メロウ




「ええと、その。そんなに美味しい?地球の、いや人間界の林檎は」
「ああ、美味い。死神界にも林檎は沢山あるが、全く話にならないな」
「へぇ…」
「今はこれがないと駄目だ、禁断症状が出る」
「ふーん…」
 そんな、ちょっと我侭な子供みたいな言い方をした死神を、ぼくは胡散臭そうな、半分は恐怖を湛えた目で見詰めた。
 でも、あのいなくなったもう一人の死神と言い、慣れると愛嬌があるようにも見えてくるから不思議だ。
 ぼくはその黒い死神が美味しそうにかじっている林檎を奪って、口の中に放り込んだ。

 そんなやり取りがあったのは、少し前のことだ。けれど、それはぼくの中で他愛もないやり取りと言うか、無駄な知識の一つだったので、すぐに忘れてしまった。



「松田さん、考え事ですか?」
 ソファに座ったままぼうっとしていると、静かな呼び声が掛かった。
「あ、月くん……」
 目を上げると、彼、夜神月が少しやつれたような顔で立っていた。
「月くん!どうしたんだい、大丈夫?」
 慌てて立ち上がって、彼の顔を覗き込む。
 このところ、妹の粧裕が誘拐されたり、挙句父親が亡くなったり。彼にとっては、本当に辛いことの連続だったに違いない。その上、再び彼がキラではないかと言う疑いまで浮上した。仲間に疑われるほど辛いことはない。それなのに、随分と無理をして気丈に振舞っている。それでも、やはり無理が祟っているのか、時折こめかみを押さえて動かなかったり、立ち上がったはずみによろめいたりすることもあった。
 そして、何より。
「ええ、大丈夫です。でも……」
「月くん……?」
「ぼくは結局、何も出来なかったんですね」
「……月くん」
 そんな風に、ぼくの前でも弱音を吐くことがあった。今までだったら、考えられない。それでも、他のメンバーがいるところでは気丈にしている。ぼくの前でだけ、彼が少しでも弱さを見せる。
 こんなときになんだけれど、そのことに少しだけ優越感を覚える。不謹慎だと、また誰かに怒られるだろうか。
 でも、これはぼくの本音だ。
 けれど、彼にはいつも完璧でいて欲しい。これも、本音だ。
「弱音なんて、きみらしくないよ、月くん」
 ぼくは彼の腕を正面から掴んで、励ますように言葉を掛けた。
「解かってますよ、でも……」
 伏せられた長い睫が、少しだけ震えているように見える。いくら天才だって何だって、彼はまだ若い。彼が学生であったときの記憶は、ぼくの中でまだ新しい。
こんな風になったって、誰が責められるだろう。
「もし竜崎が…Lが生きていたら、もっと……」
「月くん!」
 思わず、掴んだ腕に力を込めて、その肢体を側に引き寄せていた。
 それだけじゃない。悲しい言葉を吐く彼の唇を塞ぐように、ぼくは夢中で彼に唇を寄せていた。合わせた唇の隙間から、彼が驚いたように息を吸い込むのが聞こえたけれど、構わずにキスを続ける。
 辺りには静寂が満ちて、一瞬ぼくの頭の中には彼の柔らかい感触以外は何もなくなった。

 どのくらい、そうしていたのか。
 彼の手から持っていたカップがすり抜けて、したたかな音を立てて割れた。
その音でようやく我に返って、ぼくは慌てて彼の体を引き剥がした。
「ご、ごめん!月くん!」
 焦って声を荒げて謝る。
 幾ら夢中だったとは言え、何てことを。
 きっと、突き飛ばされずに済んだのは、彼が優しいからだ。
 でも、幾らなんでも……。
「本当にごめん、つい……」
「いえ……」
 続けて述べようとした謝罪の言葉が、静かな声に遮られた。
 顔を上げると、夜神月はその口元に優しげな笑みを浮かべていた。
「いいですよ。そんなに、謝らないで下さい」
「ら、月くん……」
「ちょっとびっくりしましたけど……でも、いいんです」
 その言葉にホッと胸を撫で下ろしたのは束の間のことだった。
 彼はそのまま、まるで誘いでも掛けるように、先ほどまでのキスで上気した唇から赤い舌を覗かせて。そしてゆっくりと唇を舐めた。自身の唇をなぞるように蠢くその舌に、ぼくは魅入られるように一瞬息を詰め、ごくりと喉を鳴らした。
「いいんですよ、松田さんなら。もっと、しても……」
「……っ!」
 直後、耳に飛び込んで来た言葉に、どく、と音を立てて心臓が鳴った。理性や迷いと言った感情が、彼の前では何の役にも立たないことを思い知らされた。
 もう一度、触れたい。
 ただその欲求に押し流されるまま、ぼくは再び夜神月の肩を掴み、彼に唇を寄せた。
 始めは軽く触れるだけだったのに、すぐに物足りなくなり、彼の後頭部を抱え込んで少しずつキスを深いものに変えた。夜神月は一切抵抗しない。ゆっくりと持ち上がった彼の腕は、頼りなさそうにぼくのシャツを掴んで、そこにぎゅっと力を込めた。頭の奥が痺れる。
 甘くて良い香りが鼻腔を擽る。心地良い感覚と、少し乱暴な衝動が腹の底から湧き上がって来る。きっと、このままでは、衝動に任せてぼくは恐ろしいことをしてしまう。そんな恐怖におののきながらも、唇を離すことが出来ない。
 そのまま、側にあったソファに細身な彼の体を押し倒し、上に圧し掛かった。心の底…いや、もっと根底にある場所から湧き上がる欲求に、劣情に煽られるまま、ぼくは夜神月の体を組み敷いた。
 白いシャツの前を割ると、日に焼けていない肌が目下に晒された。浮き出た鎖骨と、その下に伸びる滑らかなライン。それでも、首から上にある彼の表情を怖くて見ることが出来ない。焦りを誤魔化すように白い肌に顔を寄せ、ぼくは性急に彼の足を割り開いた。

 夢中になってその体を貪りながら、ふと、ぼくの脳裏には、あの黒い死神の言葉が浮かんだ。
 死神が大好きな、熟れた瑞々しい果実の味。
 一度味わってしまうと、それでないと駄目になる。

 ああ、きっと、こんな味だ。
 夜神月。
 彼の味は、とても危険だ。