棘と蜜2




彼の背中から感じる棘々しさは、成歩堂を拒絶しているように思えて、子供ながらに、もう駄目なのだと思った。
何て、情けない気持ちだろう。
惨めでみっともなくて、消えてしまいたい。
手を離して欲しい。もう、彼に顔を合わせたくない。
ずっと俯いていた成歩堂は、いつの間にか薄暗い体育倉庫の中に連れて来られたことにも気付かなかった。
顔を上げて、自分のいる場所を確認して、少し息を飲む。
どうして彼は、こんなところに自分を連れて来たのだろう。
成歩堂に理由など解かるはずもなく。
ただ、痛いほど自分の腕を引いていた御剣はまだ背中を向けたままで、沈黙が痛かった。
あの日、御剣の手を振り解いたのは自分なのだ。
それなのに、それを又、して欲しいだなんて。
彼はきっと呆れ果てて、自分に絶交でも言い渡すつもりなのだろうか。
不安で胸がはち切れそうになった、その時。

「成歩堂」
「……!」

いつかと同じ、優しくて静かな彼の声がした。
顔を上げると、御剣が真っ直ぐに成歩堂を見詰めていた。

「きっと、ここなら誰も来ない」
「え……?」
「目を、閉じるのだ」
「……!」

彼の言いたいことが解かって、成歩堂の胸は喜びで躍り上がった。
御剣は、承諾してくれたのだ。
また、二人だけの秘密を共有することを……。
ゆっくりと目を閉じると、御剣の気配がそっと近付いた。
埃っぽい体育倉庫の匂いも、外で聞える生徒たちの賑やかな声も、何一つ聞こえなくなった。
本当に久し振りに、御剣に触れて、成歩堂は胸の中がいっぱいになるのを感じた。



それから又、放課後は二人で時間を過ごすことが増えた。
行く場所は、いつも御剣の家。
何もかも元通りになったのだと、成歩堂は思った。

「成歩堂……」

御剣がそう名前を呼んで、それから唇が触れる。
その後、彼は首筋にもキスをしてきた。
あの時は、くすぐったいのが我慢できなくて、それからいつもと違う御剣の様子が怖くて、跳ね除けてしまったけれど。
今はもう平気だ。
くすぐったさは拭えないけれど、それ以上に強い興味があった。
当然、この、先にあるものへ。
でも、頭では何も解かっていない。
ただ、御剣とキスをして、彼の手が成歩堂の着ているシャツの襟元を少し緩めて。
首筋に唇を寄せて、それから手を握り締める。
こんなこと、きっと……相手が御剣じゃなかったら、何をしているのだと笑い出してしまうに違いない。
でも、二人は今真剣そのものだった。
まだ未熟な欲は、無自覚のまま刺激されて、止める術も持たないまま、成歩堂の中で徐々に膨らんで行った。
甘くて、苦い。
矛盾しているこの言葉が、これほど当てはまる事態はないと思った。
もっと……御剣とこうしていたい。
いけないことだと解かっているのに。
もう、自分ではとっくに止められなくなっていた。



「成歩堂、そこに、寝てみてはくれないか」

再びあの遊びを繰り返すようになってから、数日が過ぎたある日。
御剣は成歩堂の手を引いて、自分の寝室へと連れて来てそう言った。
彼の指差す場所は、ふかふかで柔らかそうなベッドの上。
いつもなら、何も考えずに飛び込んで、その心地良さを味わえるのに。
成歩堂の胸は、何かできゅっと掴まれたように痛み、急に心細くなった。
でも、断ったらまた、彼はこの遊びを止めてしまうに違いない。
少し躊躇った後、成歩堂はゆっくりと頷いて、大人しくそこに横になった。
クラスメイトの、親友の見ている前で、彼の言うままに寝そべる。
何だか、病院にでも行って、医者に診察されているような気分だった。
けれど、すぐに御剣が隣に横になったので、少し安心する。
見下ろされたままと言うのは、何だか漠然とした不安を生み出すものだったから。
御剣と成歩堂は一つのベッドに向かい合って横になると、顔を見合わせた。
不思議と、同時に小さな笑い声が零れる。

「何だか、変だね、御剣」
「うム、そうだな」

少しの間肩を震わせて笑って。
それから、御剣の目が真剣になっていることに気付いた。
成歩堂は笑い声を引っ込めて、彼を見返す。
その顔が寄せられて、御剣はそっとキスをして来た。
どちらからともなく手を繋ぐ。
御剣の手が温かくて、緊張でもしているように汗ばんでいたのが、成歩堂の印象に強く残った。



その日を境に、今度はこうして、寝転がってキスをするようになった。
強く手を繋いだりもする。
段々と、罪悪感は成歩堂の心の中で薄れ、彼とこうすることが当たり前のことのようになり出していた。



「最近、お前ら二人とも付き合い悪いよなぁ」

時々、矢張はそんなことを言っていたけれど、その度に御剣が上手く誤魔化していた。
当然だと思う。
あの遊びを始めてからこっち、成歩堂は放課後毎日のように御剣と会っていた。
不思議と、他のことが頭に入らないのだ。
あんなに欲しかった玩具も、買ってとねだっていた本も、どうでも良くなってしまった。
それだけ、成歩堂はこの秘密の遊びに夢中になっていた。



―服を、脱いでみよう。
更に、数日経ったある日。
いつものようにベッドの上に横になって、何度かキスをした後、御剣がそう言った。
それは、今までして来たことに比べて、遥かにいけないことのように思えた。
成歩堂が躊躇していると、御剣はゆっくりと手を上げて、自分の着ているシャツの襟元を緩めた。
一つずつ、ぷつぷつと外れていくボタンが、未知の行為への階段を一段ずつ上がって行くように思えて、成歩堂は息を飲んでそれを見守った。
男同士。別に、恥ずかしいことではない。本来ならば。
でも、これは、違う。
それだけは漠然とだけど理解出来た。
御剣の腕からシャツの袖口が抜け落ちて行く。
それを言葉もなく見詰めた後、成歩堂はおずおずと自分のトレーナーの裾に手を掛けた。
上着とズボンと、それを二つ脱いだだけ。
下着はそのままだけど、密着する肌の部分は圧倒的に多くなった。
その手触りと温もりに、成歩堂は戸惑いを感じた。
何だか、自分が可笑しくなってしまいそうになったから。
このままでは、何もかも麻痺してしまうような、恐怖。
良心が咎めているのだと、このときは解かるはずもないけれど。

「どう……なるの?ぼくは……」

これから先、一体……。
肌を寄せ合ったままで、成歩堂はか細い声を発した。
いつものように、御剣が大丈夫と言ってくれれば……。
そんな気持ちもあったのかも知れない。
でも、彼は少しだけ困惑したように口を開いた。

「ぼくにも、解からない。どうしていいのか。そもそも、して良いことなのかどうかも。解からないのだよ、成歩堂」
「み、つるぎ……」

彼にも、解からないことがある。
この先のことは、何も知らないのだ。
そうであれば、進むことは出来そうもなかった。
それに、御剣が初めて言った。

『して良いことなのかどうか』

それは成歩堂の不安をひどく煽った。

「いつか、罰があるのかな、ぼくたちに」
「成歩堂……?」
「きっと、他の誰もこんなことしてない。矢張だって、クラスの他のやつだって、誰も……」

何故だか急に悲しくなって、成歩堂はぎゅっと唇を噛み締めた。
何だか泣きそうになって、ベッドのシーツに顔を埋める。
御剣とする秘密の遊びが、心地良くて仕方ない。
だからこそ、怖い。
何も解からないだけに、ただ恐怖だけがあった。



「大丈夫だ、成歩堂。これは、悪いことではないのだ」

ややして、そんな声が耳に飛び込んで、成歩堂は顔を上げた。

「皆、まだ知らないだけなのだよ」
「でも……」
「ぼくは、きみが好きだ。だから、きみとこうしていたい。勿論、きみが嫌ではなければ、だ」
「……御剣」

御剣の言葉は、不思議な力でもあるのだろうか。
成歩堂の胸を鉛のように重くしていた不安は消し飛んで、代わりに仄かな温かさが広がっていくのを感じる。
薄っすら浮かんでいた涙を拭いて、成歩堂は笑顔を浮かべた。

「御剣……。ぼくも、好きだよ。きみのこと」

成歩堂が言い終えると、御剣は顔を寄せて、いつものように唇にキスをした。
その日は、一度だけでは足りず。
唇を離すと、間隔を空けずにまたすぐ顔を寄せて、キスを繰り返した。
何度も、何度も。
触れている肌が心地良くて、手を繋いでいるくらいじゃ、全然足りない。
御剣もそう感じていたのだろうか。
彼は成歩堂を抱き寄せるように自分の側に引いた。
そのまま、御剣の手が成歩堂の肩を抱く。
そしてまた、キスに戻る。
運動している訳でもないのに呼吸が乱れて、成歩堂は深く息を吸い込んだ。
は、と吐き出された息が、御剣の首筋を掠める。
彼は少し身を捩って、それから何かに煽られたように、思い切り成歩堂の首筋に口付けをした。

「……ん!」

くすぐったさと妙な感覚が相まって、成歩堂はびくと肩を揺らした。
その反応に驚いたように、御剣が顔を離す。
彼の目は、成歩堂が嫌がるのを恐れているように見えた。

「ご、ごめん。大丈夫だよ、御剣」

成歩堂が言い終えないうちに、無言のまま彼に抱き竦められた。
と言うより、抱きつかれたと言った方がいいだろう。
成歩堂の首筋にも吐息が掛かって、御剣の呼吸も乱れているのが解かった。
静かな部屋に、二人の微かな息遣いと、ぎしぎしとベッドの揺れる音だけが聞こえる。
成歩堂の胸は興奮を覚えて高鳴った。
そのまま、離れるのが名残惜しくて、時間の許す限り、二人でずっと数え切れないほどキスをした。
体にそっと触れて、抱き合う。
ただそれだけの行為だったけど、一生忘れられないような気がした。
このまま、抱き合ったまま、彼と離れられなくなってしまったらどうしよう。
なんて逆らいがたい、不思議な魅力のある遊びなんだろう。
これは本当に危険なことなのではないかと、成歩堂は初めて思った。
でも。
御剣が一緒ならば、何も怖くはなかった。



「御剣、今日は?」

いつものように、放課後になってから走り寄って声を掛けると、彼は首を横に振った。

「今日は、お父さんに付いて裁判所に行くのだよ。すまない、成歩堂」
「そうなんだ」
「明日、また会おう、成歩堂」
「うん。解かったよ、御剣」

じゃあ、明日。
そう言って彼と別れて、成歩堂は久し振りに矢張や他の子供たちと遊びに行った。
けれど……何故だかそれは、ちっとも楽しくなくて。
ちっぽけで安っぽい、価値のない玩具のように見えて、やたらと退屈したのを覚えている。
御剣に会いたい。
明日になれば会える。
そう言い聞かせて、成歩堂は夜が明けるのをひたすら待った。
でも。
次の日、御剣は学校に来なかった。
次の日も、その次の日も。
彼が学校に来ることは、もう二度となかった。

そして、数日経ってから、彼がどこか知らない場所に転校してしまったと聞かされた。
どうしても信じられなくて、成歩堂は学校が終るなり、御剣の家に向かって走った。
チャイムを押しても誰も出ない。
外から覗いて見ると、あの、いつも綺麗で整っていた家の中には何もなくなってしまっていた。
いつも一緒に腰掛けていたソファも、高そうな家具も。
その上に寝転んで、何度も何度もキスを交わした、子供部屋のベッドも。
何もかもが、御剣の姿と一緒に跡形もなく消えてしまっていた。

そうして、あの秘密の遊びは他の誰にも知られることなく。
成歩堂の胸に甘くて苦い棘を残して、その日を限りに葬り去られることになった。