Upheaval




まさか、この事務所でこうして働くようになるなんて。
あの初めての裁判が終った後から、絶対に来るもんかと思っていたのに。
尊敬していた先生をなくしてしまったこともそうだけど。
あの人物のしたことは、王泥喜にとって当然……かなりショックなことだった。
偽物の証拠品なんて……それも、あの成歩堂龍一が。
正直、まだ信じられない。
でも。それでも、殴ってしまったのは、不味かったと思う。
あの時のことを思い出してしまうからか、今でも成歩堂と顔を見合わせると、少し気まずいような気がする。
みぬきがいる時はまだ良いのだけど、何かの弾みで二人きりになった時とか……。
何となく、ぼんやりと彼の顔を見つめていると、あの殴られた瞬間に一瞬だけ歪んだ顔と、気のせいかも知れないけれど少しだけ悲しそうに見えた目と、すぐに隠されて読み取ることの出来なくなった表情と…。
それが交互に重なりあって、落ち着かない気分になる。
考えれば考えるほど、胸の中がもやもやして落ち着かない。
何だか、気持ち悪い。
彼に会う度、こんな思いをするなら、いっそ口に出してしまった方が良いんだろうか。
蒸し返すのは何だか嫌だけど、せめて殴ってしまったことだけは謝ろう。
考えた末、そんな結論に達して、王泥喜は成歩堂と二人きりになるのを見計らって、彼に声を掛けた。

「あの、成歩堂さん……」

戸惑いがちに名前を呼ぶと、王泥喜よりも少し高い位置にある、彼の双眸が見える。

「何だい、オドロキくん」

気だるげな面持ちで王泥喜の視線を受け止めて、彼はそっと首を傾げた。

(うう、緊張するなぁ……)

ごくりと生唾を飲んだ後、王泥喜は思い切って口を開いた。

「あの、あの時は……」
「ん……?」
「裁判のとき…殴ったりして、すみませんでした」

ぎこちない調子で言い終えると、成歩堂が少し息を飲んだのが解かった。
きっと、こんな話題を持ち出されるとは思っていなかったのだろう。
どんな反応が返って来るのかと不安に思いながら、無言のまま待つ。
少しの間の後、彼は僅かに顔を伏せて口を開いた。

「ぼくの方こそ、すまなかった」
「……え?」

耳に飛び込んで来た言葉に、王泥喜は意表を突かれて目を丸くした。
まさか、彼の方から謝罪の言葉を聞けるとは思っていなかった。
何を考えているのか解からない、彼。
ずっと憧れで、殺人の容疑者なんかになったときも信用していたけれど、あの時それが何もかも滅茶苦茶にされてしまったような気がして、訳が解からなくなってしまった。
彼がどんな思いだったのかは、今でも解からないけれど……。
謝るだけのつもりだったのに、又少し複雑な思いが頭を擡げる。
色々と思い巡らした為に、咄嗟に言葉が浮かばなくて黙っていると、彼は尚もゆったりとした口調で続けた。

「言い訳はしないよ。きみには、本当にすまないことをした」
「いえ、別に……。それで、本当のことが解かった訳ですし……もう、いいです」
「そうか……」

ほんの少しだけ突っ掛かるように言うと、成歩堂はそっと顔を伏せた。
俯いたその顔が明らか陰りを帯びていて、思わず息を飲む。

(何、だよ……)

殴ってしまったときだって、あんなに平然としていたくせに…。
何だか調子が狂う。
今だって、煙に捲くような言い方をされると思っていたのに。
今日に限っては、どうしてそんな……。

(成歩堂さんでも、こんな顔するのか…)

複雑に思う反面、あまりお目に掛かれない落ち込んだ彼の様子を目の当たりにして……。
もう少しだけ、彼のこんな顔が見て見たいと、何だか妙な好奇心がむくむくと沸いてしまった。
別に、困らせたかった訳ではないけれど。
暫し考えて、王泥喜は上目遣いで彼を見上げた。

「けど……弁護士時代のあなたは、どうだったんですか」
「…?どう言う意味だい?」

含みのある言い方をすると、成歩堂はこちらに視線を移して怪訝な顔をした。
こんなこと、言っていいのかどうか。でも、少しだけなら。
ドキドキと早まる心臓を無視して、王泥喜は尚も彼の顔を見返しながら続けた。

「現役の時も、あんなことをしていたなんてことは……ないんですか」

少しだけ挑発するような言い方だったかも知れない。
勿論、そんなこと本気で思っていた訳じゃないけれど。
これでもう一度、さっきみたいな顔をしてくれるだろうか。
そう思ってますます鼓動が煩く鳴ったのだけど。
王泥喜の思惑とは裏腹に、彼はいたって冷静だった。
流石に、数々の修羅場を乗り越えてきた人なだけある。
彼は何事か考える素振りをした後、薄い笑みを浮かべて口を開いた。

「そう言うきみこそ、あんなに手が早かったら、その内大変な事件なんかが起きてしまうかもね」
「……?!な、何ですか、それ!」

いきなり自分に矛先が向いて、ムキになって声を荒げた。
真っ向から覗き込んだ彼は、いつもの気だるいような表情で笑みを浮かべていた。

「そうだね、手が早いってことは、もっと色々なことをしでかしてしまうとか…」

(え……?)

「……い、色々って……」

王泥喜が咄嗟にそう呟いてしまったのには、別に深い意味はない。
暴力以外の、色々なことと言えば……。
何だろう。すぐには思いつかなくて、自然と声に出ていただけだ。
それなのに。
何を思ったのか、成歩堂は急に悪戯っぽそうに目を瞬かせて、王泥喜の顔を覗き込んで来た。

「オドロキくん、きみ……。何か変なこと考えてないか」
「え……」

(は……?)

王泥喜が両目を大きく見開くと、成歩堂はじっと真っ向から視線を向けて来た。
こんなに面と向かって覗き込まれるなんて、彼に限らず……あまりないから。
その視線に居心地の悪さを感じながら、王泥喜は訝しげな顔をした。

「な、何なんですか?一体……」
「今、何か如何わしいこと考えてただろう」

(……はぁぁぁ?!)

「ちょっ、ちょっと!!何言ってるんですか?!」

成歩堂の言葉に、王泥喜は思わず裏返った声を上げてしまった。
一瞬、何を言われているのか、本当に解からなかったくらいだ。

「そんなに慌てるなよ。余計怪しいなぁ」

しかも、そんなことを言って何だか意味有り気な笑いを漏らしている。

(な……何なんだよ!)

からかわれたことが解かって、王泥喜はカァッと頭に血が昇る思いだった。

「あ、慌てて何か、いませんよ!!!だいたいですね、如何わしいことって何なんですかっ?!俺には解かりませんよ!」
「へぇ、本当に……?」
「ええ、知りませんね、そんなこと!!」

王泥喜は思い切り顔を逸らして、不貞腐れたように吐き捨てた。
ついさっきまで、もっと彼を困らせたいと思っていたことなんて、とっくに遥か忘却の彼方だ。
もう、一刻も早くこの場から立ち去ってしまおう。
そう決めた王泥喜の行く先を、さり気無く成歩堂が立ちはだかって塞ぐ。

「……っ!」

退いて下さい、と言おうとした王泥喜は、いつの間にか自分が壁際に追いやられていたのに気付いた。

「……?」

(え……)

そして、相変わらず進路を塞ぐように立った成歩堂が、一歩足をこちらに進め……。
王泥喜は何だか……得体の知れない悪寒のようなものを感じて小さく身震いした。

「そうだなぁ、例えば……」
「……?!」
「こう言うこととか……」
「なっ……!?」

いきなりぐい、と距離を縮められて、王泥喜は思い切り引き攣った声を上げてしまった。
成歩堂の顔が、吐息が掛かりそうなほど間近にある。
しかもその彼の手が、思わず息が止まりそうなほどにしなやかな仕草で持ち上がって、王泥喜の頬の辺りをするりと撫でた。
彼の指先から一瞬だけ温もりが伝わって、すぐに離れる。
たった、それだけ。

「……っ」

それだけのことなのに。
何て…。
王泥喜は思わず息を飲み、目を限界まで見開いて、相変わらず悪戯っぽい光を浮かべた気だるそうな目を見詰めた。
おまけに、もう見慣れているはずのその目が、妙に誘うような色を帯びているようで。
何と言ったらいいんだろう、怪しい魅力……とでも言うんだろうか。

(な、何て顔するんだよ、この人!!)

成歩堂の周りをやんわりと取り巻く空気が、尋常じゃない。
まるで、それにすっかりあてられてしまったように、王泥喜はその場から一歩も動くことが出来なかった。
足が動かなくて、言葉が何も出て来ない。
顔を逸らすことも出来ない。
彼の目に捕えられたままじゃ、どうにかなってしまう。
頭の奥が、熱くなって、どくどくと鼓動が早くなる。

「な……」

成歩堂さん……。
引き寄せられるように、そう彼の名前を呼ぼうとした、直後。

「はは!今の、きみの顔……」
「……?!」

急に、目の前の人が今までの雰囲気など嘘のように、そう言って弾かれたように笑い出して。
何度も目をぱちぱちと瞬かせた後、王泥喜はようやく正気に戻った。

「なっ、なっ、なっ……」

真っ赤になって何か文句を言おうとしても、意味不明な言葉が出るばかり。
こんなこと、信じられない、成歩堂が……!!

「よっ、よくも、こんな……」
「はは、すまないね、本当に……」

謝罪の言葉を吐きながらも、成歩堂はまだ小さく笑いながら肩を震わせている。
王泥喜の目の前は、もう羞恥やら怒りやらで真っ赤だった。

「あっ、あなたがこんな人だったなんて……ガッカリですよ!!」
「じゃあ、どんな人だと思ってたんだい?」

言いながら、まだ語尾に笑いが混じっている成歩堂に、王泥喜はついにぷちっと切れた。

「も、もういいですから!!!そこ退いて下さいっ!!」
「そんなに怒らないで欲しいな、悪かったよ」

全然反省など感じられない彼の体を、ドンと押し退ける形で退かせて、ズカズカと大股で歩き去りながらも。
まだ耳元に届く軽やかな笑い声に、王泥喜はぶるぶると拳を握り締めた。



「全く、何なんだよ!あの人は!」

思い切り馬鹿にされてしまった。
事務所を飛び出してからも、王泥喜は怒りが収まらなくて、両の拳を握り締めると、すぐ側にあった塀をバァン!と叩きながら叫んだ。
どの裁判よりも、渾身の力を込めてしまった。
何なんだ、一体。
本当に、あんな人だとは思わなかった。
それに、あんな……。あんな顔まで……。
先ほどまでのやり取りを思い出しながら、王泥喜は瞼の裏に焼き付いた成歩堂の顔を思い浮かべた。
彼の、あの感じ……。何だと言うのだろう。
回想の中なのに、まだ何だか変な気持ちになる。
でも、そんなこと、もう関係ない。
今に見てればいい。
あの、いつも気だるげで余裕たっぷりの顔を、いつかきっと、滅茶苦茶にしてみせるから……。
そんな物騒な誓いを立てつつ。
ただの憧れとか軽い反発とか、そんな感情が入り混じっていた今までとは違って、明らかに何か別の感情が芽生えてしまったのには知らないフリで。
かんかんに怒った王泥喜は、それから暫くの間まともに成歩堂と口を利こうとしなかった。