トライアングル




みぬきが成歩堂の新しい家族になってから、例の裁判の影響で、随分と大変なことがあった。
けれど、数ヶ月も経つ頃には流石に落ち着いて来て、穏やかに生活出来るようになった。
事務所の中は少しずつ様変わりして、みぬきの使うマジックの小道具がぽつぽつと増え出して。
そんな頃、成歩堂の元に1本の電話が掛かって来た。

『あ、もしもし、なるほどくん!』
「真宵ちゃん!久し振りだね」

よく聞き慣れた少女の声に、成歩堂はホっとしたように笑顔を浮かべた。

あの裁判の後、最初から自分のことを信じてくれた真宵とは、何度も話をした。
みぬきの事情も、彼女を引き取ることにしたと言う話も、勿論した。
本当は、小さな女の子のことなんて解からないことだらけだったから、もっと真宵に色々話を聞きたかったのに。
春美のこともあるし、真宵ならきっと、良いアドバイスをしてくれたに違いない。
彼女の明るさとか優しさにはいつも救われて来た。
でも…。
正式に倉院の家元になった彼女は何かと忙しくて、直接事務所に来ることはあまり出来なかった。

『ごめんね。あたしに会えなくて寂しいでしょ、なるほどくん』
「う、うん?ま、まぁね…」

曖昧な返事をすると、受話器の向こうで楽しそうな笑い声が上がった。

『それでね。実は、はみちゃんがどうしてもそっちに行きたいって言ってるの』
「春美ちゃんが?」
『うん、そう。多分、会いたいんじゃないかなあ…。なるほどくんと、みぬきちゃんに』
「え……?」

春美が会いたがっている…?
まぁそれは、ごく自然なことなのだろうけど。
彼女の性格を考えると、何だか嫌な予感がする。
女の方と一緒に住むなんて、許しません!と言いながら容赦なく頬をビンタされるイメージが、ありありと成歩堂の脳裏に浮かび上がる。
いや、でも。みぬきはまだ子供だし。きっと、大丈夫だろう。
そんなことを考えながら、成歩堂は無意識にほっぺたを掌でさすった。

『迷惑じゃないかな?』
「そんなはずないだろ、大丈夫だよ」
『そっか!じゃあ、はみちゃんのこと、よろしくね』
「うん、待ってるよ」

日にちと時間を告げて、それから少し他愛もない話をして、真宵の電話は切れた。



そして、数日後。
真宵が告げた日にちと時間ぴったりに、成歩堂事務所には丁寧で可愛らしい声が響いた。

「お、お邪魔致します」

何だか、久し振りに聞く気がする、春美の声。
成歩堂は慌てて彼女を出迎えに入り口まで足を進めた。

「いらっしゃい、春美ちゃん」
「なるほどくん!」

成歩堂を見上げた春美は、パッと顔を輝かせたけれど。
すぐ後ろに立っているみぬきの姿に気付くと、少しだけぎこちない表情を浮かべた。
春美の様子にはお構いなく、みぬきは満面の笑みを浮かべてはきはきした声を上げた。

「初めまして!成歩堂みぬきです。よろしくお願いします、春美さん」
「こ、こんにちは。は、初めまして。綾里…春美と申します」

にこやかな笑顔に釣られて、春美も返事を返しはしたけれど…。
成歩堂、みぬき。
よく知っている名字のはずなのに、聞き慣れない名前。
みぬきの自己紹介に、春美の表情はますますぎこちなくなってしまった。
ソファに腰掛けても、落ち着きなく辺りを見回している。
きっと、随分と様変わりした事務所に違和感があるのだろう。
それに、春美がかなり人見知りなのは、知っている。
彼女の緊張を解そうと、成歩堂はみぬきにそっと耳打ちした。

「ねぇ、みぬきちゃん。春美ちゃんに、何かマジック見せてあげて」
「うん、パパ!任せて!」

みぬきはにこりと笑って頷くと、春美の側まで行って、あの大きなぼうしクンを勢い良く出して見せた。

「きゃぁ?!」

突然現れた不気味な大男に、春美は心底びっくりしたようで、大きな目をますます大きく見開いた。

「まぁ、何て不思議な…この殿方は、一体どう言う…」
「ぼうしクンて言うんです!よろしくお願いします」
「ぼうしクン、さま…」

心底感心したように呟いた春美だけど、何を思ったのか…急に親指の爪を噛みながら、そっと眉を顰めた。

「あ、あの、なるほどくん」
「何?春美ちゃん」
「何故みぬきさまは、このようなことが出来るのですか」
「みぬきちゃんは魔術師なんだよ。それもプロのね」
「プロの、魔術師さま…。それは、霊媒師とはいかなる関係にあるのでしょうか」
「い、いかなる関係にも当たらないと思うよ」
「そ、そうですか。でも、素敵です!わたくし、感激致しました」

取り敢えず、春美が笑顔を浮かべてくれて良かった。
やっぱり、子供同士。あとは何とかなるだろう。
そう思って、成歩堂はホッと胸を撫で下ろした。



その後。
一時間ほど一緒に話をして、お茶を飲んで。
大分打ち解けたところで、春美が遠慮がちに口を開いた。

「では、みぬきさまはここにずっといらっしゃるのですか」
「そうだよ、春美ちゃん。ぼくたちは家族になった訳だからね」
「か、家族……」
「そうだよね、パパ。みぬき、パパが一番好きだもん」
「ありがとう。ぼくもみぬきちゃんが一番だよ」
「……え」

二人の和やかな会話に、春美は目を見開いた。

一番。それは、特別だと言うこと…?
どうして。
成歩堂の一番は、真宵のはずなのに。
彼は、それを忘れてしまったのだろうか。
きっと、真宵が忙しくてなかなか事務所に来れないから。
二人の間に燃え上がっていた熱い愛の炎が、あろうことか消えかかってる!?
これは、噂に聞く、倦怠期と言う物だろうか。
これではいけない!

(わたくし頑張ります!真宵さまの為に!)

春美は胸中で叫んで、成歩堂の気持ちを取り戻そうと、ぐいと袖を捲り上げた。
でも、どうしたら良いのだろう。
少し考えて、出掛けに真宵に渡されたものをすっかり忘れていることに気付いた。

(こ、これです!)

ここは、成歩堂の大好きなものに訴えよう。
春美は改めて臨戦体制になると、元気良く声を上げた。

「あ、あの!なるほどくん!お、おリンゴ…召し上がりますよね。真宵さまが持たせて下さったんです。なるほどくんがお好きなので」

言いながら、大きくて真っ赤なリンゴを取り出すと、成歩堂の目がちょっと嬉しそうに輝いた。

「ありがとう、春美ちゃん」
「…!い、いえ…」

その笑顔に、ホッとする。
いつもと変わらない成歩堂の顔だ。

「で、では!わたくし剥いて差し上げますね!」

春美は張り切って更に袖を肩の辺りまで捲り上げると、てきぱきとリンゴの皮を剥いてお皿に盛り付けた。
事務所の中には、爽やかな果物の香りが漂う。

「わぁ、美味しそうだな」
「どうぞ、なるほどくん。召し上がって下さい」
「ありがとう、春美ちゃん。ほら、みぬきちゃんも」
「わぁ、美味しい!それに凄く上手です」
「真宵ちゃんより上手かもね、春美ちゃん」
「…!そ、そうですか?ありがとうございます」

真宵の名前が成歩堂の口から出て来たので、何だかホッとする。

「なるほどくん、倉院の里に来て下さればもっと沢山おリンゴありますからね。宜しければ、毎日でも来て下さって良いのですから」

続いて、ここぞとばかりに押し込むと、成歩堂は優しい笑顔を浮かべた。

「はは、ありがとう、春美ちゃん」

でも。
二人の会話に、今度はみぬきの胸が不安でいっぱいになってしまった。

倉院の里?それって、どこだろう。
それに、今日まで知らなかった。
成歩堂が、リンゴが大好きだったなんて。
彼はいつも、みぬきちゃんは何が食べたいの?とか、みぬきちゃんの好きなものは?と聞いてくれて、自分のことはあまり教えてくれなかったから。
リンゴなんて、剥いてあげたことなかった。
それに、もしリンゴを買って来たとしても、あんなに上手には剥いてあげられない。

(みぬきは、何も出来ない…?)

でも、春美は違う。
それに、その…何度も名前を聞いたことがある。
真宵、と言う人。
もしかしたら、成歩堂は本当に毎日リンゴを食べに何処かへ行ってしまうかも知れない…?

みぬきは不安に耐え切れなくなって、出来るだけ明るい声を上げた。

「ね、ねぇ、パパ!みぬき、今度パパと一緒に遊園地に行きたいよ。連れて行ってくれる?」
「ん?ああ、勿論だよ。一緒に行こうね、みぬきちゃん」
「やった!パパ、ありがとう!じゃあ、来週の日曜日に連れて行ってね」

良かった。成歩堂はやっぱり優しい。
ホッとして安堵の吐息を吐き出したみぬきだったけれど。
重なるようにして上がった春美の声に、少しだけどきりとした。

「あ、あの!なるほどくん!」
「何?春美ちゃん」
「わ、わたくしと!いえ、わたくしと真宵さまで、トノサマンのショーを見に行きましょう!ぜ、是非!」
「え、う、うん。勿論、構わないよ」
「あ、ありがとうございます!あ、あの、それで…その」

春美はそこで、とても言い辛そうに口籠もってしまった。

「どうしたの?春美ちゃん」

成歩堂が優しく促すと、少し沈黙した後、春美は思い切ったように顔を上げた。

「じ、実は…。わたくしも真宵さまも、来週の日曜日しか、空いていないのです」
「え……」

(え……?)

成歩堂が驚いたように目を見開いて、みぬきの表情がサッと曇る。
それを見て、春美の胸はズキっと痛んでしまった。

「も、申し訳ありません…」

何だか後ろめたくて、二人の視線から逃れるように顔を伏せる。
成歩堂は少し困っているようだった。

「そ、そうか…。どうしよう、かな…」

(パパ…)

(なるほどくん…)

微妙な空気が広がる中、二人とも、息を飲んで成歩堂の回答を待つ。
でも、その緊張を破るように、不意に事務所のチャイムが鳴り響いた。

「あれ、お客さんかな。ちょっと待っててね、二人共」

そう言うと、成歩堂は溜息を吐きながら、事務所の入り口へと向かった。
もう、ここは法律事務所ではないのだけど。
あんなに大騒ぎになったものの、まだ世間の喧騒を知らずに尋ねて来てしまう人がいるのだ。
成歩堂が行ってしまって、二人だけで部屋の中に取り残されると、みぬきと春美の間には気まずい沈黙が広がった。

(パパ、みぬきと行ってくれるよね?)

新しく出来たパパのこと、ずっと独り占め出来ていると思っていたのに。

(なるほどくん、一緒に来てくれるでしょうか)

成歩堂は、真宵のものだから、きっと…。
でも、どうして少し不安になってしまうんだろう。
それに、何故だかちくちくと胸も痛む。
二人は暫くの間無言のままだったけれど、やがて、みぬきが意を決したように口を開いた。

「あの、春美さん」
「は、はい!何でしょうか」

みぬきの声に、春美はぴしっと背筋を正して答える。
顔を上げると、少し暗い表情のみぬきが見えた。

「真宵さんと言う方は、どんな方なんですか」
「…!は、はい!真宵さま…真宵さまは、それはもう素晴らしい方です」

みぬきに、真宵のことを解かって貰うチャンスだ。
春美はぎゅっと拳を握り締めて、一生懸命に話し出した。

「真宵さまは、とても頭が良くて美しくて、本当にお優しくて、朝は必ずわたくしより早く起き、夜もわたくしより遅くお休みに…それからご飯も好き嫌いなく、駆けっこも早くて…」

語っているうちに、段々と熱が籠もって来て、春美はきらきらと目を輝かせた。
成歩堂と真宵が一緒にいるところを想像すると、あまりのお似合いぶりに、頬が赤く染まってしまうほど…。
長い長い熱弁が終ると、興奮が冷めない春美とは対照的に、目の前のみぬきはしゅんと肩を落として小さくなってしまった。

「そう、なのですか。真宵さんは、そんなに素敵な…」
「み、みぬきさま?」

あからさまに落ち込んだみぬきの様子に、我に返って声を掛ける。
顔を覗き込むと、春美と同じくらいに小さな手は、ちょっとだけ震えていた。

「あの、パパを…連れて行っちゃわないで下さい!」
「み、みぬきさま?」
「みぬきには、パパしかいないんです。パパがいなくなったら、みぬきには誰もいなくなっちゃう…」

みぬきの言葉に、春美は驚いて目を見開いた。
真宵から聞いていたのは、ただ、みぬきが成歩堂の新しい家族になったと言うことだけ。
詳しいことは、何も聞いてなかったのだ。
真宵が何だか言い辛そうだったので、春美もそれ以上は聞けなかった。
だから、何も知らなかったのだけど…。

「あ、あの…お母さまやお父さまは?」

遠慮がちに尋ねると、みぬきはますます表情を曇らせてしまった。

「あの…いなくなっちゃたんです。二人共…」
「え……っ?!」

思わず、驚いて口元を掌で覆う。

「そ、そうだったのですか…」
「……」

知らなかった。みぬきにそんな事情があったなんて。
明るい子だったから、そんなこと考えてもみなかった。
でも、少し考えれば解かることだったかも知れない。
誰もいなくなってしまったから、成歩堂が家族になってくれたんだ。

(わたくしと、同じ)

いつも春美に優しくしてくれた母親が、あの時突然いなくなってしまって、どれだけ心細い思いをしたか解からない。
悪いことをしてしまったからだと、今はもう解かっているけど。
それでも、自分にとってどれだけ大きな存在だったことか。
寂しくて泣いてしまって、眠れない日もいっぱいあった。
でも、自分は立ち直ることが出来た。
それは…。

「わたくしには、真宵さまがいらしたから……」
「……?」
「わたくしに真宵さまがいて下さったように、みぬきさまにはなるほどくんがいて下さるのですね…」
「春美さん…」

そうだったんだ。
だから、真宵は言い辛そうにしていたのかも知れない。
春美に悲しいことを思い出させないように。
それなのに…。

(わたくし、悪い子です…)

俯いて胸中で呟きを漏らしたところで、成歩堂がようやく戻って来た。

「ごめんね、二人とも」

成歩堂の顔を見た途端、色々な思いが溢れ出してしまって、春美はわっと泣き出してしまった。

「ご、ごめんなさい、なるほどくん!わ、わたくし…」
「ど、どうしたの、春美ちゃん?!」

突然泣き付かれて、成歩堂が驚いて目を見開く。
何があったのかと、探るようにみぬきの方を見ると、今度は彼女まで涙ぐんでしまった。

「パパ、ごめんなさい、みぬきがいけないの!パパを独り占めしたかったから…!」
「み、みぬきちゃんまで!ど、どうしたんだい?」

これまでの成り行きなど何も知らない成歩堂は、二人の女の子に泣き付かれて、ただおろおろするばかりだった。



その後。
また会う約束を取り付けると、春美は何度も丁寧に頭を下げながら、倉院の里に帰って行った。
でも、泣き止んだ二人は嘘のように打ち解けて仲良くなっていて、成歩堂なんてそっちのけで楽しそうに遊んでいた。
何だかちょっと、寂しくなるくらい。
どうして急に仲良しになったのかは、よく解からないけれど…。
でもまぁ、仲が良いなら、それに超したことはない。
遊園地もトノサマンのショーも、皆で一緒に行けばいい。
真宵にもそう伝えよう。きっと、皆一緒ならもっと楽しい。
みぬきの寝顔を見詰めながらそんなことを考えて、成歩堂はそっと携帯電話を手に取った。



END