歪曲2




困った。どうしたものか。折角お客さんが来てくれて、閉店まで時間を潰せると思ったのに。
かなり切迫した状況で、のんびりとそんなことを思いながら、成歩堂は相手に気付かれないようにそっと眉根を寄せた。

まず、状況を整理してみよう。
取り敢えず、自分は今相当思わしくない状況に置かれている。何だか知らないけれど、初めて会ったばかりの男が上に圧し掛かっていて、彼の手が衣服の上から体を撫で回している。結構…嫌な感じだ。しかも、衣服が乱されて、今にも脱がされそうになっている。
ピンチの時ほど笑えと言うあの人の言葉が頭に浮かんだけれど、今は…そう言うときじゃないらしい。
はぁ、と困り果てて吐き出された吐息が相手の首筋に掛かると、彼の動きが煽られたように荒っぽくなった。ますます、まずい。

幾ら物好きな客の相手をするのが仕事だとしても、こう言うのはご免だ。取り敢えず状況を打開しようと、成歩堂は呆れたような声を上げた。何でもいい。気を削がれるようなことを。

「ウチのボルシチにも…そのくらいの勢いでかぶりついて欲しいもんだね」

揶揄するようにそんな皮肉を言ってみたけれど、相手に動じる気配はない。

「よく喋るな、あんた…流石弁護士さんだ」
「…元ですよ、今はもう、関係ない」

上の空な返答を返して、成歩堂は首筋を這い回る濡れた感触に眉を寄せた。身を捩ろうにも、身動きは殆ど取れない。客だと言うことを考慮すると、蹴り飛ばす訳にも行かない。どうやってこの体の下から抜け出そうか。

(取り敢えずは…二人きりになったのがいけなかったかな)

けれど、みぬきがいなくても勝てそうな相手に見えたから。彼女は連れて来なかった。不幸中の幸いは、誰も来ないようにしてくれと頼んだことだ。言われた以上は、みぬき自身も、来たりしないだろう。
暢気にそんなことを考えているうちに、結構事態は危なくなっていた。実は、成歩堂はあまり喧嘩に自信がない。弁護士時代から、それは変わっていない。けれど、男は成歩堂の意思などにはお構いなく、事を進めようとしている。その上、気を抜くと、噛み付きそうなキスが降って来る。

「ん……ぅっ」

口内に侵入した生温い舌が、逃げる成歩堂の舌を執拗に追い掛けて侵蝕しようと蠢く。

「ちょっと…さ、待って…くれないかな」

息が乱れてしまうのは、ただ呼吸が苦しいからなのだけど。既に余裕をなくしている相手には関係ない。どうやら、下手に拒絶するのは逆効果のようだ。又してもぼーっと考えているうちに、事態は更に悪化していた。いつの間にかジッと音を立てて、パーカーの前が乱暴に割られる。

「……!」

流石にこれは…突き飛ばした方がいいだろうか。でも、一応客だし。どうしようか?
今更だけど、これは何と言うか、貞操の危機ってヤツだろう。悪いけれど自分は、会ったばかりの男に犯されて、そうそう許せるような性質じゃない。しかも、どうでもいいと思っている相手なら、尚更。
本当に、どうしたものか。
すっかり困惑してしまった、その時。
小窓に影がちらついたような気がして、成歩堂はハッとした。

みぬき?!
いや…違う。あれは…。

(牙琉……?!)

視界に映ったのは、間違いなく彼だった。見覚えのある、と言うより、今娘のみぬきの次に見慣れている人物、牙琉霧人。
どうして、ここへ。いつの間に来たんだろう?
何はともあれ、牙琉が、こちらを見ている。はっきりとした表情までは読み取れない。けれど、あからさまに不快さを漂わせて…。七年も前から一緒にいる親友が、何故かここにいる。
しっかりと視線が合い、そう自覚した途端、何故か不意に、首筋に触れた感触にびくりと敏感な反応を返してしまった。電流が走ったとでも言うのだろうか。覚えのある感覚がじわりと腹の底から浮き上がって、体温が上がったような気までする。
そのまま、抵抗を試みていた力がゆるりと抜けてしまい、当然、男にされるがままになってしまう。相手の手が、下衣にまで手が掛かったその時。

「盛り上がっているところを申し訳ないのですが…ちょっと、中断して頂けませんか?」

思わずぞっとする程に冷たい牙琉の声がした。
いつの間にか扉は開き、腕組みをした牙琉霧人は地下室の入り口に静かに佇んでいた。当然、男は飛び上がらんばかりに驚いて、成歩堂から身を離した。

(…やっと退いてくれたか)

ホッとして、思わず力を抜く成歩堂を余所に、彼らは不穏な会話を交わしていた。

「なっ、何だ、お前は?」
「すみませんね、彼に話があるので」
「い、一体何の権利があって…」
「…中断して頂きたいと、言っているのですよ」

牙琉霧人は、たったそれだけの台詞で完全に客人を追い払ってしまった。
成歩堂は思わず驚嘆の声を上げそうになるほど、素直に感心した。

(牙琉…凄いな…)

あの威厳は…成歩堂にはない。眼鏡のせいだろうか。

(ぼくも眼鏡を掛けた方がいいかな)

この期に及んで暢気にそんなことを思ったけれど、みぬきに似合わないと言われる姿を想像して、ちょっと悲しくなったのですぐに止めた。
そんな考え事をしていたせいで、今更ながらのろのろと起き上がった自分に、霧人は冷ややかな視線を向けて来る。潔癖な彼には、きっと、こう言うことは許せないんだろう。
案の定、彼が発した言葉には僅かに非難の色が浮かんでいた。

「成歩堂…。きみも…私に気付いたなら、彼に何とか言ってあげれば良かったのでは?」

確かにそうだ。
でも…何故か急に力が抜けて動けなくなってしまったのだから。

(ぼくのせいじゃない…よな、多分)

「客に逃げられてしまうのは不本意だったからね」

そんな言葉で誤魔化して、曖昧な笑みを浮かべる。
それに、こちらもカードゲームが楽しめると思った矢先に出鼻を挫かれて、稼ぎを逃して、困っているのは、間違いない。ここは…駄目でもともと、牙琉先生にお願いでもしてみようか?

「それとも、きみが賠償してくれるのかい、牙琉先生」

それは、本当に悪い冗談のつもりだった。いや…牙琉は絶対にそう受け取って、悪ふざけもほどほどにしろだとか、やるなら私の見てないところでどうぞとか。そんな言葉が返って来るばかりだと思っていた。
そうしたら素直に表面上だけ謝って、食事でもして行って貰おうと考えていた。
だから、次の瞬間…彼が発した台詞には、成歩堂は心底驚く羽目になってしまった。

「お望み通り…そうしてあげましょうか?」
「……!」

(……え)

一瞬、言われた意味が解からなかった。
暫く無言で目を見開いて、すぐに気を取り直す。
そうだ、これはきっと、牙琉の冗談なのだろう。こんな冗談を彼が口にするなんて考えにくいことだけど、彼が自分に欲情しているなどと言う事実より、遥かにしっくりくるではないか。そんな言い分で自分を納得させる。
けれど。
実際、こちらに伸ばされた牙琉の手に触れられて、その手が必要以上に熱いような気がして、息を飲んだ。
それに、さっき。牙琉の視線に晒された時、体内に巣食ったあの感覚が、じわりと疼いたような気がした。これは、もしかしてもしかすると、冗談で済まないことかも知れない。
何と無くそう思って、疑惑を確信に変える為、成歩堂は目の前の男を試すように口を開いた。

「やり辛いなら…自分で脱ごうか?」

わざと、挑発の言葉を吐いた直後。牙琉を取り巻く周りの空気がすぅっと冷えた気がした。いや、気のせいじゃない。ぴり、と殺気すら似たような鋭い感情が一瞬だけ、成歩堂へ向けて発せられ。

「……?」

改めて確かめようと顔を上げた直後、いきなり下衣を引き摺り下ろされて、成歩堂は驚きに息を飲んだ。
まさか、本当に?

「牙琉…っ」

名前を呼ぼうとした唇が、彼のもので強引に塞がれる。

「ん…ぅ…」

でも、嫌だ何て、思わない。
何故だろうか。先ほど、あの客にもこう言う風にされて、何故か体温がやたらと上がった。でも、それは違う…。
あの客にされていたからではない。間接的に、こちらを見ていた、この男のせいだ。

(そうか、ぼくは…)

そこで、何故かはっきりと自覚した。牙琉に見られていると気付いて、彼がどう出るか知りたくて、挑発した。何だかあの時、彼が一体どんな行動に出るのか、試してみたくなったのだ。
彼だったら、きっと、行為を中断する為に部屋に入って来てくれた筈。何故か、頭の何処かでそんな確信があった。
そうやって、無意識の内に、自分は彼を誘ったのだ。
自覚すると同時に、余裕も生まれた。何故か知らないが、今日の牙琉は成歩堂の挑発に乗って来る。それならば、自分は更に彼を煽ってやるのみ。

「もっと、丁寧にやって欲しいな…。でないと…さっきの客の方が、まだマシかな」
「……」

効果はてき面だったようだ。
眼鏡の奥で、牙琉の目が険しくなったのを、確認するかしないかの間に。

「ぅ、ぐっ…!!」

加減もなしに中を突き上げられて、成歩堂は喉をぐっと仰け反らせた。

「ぅぁ…!ぁっ…!」

容赦なく揺さ振られて、嫌な音を立ててテーブルが軋む。
本当に、今日の牙琉はあの牙琉なのか。そんな疑問が頭を掠める度に、意識を根こそぎ奪うほど乱暴に揺さ振られる。
いや、それを言うなら、自分だってそうだ。今日の自分は…どうかしている。どこか、可笑しいに違いない。二人揃って、本当に可笑しい。なら、今日はそれでいいのかも知れない。
目を閉じると、たちまち押し寄せて来る痺れに飲み込まれて、成歩堂はぎゅっと手の平を握り締めた。



その後。

「牙琉」

気だるい空気が溢れる室内で、衣服を整えながら彼の名前を呼ぶ。散々喘ぎを上げた喉はからからに渇いて、手足もよく動かないほど痺れていたけれど、不快感は少しも感じていなかった。振り向いた霧人に、成歩堂はふっと口元を綻ばせた。

「さっき、きみが来た時…ぼくが何も言わなかったのは、きみがちゃんと彼を止めてくれると思ったからだよ。予想通りだったね、ありがとう…牙琉」

あんな男とは、始めから寝る気なんかなかった。
そう伝えると、霧人の頬があからさまに引き攣ったのが見えた。

「次からは、見付けても知らないフリをしていましょう」

冷静を装いながらそんなことを言って、霧人はいつもより足早に地下室を出て行った。

「又来てくれるよな、牙琉」

彼の背中が見えなくなったところで、小さく呟き、成歩堂はごろりとテーブルの上に横になった。
いつの間にか、部屋中に籠もった熱で小さな地下室の小窓はすっかり曇っていて、もう外からは何も見えない。霧人の姿も、ない。
先ほどの悔しそうな彼の顔を思い出して、成歩堂は知らずそっと口元を歪めた。

あんな男とは、寝る気なんかなかった。
でも。
でも、牙琉。きみとなら。

先ほど、そう言い掛けて、口を噤んだ瞬間を思い浮かべて、成歩堂は誰もいないと言うのに、水色のニット帽を深く被り直し、顔を伏せた。