃厚でリアルな恋愛ドラマでも観ているようだった。
ただ、時折彼のことを思うと、妙に心は浮き足立った。
そして、彼に触れれば触れるほど、キラへの憎しみは色濃く顔を出すようになった。
そうだ。
彼に銃を向け、迷いなく発砲したのだって、あれは、夜神月を撃った訳じゃない。ぼくが撃ったのはあくまでキラであって、夜神局長を……次長を死に追いやり、その息子である月を泣かせたキラであって、決して夜神月ではなかった。
今でも、ぼくには信じられないんだ。
あれは悪い夢で、夜神月は今でもどこかで生きているのではないか。もしくは、あれはニアと彼の作戦で、彼は今もどこかで、キラを追っている。
馬鹿馬鹿しい。それこそ、願望だ。
ニアの言う通り、彼は普通の感覚の持ち主ではなかったんだろう。自分が神になろうとした、クレイジーな人間に違いはない。
でも、脳裏に思い浮かべる夜神月の顔は、今でも穏やかで優しい。とても落ち着いていて、柔らかく聡明な顔でぼくに笑い掛ける。それが偽りのものなのだと解かっていても、きっとぼくは、その逆らい難い誘惑の色に屈してしまうだろう。
そうして、きみがまたあのときと同じような笑顔で、手を差し伸べてくれと乞うなら。ぼくはきっと、いけないことなのだと解かっていて、彼に手を差し伸べてしまうだろう。
きっと、何度でも。
終