ユートピア
九月の初め。
学校では、一ヵ月後にある学芸会に向けて、色々な準備が始まっていた。
成歩堂のクラスでは、劇をやることになった。
王子さまとお姫様が結ばれる、いわゆるありふれた感じの劇。
まず、役者を決めるところから始めて、女子の全員一致で御剣が王子様役に決まったのだが。
クラスには重大な問題が生じていた。
姫役に立候補する女子が多すぎて、一向に役が決まらないのだ。
しかも決めている間に口喧嘩まで始める始末。
「女の子って怖いね」
「普段は皆可愛いんだけどなァ……」
成歩堂と矢張は教室の隅で膝を抱えて、彼女たちのやり取りを呑気に傍観していた。
ホームルームの時間が終わりに近付いても、一向に相手役は決まる気配がない。
その上、妙にヒートアップしてしまったのか、女の子たち数人が取っ組み合いまで始めてしまった。
「いい加減にしなさい!」
これには、流石に担任の教師も黙っていない。
「そんなに喧嘩するなら、姫役は男の子にやって貰います!いいですね!?」
女教師の一言に、教室はブーイングの嵐になったけれど。
「御剣くん、どう?誰か推す人はいる?」
全て無視して、教師は御剣の顔を覗き込んだ。
こうなったら、クラス委員でもある彼に決めて貰うのが、一番手っ取り早いのかも知れない。
「う、うム……」
矛先を向けられた御剣は少しだけ考え込んで、それから教室の隅にいた成歩堂の方をくるりと向いた。
皆の視線が、一気に成歩堂へ集中する。
「え、な、何……?」
教室の喧騒を他所に、矢張とじゃれながら悪ふざけをして遊んでいた成歩堂は、ただならぬ空気に気付いて目を丸くした。
戸惑う視線が、真っ直ぐにこちらを見詰める御剣のものと合って、ぴたりと止まる。
「御剣……?」
「成歩堂」
「な、なに……?」
怪訝そうな視線を向けると、彼は急にびしっと人差し指を突き付けて来た。
「決めた。姫は、きみがやるのだよ、成歩堂!」
「……えっ?!」
「「ええええ?!!」」
成歩堂の声は、クラスの女子の黄色い悲鳴に掻き消されてしまった。
教師はああ言ったけれど、きっと皆、当然のように自分が選ばれると思っていたに違いない。
「レイジくん、そんな……!」
「……成歩堂がやらなければ、ぼくは役を降りる」
けれど、御剣のその一言で、ぴたりと騒音は止んだ。
「み、御剣、嫌だよ、ぼく」
「成歩堂、きみにしか頼めないのだよ。引き受けてくれると…嬉しいのだが」
「み、御剣……」
彼が、そこまで言うなら……。
じっと見詰める視線にほだされて、成歩堂が頷き掛けた途端。
「い、痛っ?!」
物凄い勢いで成歩堂の頭に消しゴムが飛んで来た。
驚いて振り向くと、消しゴムに続いて矢張がすっ飛んで来るのが見えた。
「ちょっと、待てぇぇい!」
「や、矢張!?」
「な、何だ、きみは……」
ずい、と二人の間に割り込んで来た矢張に、御剣も成歩堂も周りの人物も息を飲む。
普段、こう言うことには全く率先しようとしない矢張なのに。
自分が王子役じゃないと解かった時点で、もう何のやる気も起こさないのが彼だ。
それなのに……。
「成歩堂が姫をやるなら、俺もやるぜ!」
彼はグイと親指を突き立てると、大声でそんなことを言い出した。
これには、周りもただ呆気にとられて、文句を言うのも忘れてしまった。
「な、何を言っている、姫は一人でいい」
一番始めに正気に戻った御剣が、眉を顰めて一喝したが、矢張は聞き入れなかった。
「何だよ!じゃあ俺様の出番は?」
「そうだな……。矢張、きみは家来その一だ。光栄に思いたまえ」
「け、けらい、その一……」
「姫と王子が出会うまで、ぼくの護衛をするのだよ。しっかりやってくれたまえ」
「な、何だってー?!」
「最後、王子と姫がキスをして幸せになるまでを見守るのだ」
「じゃ、じゃあ、台本を直せ!!最後は家来と姫が幸せになりました、って」
「ふざけたことを言うな。姫を幸せにするのは王子に決まっているのだよ」
「何だよそれ!聞いてねェよ!」
矢張は猛然と抗議した後、急に何かを思い立ったように、ふふんと勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「それにきっと、キスならお前より俺の方が上手く出来るぜ」
「何だと?聞き捨てならないな、矢張」
珍しく御剣は声を荒げて、今度はくるんと成歩堂に向き直った。
「成歩堂、そこに直れ」
「は……?」
「これから、試してみよう。どっちが上手く出来るか」
「えっ?!い、いやだよ、ぼく」
「成歩堂」
「……!!」
静かな声で呼ばれて、成歩堂は口を噤んだ。
どうも自分は、御剣の声に弱いらしい。
「きみは何も心配しなくていい。ただ、黙ってそこに大人しくしていれば良いのだよ」
「み、御剣……」
彼が、そう言うなら。
早くもほだされて頷きそうになった成歩堂の間に、又しても矢張がずいっと割り込んだ。
「何だよお前ら!見詰め合うなよな!」
「邪魔をするな、矢張!」
「お前こそ!ヌケガケはなしだぞ!」
「い、痛い!ちょっと、引っ張るな!」
段々と話が膨らんで白熱して来て、終いには御剣と矢張は成歩堂を巻き込んで取っ組み合いを始めてしまった。
こうなってしまっては、教師が出るしかない。
「いい加減にしなさい!!!三人共!!」
教室中に、耳を劈くようなヒステリックな声が上がった。
我に返って顔を上げると、鬼のような形相をした教師が腰に腕を当てて仁王立ちになっていた。
「せ、先生……」
怯えたように見上げる三人に、教師はぴしゃりと言い放った。
「次の時間は、三人共廊下に立っていなさい!!いいわね!!」
次の時間。
三人は仲良く並んで、教師に言われるままに廊下に立っていた。
途中、教室移動で通り掛る他のクラスの生徒たちがクスクスと笑いを零して行く。
矢張は慣れっこのようだったが、御剣は相当堪えているらしかった。
「このぼくが……廊下に立たされるなんて……ぼくとしたことが……」
ブツブツとうわ言のように呟く御剣に、成歩堂は小声で声を掛けた。
「ご、ごめんね、御剣。悪いのは全部ぼくだから」
「い、いや。きみは悪くないぞ、成歩堂。悪いのは、こいつだ」
「こ、こいつとは何だよ!」
「キサマが大人しく家来になっていれば良かったのだ」
「ああ、全部俺のせいさ!この前の遠足で雨が降ったのも、運動会でカミナリが鳴ったのも、合唱祭で地震が起きたのも!全部俺のせいなんだァ!」
「や、矢張、落ち着けよ」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人に、成歩堂はおろおろするばかり。
やがて、喚き声を聞き付けたのか、教室のドアががらりと開いた。
「煩いわよ!!静かにしなさい!」
先ほどよりもヒステリックな声に顔を上げると、額に青筋をぴきぴきと浮かべた担任教師が立っていた。
「せ、先生……」
「三人共、水を張ったバケツを持って立ってなさい!!」
その、数分後。
「この、ぼくが……バケツを持って、廊下に……あろうことか、バケツを……」
「み、御剣……本当にごめん」
「き、きみのせいではない。こいつのせいなのだ全て……」
「ああ、そうだよ!成歩堂がこの前遅刻したのも、俺が寝坊して付き合わせたせいだし、成歩堂がこの前テストで零点だったのも、俺が無理矢理答え見せろって言ったせいだし!」
「お、落ち着けって、矢張……」
喚く矢張をなだめて、落ち込む御剣を励まして、成歩堂は少し考え込むように俯いた。
そして、ややして意を決したように口を開いた。
「あのさ、御剣、矢張」
「何だ、成歩堂……」
「ん?何だよ」
「劇の最後なんだけど」
「……?」
「最後は王子様とお姫様は幸せに、じゃなくて、王子様とお姫様と家来は三人で幸せにってしたらいいんじゃないのかな」
「お、それ……理想だよな」
「う、ム……あまりそう言うのは聞いたことがないが」
「いいんじゃねェの、それで」
「ム……後で先生に掛け合ってみよう」
何とか話が纏まって、成歩堂は嬉しそうに笑みを零した。
けれど、結局……。
その後教師に話をしてみたものの、台本を直すことは許して貰えなかったのだけど。
成歩堂と御剣の台本には、矢張がマジックで付け足した理想のラストが、劇が終るまで堂々と書かれたままになっていた。
終