蝕
びっくりした。彼があんな風に泣くなんて。
何だかいけないものでも見てしまった気分に陥りながら、ぼくは夜神月を置いて部屋を出た。まだ、心臓がドキドキしている。
先ほどの、彼の様子。少しの間だけど、声を殺して、込み上げて来た悲しみに戸惑ってどうして良いか解からないように見えた。
そりゃ、あの頃、竜崎の一番近くにいたのは彼だ。竜崎が命を落としたあのときだって、彼は酷く取り乱して滅多に現さない感情を持て余したように吐き出していた。
でも、今日みたいに。あんな風に涙を流すなんて。
何も映っていないような双眸から、綺麗な雫が幾つも落ちて来た。思わず、手を差し出してしまいそうだった。
「松田、どうかしたのか」
「あ、い、いえ、何も」
暫く経った後。夜神次長にそう声を掛けられたけれど、咄嗟に大きく首を横に振っていた。こんなこと、誰にも言えるはずない。父親の夜神次長にも、誰にも。あの涙は、自分の胸の中だけにしまっておこう。
そう思うと、胸の中で心臓が脈打つ音は一段と早くなり、息苦しさに苦い吐息を吐き出した。
その晩。
何となく気になって落ち着かなかったので、ぼくは誰もいないときを見計らって彼の背へと足を進めた。彼が、自分に弱音を吐いてくれるなんて思っていない。ただ、安心したかったんだと思う。そうでないと、いつまで経っても収まることのない鼓動に、どうにかなってしまいそうだ。
「月くん」
遠慮がちに声を掛けると、珍しくぼんやりとしていた月は、ゆっくりとこちらを振り返った。
振り返ったときには、ぼくが慰めようとしていることなどお見通しだったのだろうか。口元に浮かんだ笑みは、何もかも見透かしているように見えて、ぼくは誤魔化すように笑った。
「ええと、大丈夫かい、さっきはちょっとびっくりしたよ。月くんが泣くなんて思わなかったから」
「……」
その明け透けな物言いが、少なからず彼の勘に触っていることなど、ぼくには思いもよらない。彼の目が、一瞬鋭い蛇か何かのように細められたことにも、ぼくは気付かなかった。でもきっと、知らないフリをして気を利かせたとしても、彼のプライドは傷付くだろう。そもそも、そんなことに気が回るなら、もっと色々なことにも気付けたはずだ。
だからこのときは、ぼくはただ自分なりのやり方で、夜神月の気持ちを少しでも紛らわせたい、それしか考えていなかった。
そして、ぼくの言葉に、彼は大丈夫だと、口元を柔らかく綻ばせて答えると思っていたのに。こちらの予想を裏切って、彼は意外なことを口にした。
ただ、口元に浮かんだ笑みだけは、ぼくの想像通りだったけれど。
「松田さんて、彼女とかいますか」
「え……っ?」
いきなりそんなことを聞かれて、鼓動が思い切り跳ね上がってしまった。けれど、すぐ気を落ち着かせるように深呼吸をする。何も、こんなに慌てることじゃない。単なる、世間話だ。しかも相手はこんなに年下だ。ぼくは不審に思われないように、慌てて取り繕う声を上げた。
「い、いやだな、月くん。いたらこんなにずっとここに入り浸ってないよ」
「……はは、そうですね」
「そうだよ、紹介して欲しいくらいだね」
そんな風に誤魔化してぼくが笑うと、月は急に口元から笑みを消し、そのまま黙り込んでしまった。
「……月くん?」
何気なく顔を覗き込んで、彼の表情にどきりとする。今でこそ泣いたりはしていなかったけれど、何と言うか、放っておけないほど悲壮な感じに見えた。
「どうしたんだい、月くん、何だか、変だよ」
「え、ああ……すみません」
殊更明るい声を出して言うと、彼はハッとしたように顔を上げた。それから、片方の手の平でそっと顔を覆う。
「確かに、変ですね。何だか落ち着かなくて、すっきりしないんです。頭に何も入って来ない」
「月くん……やっぱり、さっきの……竜崎のことで」
「さぁ、どうなんでしょう。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。自分でもよく解からないんです」
「月くん」
彼が、こんなことを言うなんて。本当に余程、竜崎のことが堪えていたんだろうか。いつもは、そんな素振りなど微塵もみせないのに。
でも、この自分に、彼を的確に慰める言葉など浮かばない。気休めかも知れないけれど、元気を出して欲しくて、口を開きかけた途端。
「松田さん……」
「……?」
彼の静かな声に重なって、ぼくは言葉を止めた。目を上げると、彼はまるでこちらなど目に入ってもいないように窓の外、遠くを見ながら口を開いた。
「いえ、何でもありません」
「月くん?」
「すみません、忘れて下さい」
そのまま、身を翻して行ってしまおうとした彼の腕を、ぼくは躊躇することなく手を伸ばして掴んだ。今この手から擦り抜けてしまったら、もう二度と捕まえられない。それは、駄目だ。そんなことはいけない。そんな、恐怖に似た感覚に煽られるまま、ぼくはぐっと指先に力を込めた。
「待って、月くん」
「……松田さん?」
彼の力ない目が、ぼくの顔を捉える。そこで、少しだけ理性が働いて我に返って、背中に冷や汗が伝うような気がした。幾ら鈍いぼくでも、この先のことが、何となく解かっていたのかも知れない。ぼくは、井手さんじゃない。こう言う雰囲気や空気くらい、察し出来る。
でも、何だか踏み越えるのは怖くて、何も気付いていないふりで明るい声を上げた。
「ええと、話を聞くくらいしか出来ないけど……、その、ぼくで良ければいくらでもいいよ」
「松田さん……」
そこで、彼も気が変わったのか。いや、ある種の覚悟を決めたのか。その唇から発せられた声はいつもより低く、思わず息を飲むような艶っぽさがあった。
「子供扱いしないで下さい。そう言う意味なら、最初にわざわざ聞いたりしませんよ。好きな人がいるか、なんて」
「え……あ」
つまりそれは、そう言う意味なんのだ。
信じられない。月が、夜神月がそんなことを言うなんて。
いや、本当は。本当は頭のどこかで解かっていたのかも知れない。彼が今望んでいるのは、そう言うことなのだと。それに、驚きよりも何よりも、ぼくの鼓動はまるではち切れそうに跳ね上がって、体中の血液は沸騰でもしたように熱く体内を駆け巡っている。
ぼくは、どうしてしまったんだろう。
あの涙を見たときからだ。何かが頭の中に残って、引っ掛かって、何をしていても落ち着かない。まるで、さっき月が竜崎のことをそう語っていたように。
でも、どうすることも出来なくて、ぼくはただ掴んでいた腕を引き寄せて、強い力で抱き締めた。そのまま、まるで何か見えない引力に引っ張られているみたいに、初めて味わうものみたいに夢中になって彼にキスをした。深く強く貪ると、頭の中が痺れて、溜まらない快感が体を駆け巡った。
でも、彼の目は相変わらずこの体の上を擦り抜けて、どこか遠くを見ている。彼が話し掛けて呼んでいるのは自分なのに。
どこか別のところ、別の誰かを。
(誰かって)
決まっている。竜崎だ。
「月くん、きみは……」
そこまで言い掛けて、ぼくは口を噤んだ。
慰めてくれと、彼は言った。彼は先ほど、恐らく竜崎を思って泣いていた。そして、慰めて欲しいといって、こんなことを……。
頭の中に否応なしに浮かび上がる疑問は、彼を暴いていく度に大きくなって、押さえようもなくなってしまった。でも、それを口にする代わり、ぼくは夢中になって彼を征服しようとした。
―きみは、竜崎とも、こんなことを……?
飲み込んだ言葉は、その後いつまでもぼくの中に巣食って、心を蝕んで止まらなかった。
終