わがまま




「あれ、どこか行くのかい、牙琉」

夕方頃。
何の連絡もなくふらりと訪れた成歩堂は、トランクに荷物を詰めている霧人を見付けて首を傾げた。

「ええ、出張でね。今日の夜から少し留守にします」

霧人が頷くと、成歩堂はパーカーのポケットに手を突っ込んで俯いた。

「そっか、残念だなぁ、一緒に食事でもと思ったのに」
「すみませんね、又の機会にでも」

今晩だって、きっと夕食が目当てなだけだろう。形だけでもすまなさそうな言葉を述べると、霧人は笑みを浮かべた。
そのまま、もくもくと準備を始め、霧人は綺麗に整ったスーツやシャツを次々とトランクに詰め続けた。
成歩堂は未だに夕食が諦め切れないのか、そのままそこに立ち尽くしているけれど、放っておけばやがて諦めるはずだ。
けれど。
数分経っても、更に数十分経っても、彼は帰ろうとしなかった。

「……」
「……」

新幹線の時間は着々と迫っている。
流石に痺れを切らして、霧人は腕組みをして彼のほうへと向き直った。

「成歩堂」
「何だい?」
「他に何か用でも?」
「別に…」
「それなら、今日はもう帰ってくれませんか」

ここまではっきり告げれば、いくら彼でも流石に大人しく帰るだろう。
今までだってそうだった。気だるい笑みで本心を誤魔化しながらも、そうかい、解かったよ、などと言いながら。
けれど。
少しの沈黙の後に聞こえて来た言葉は、霧人の予想していたものではなかった。

「…いやだ」
「……」

今、何と?

「成歩堂、よく聞こえなかったのですが…」
「帰りたくないんだよね、今日は」
「きみねぇ…」

珍しく、今日の彼は手強い。
霧人は軽い溜息を漏らして、指先で眼鏡をそっと直した。

「私は新幹線の時間があるのですよ、もう行かなくては…」

そこまで言ったところで。

「牙琉先生」
「何……」

突然、名前を呼ばれ、襟元が不躾に掴まれて、グイと引き寄せられた。

「……!」

ぐっと、口元に柔らかい感触が押し付けられて、それからすぐに離れた。
目を見開いて、間近にある成歩堂の顔を凝視する。
一体、今晩はどうしたのだろう。いつもと違う。
何か、あったのだろうか。何か…。
そうでなければ、単なる我侭か。
暫く無言で考える素振りを見せた後、霧人は遂に観念したように溜息を吐いた。

「解かりました。仕方ないですね」
「え……」
「今日発つのは止めましょう」
「出張の予定は?」
「心配いりませんよ、明日の朝一番に飛行機で向かうことにします。混んでいる時期ではありませんし、何とかなるでしょう」
「予定変更かい?きみらしくないね」
「本当ですよ。誰のせいですか、成歩堂」

穏やかな声で言って彼の頬を捉え、霧人は先ほどのお返しのようにそっと顔を寄せた。

「……んっ」

短く声が漏れ、成歩堂がぎゅっとスーツの袖元を掴む。
暫くの間、無言でお互いの唇を奪い合って、それからゆっくりと離れた。

「やれやれ、我侭な人ですね、きみは」
「すまないね、牙琉」
「けれど、それなりの代償は払って貰いますよ。何しろ、私の完璧な予定が崩れてしまったのですから」
「うん、解かってるよ、牙琉」

―でも、仕方ないんだ。今日はここにいたかったから。

どうでも良いような、理由にすらなっていない理由を述べ、成歩堂は霧人の肩に顔を埋めた。