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あれも、喧嘩と言うのだろうか。
お互い手錠に繋がれたままで、竜崎と派手な殴り合いをしたのは先刻のことだ。派手に割れたカップや皿を片付けて、部屋を元の状態の戻すと、二人はもう真剣な顔でモニターに向かっていた。
けれど、新しいカップに注いだばかりのコーヒーを一口飲むと、月は小さな呻きを漏らした。さっきのいざこざで、口の中を切ってしまったらしい。渾身のキックを顔で受け止めたのだから仕方ない。
そう言えば唇も少し切れているし、終始血の味がしていた。頭に血が昇っていたから気付かなかった。
月が上げた声に気付いた竜崎は、こちらの様子を伺うように視線を向けた。
「大丈夫ですか、月くん」
「あ、ああ……」
頷いて相槌を打ちながら、隣にいる人物に目をやる。彼は平気な顔をして、ずずずとコーヒーをカップからすすっていた。
「全く……。本気でやっただろう、竜崎」
静かにカップを置きながら、嫌味の一つでも言いたい気分になって、溜息混じりに吐き出す。竜崎はモニターに視線を戻して、平然と返答を返した。
「ええ。でも……月くんも本気でしたよね」
「ああ、まぁね。少し大人げなかった。反省してるよ」
「いえ、実際月くんはまだ子供です、気にすることないですよ」
「……」
あっさりとそんなことを言われて、月の眉がぴくりと反応する。月のプライドが高いことを知っていて、彼はわざと言っているのだろうか。けれど、ここでムキになれば尚更大人気ない。仕方なく、小さく肩を竦めて、自分もモニターに向き直った。
それで、今の会話は終わったはずだと思っていたのに。
数秒後。
「ああ……そうだ」
「ん……?」
「念の為です。口の中を見せて下さい」
「は?」
そんなことを言われて、思い切り変な声を上げてしまった。
月がそのまま無反応でいると、竜崎は椅子ごとこちらに身を寄せて、ずい、と顔を覗き込んで来た。
「このまま暫く熱いものが飲めないと申し訳ないですから、どうぞ」
「……」
(どうぞって……)
本気か。いや、彼のことだ、本気なんだろう。
月は身を寄せられた分だけ後退して、出来るだけ当たり障りなく断った。
「だ、大丈夫だ。そんなに痛い訳じゃない」
「いいですから。さっきも言ったでしょう。私、結構強いんです。だから、心配です」
「りゅ、竜崎……!」
徐にがしっと頬を手の平で挟まれて、月はうろたえたように声を荒げた。
「大丈夫だって言ってるだろう、ぼくはそんなにヤワじゃ……」
「私が安心出来ないので、お願いします。月くん」
「……っ、竜崎!」
そのままぐぐっと力を込められて、月は慌てた。
「口を開けて下さい」
「な、ん……っ」
見られても、別にどうと言うことはないのだろうけど。こう、自分の意志を無視して進められる行為は許し難い。
けれど、月の頭の中には先ほどの竜崎の言葉が木霊していた。ここでムキになれば、きっとまた子供だと言われる。それこそ、月のプライドを逆なでする言葉だし、出来るなら聞きたくない。発想を変えれば、ここで大人しく少しの間口を開けてやれば、竜崎は満足する。
そう思い直して、月はゆっくりと少しだけ口を開いた。
途端、ぐい、と遠慮の欠片もなく押し込まれた指先に、思わず目を見開く。えずきそうになったのを寸でのところで堪えたのは、我ながらよくやったと言える。けれど。
「もっとです、見えませんよ」
竜崎はまだそんなことを言いながら、中から月の口内を押し上げようと力を込め始めた。冗談ではない。
「んっ、……っつ!」
何とか必死で口内に押し込まれた指を引き抜くと、月は唇を拭いながら目の前の相手に目を向いた。
「何をするんだ、竜崎!」
「あまり暴れないで頂けますか」
「……っ?!」
直後、ぎり、と押さえ付けられて、小さく息を飲む。
確かに、彼の言った通りだ。力は、なかなか強い。などと暢気に感心している場合ではない。
そのまま再び口をこじあけられそうになって、月はじたばたと暴れだした。途端、側にあった電話がけたたましい音で鳴る。
「はい」
こんな状況だと言うのに、片手で月を押さえ込んだ竜崎が受話器を取ると、その向こうから凄い剣幕で父、総一郎の声が聞こえて来た。耳に当てていなくても、月にまで聞こえる。
『竜崎!どうした、息子に何かあったのか!!』
(と、父さん……)
そう言えば、この映像は観られているのだ。そう思うと、ますます情けない気持ちになる。
「いえ……気にしないで下さい。月くんが口の中を切って、どうしても私に見て欲しいと言うので」
(な、何を……いけしゃあしゃあと……!)
どう考えても納得出来ない理由をさらりと述べる彼に、月は頭が痛くなるのを感じた。彼も相当、大人気ない。
『いや、そう言う風にはとても見えないが……』
「大丈夫です、問題ありません」
その上、さらりとそんなことを言い捨て、そのままガチャンと受話器を置いてしまった。
「そう言う訳ですから、月くん」
「ン……む、ッ、な、なにを……っ」
ぎろ、と見開いた無機質な目を向けられて、思わずたじろぐ。
「ちゃんと見せないとこのまま離しません」
「こ、こんな状態でそんな、こら、止めろ!」
この状況は父親にも他の刑事たちにも筒抜けなのだ。幸いなのは、ミサがもういないと言うことだけ。こうなれば、根比べだ。
数分そんな押し問答が続いた後。
いつまで経っても観念しない月に痺れを切らしたのか、遂に竜崎は手から力を抜いて月を解放した。良かった、とほっとするのも束の間。
「解かりました、じゃあ、行きましょうか」
「え……?」
どこへ、と聞く間も無く。竜崎はすたすたと歩き出し、繋がった鎖が擦れて冷たい音を立てた。
「なっ、ど、どこ行くんだ、竜崎!」
引っ張られて椅子から落ちそうになりながらも何とかバランスを整え、月は竜崎に付いて歩き出した。自分の意志ではないから、正確には歩かされている、だが。
「カメラのない場所は知ってます。そこへ」
「竜崎!!」
抗議の声など綺麗に無視して前を行く丸くなった背中に、月は遂に諦めたように深い溜息を吐いた。
数分後。
建物の大分上、最上階に近いだろうか。そこの吹き抜けになっている階段に、月は竜崎と二人向き合って座っていた。
もう諦めているので、余計な抵抗はしない。ゆっくりと、粘膜の上をなぞるように竜崎の指が辿る。いつも角砂糖を掴んでいるせいか、少しだけ甘いような気がする。それに、先ほどの荒っぽさなど微塵も感じないほど、今竜崎の手は優しい。
ややして、そっと指を引き抜くと、彼は真正面から月を覗き込んだまま、少しほっとしたように声を上げた。
「唇も口の中も、少し切れてはますが、恐らく大丈夫でしょう」
その言葉に、ようやく事態に収拾がついたのだと、月も肩を撫で下ろす。
全く。散々な目に遭った。
「だから言ったじゃないか。気が済んだか?」
けれど、溜息混じりに言った嫌味にも似た台詞に、竜崎はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、あとは、消毒を」
「……え?」
予想外の言葉に驚いて、目を見開いた途端。唇に柔らかい感触がして、びく、と大きく肩が跳ねた。
優しく触れた感触は、一瞬彼の唇だと思ったけれど、そうではなかった。温かく濡れた、柔らかいもの。
それが一瞬だけ、ぺろ、と月の唇をなぞって、すぐに離れた。猫か犬か、そんなものに懐かれて舐められたような、そんな妙な感覚。
どこが消毒だ。そんなものが消毒だと言えるのか。
「竜……崎?」
頭の中に浮かんだ言葉を口に出来ず、月はただうろたえたように彼の名前を呼んだ。
「少し、血の味がします」
勿論、竜崎の表情は少しも変わらない。
「え……、ああ……」
呆然としたまま返答しながら、月は頭を押さえたくなった。けれど、すぐにジャラ、と音がして繋がれた鎖に体が引かれる。
「じゃあ、戻りましょうか、月くん」
「ああ……」
無理矢理立ち上がらされ、ずんずん歩く竜崎の後を歩きながら、月は思わず眉根を寄せた。
本当に、大したことない傷なのに、どう言うつもりなのか。他のことで、彼が何をどう考えているかなら、だいたい予想は吐くと言うのに。怪訝な顔でいると、こちらの内心を読み取ったように竜崎がくるりと振り返った。
「考えても無駄ですよ」
「……え」
「何故こんなことをしたか、私にも解かりません」
「……」
竜崎がそれだけ言って。今度こそ、この騒動は完全に終了したのだけど。先ほどの感触がいつまで経っても消えず、月は気持ちを切り替えるのに少しだけ苦労した。
終