約束




「ごめんね。ちょっと、散らかってるんだけど」
 事務所の入り口に立つ少女を振り返って、成歩堂は困ったように笑みを浮かべてみせた。
 こちらの声に笑顔を浮かべながら首を横に振ったのは、これから一緒に暮らすことになった、娘のみぬきだ。今日は手続きなどが済んで、改めてここへ来てくれたのだけど。事務所はこの有様だ。至るところに物が散乱していて、足の踏み場もない。このところ色々忙しくて、デスクの上も何もかもぐちゃぐちゃなままだ。チャーリーくんへの水やり以外はやる気がおきなかったから無理もない。
 慌ててその辺を片付け始めると、みぬきははりきったように部屋の中を見回した。
「みぬきも手伝うね、パパ」
「え……、いいよ。みぬきちゃんはその辺に座ってて」
 そう言うと、彼女は頬を膨らませた。
「パパ!みぬきはお客さんじゃないんだよ!ちゃんとお手伝いさせて!」
「あ、ああ……、うん、そうだね」
 そう言えば、そうだ。彼女の言う通りだ。
「じゃあ、お願いしようかな」
 困ったように後頭部を擦りながら言うと、みぬきは膨らませていた頬を引っ込めて、にこりと笑った。

 彼女がてきぱきと手伝ってくれたお陰で、一時間もしない内に事務所はいつもよりずっと綺麗になった。
 そろそろ一休みでもしようかと、成歩堂がお茶の準備をしていると、みぬきは事務所の奥のバスルームを見つけて、少し難しい顔になった。
「ねぇ、パパ!ここも洗わないと駄目だね」
「え、あ……、そうかな」
「みぬき、洗ってあげる!」
「え……、いいの?」
「うん、任せてね、パパ」
 張り切ってバスルームの中にスキップで入って行くみぬきを見ると、思わず笑みが浮かんでしまう。
 正直、結構落ち込んでいたから、こんな風に明るく話し掛けてくれると、自分の気持ちも救われる。本当は、ちゃんと上手くやっていける自信なんてないけれど、弱音ばかり吐いてもいられない。
そんな思いに浸っていると、突然、水音と共に小さな悲鳴が上がった。
「きゃあ!」
「みぬきちゃん?!」
 足でも滑らせてしまったのだろうか。慌ててバスルームを覗き込むと、みぬきは自分より高いところに設置してあるシャワーヘッドからざーざーと雨のように水を浴びていた。
「な、何してるの?!みぬきちゃん!」
「ご、ごめんね、パパ!コックを捻ったら、いきなりこっちから水が出て来て」
「……あ」
 成歩堂はしまったと言うように顔を顰めた。以前シャワーを浴びた後、切り替えをしておかなかったせいだ。お陰でみぬきの衣装はすっかり水浸しになっていた。
 慌ててコックを捻って水を止めると、成歩堂はぐっしょりと濡れたマントを軽く絞った。
「だ、大丈夫?」
「う、うん、大丈夫だけど……」
「服がびしょ濡れだね」
「うん……」
「代わりの服とか、ある?」
 顔を覗き込んで尋ねると、みぬきは困ったように俯いて首を横に振った。
「これは、みぬきのいっちょうらなの」
「え、そうなの?」
「あとは、前の家に取りに行かないと……」
「そっか、そうだよね」
 取り敢えず、濡れた衣服を絞ってバスタオルを手渡すと、みぬきはにこっと笑った。
「覗いちゃ駄目だよ、パパ!」
 そんなことを言われて、ちょっと面食らってしまいながら、慌てて後ろを向く。
「もういいよ、パパ」
 暫くの間の後。そう言われて振り向くと、彼女はバスタオルを体にぐるぐる巻きにしていた。
 とにかく、このままじゃ風邪を引くかも知れない。成歩堂は自分のぶかぶかな服を差し出して、タオルを巻いたままのみぬきの頭からずぼっと被せた。
「パパの服、大きいね」
「うん、ごめんね。取り敢えずは、これで我慢してね」
「大丈夫!何か、大人の男の人の服って感じです」
「そ、そう?」
 女の子ってどうしてこう何となくマセてるんだろう。
 そう思いながらも、大き過ぎる袖を左右にぶらぶらと振って笑っている彼女を見ていると、成歩堂の顔も自然に綻んでしまった。
「じゃあ、服が乾いたら買い物に行こうか。普通の服とか、色々買わなくちゃいけないからね」
「うん、ありがとう!パパ!」

 そうして。服が乾くのを待って、二人は早速買い物に出掛けた。
「みぬきちゃん、遠慮しないで買っていいからね」
「うん、パパ!みぬき、張り切って選ぶね」
 そうは言ったものの、一体どんなものがいいのか、よく解からない。
 真宵や春美に相談しようにも、彼女たちだって洋服には何だか無頓着そうだ。和服のことなら任せて!と言いそうだけど。
 まぁ、着けば何とかなるかな。楽観的に考えて、成歩堂とみぬきは手を繋いで目的の場所へと急いだ。

 デパートに着くなり、彼女は早速あちこちの売り場をはしゃぎながら見回っていて、ちっともじっとしていない。
「これ、パパに似合いそうだね」
「そ、そうかな……」
(何で、ショッキングピンク……)
 彼女が指差したシャツを見て、成歩堂はがっくりと肩を落としたくなった。以前、真宵と春美にショッキングピンクのビキニパンツを履かされてから、あの色はちょっとトラウマなのだ。
「ぼくの服はいいんだよ、今日はみぬきちゃんの服を買いに着たんだだから」
「うん、そうだったね、パパ」
 照れたようにぺろりと小さな舌を出して、みぬきは自分の頭をこつんと拳で叩いた。

 けれど、女の子の洋服売り場に着くと、彼女は成歩堂の服を選んでいたことなんてすっかり忘れてしまうほど夢中になって、楽しそうに自分のものを選んでいた。
「心配しないでね。下着は自分で買うから」
 しかも、そんなことまで言われて、思わず目が点になってしまった。
 でも、ここで何も返さないのは親としてちょっと可笑しい。
「う、うん、よろしくお願いします」
 って、敬語は可笑しいだろ!そう突っ込みながらも、じゃあなんて言ったらいいのかなんて、咄嗟には解からない。
 成歩堂はひたすらうろたえて一人で焦っていたけれど、みぬきは一層楽しそうに声を上げて笑っていた。

 買い物を済ませた後も、一緒にお茶をしたり、ゲームセンターで遊んだりして、気付くとあっと言う間に夕方になっていた。
 後に残ったのは物凄い疲労感と、軽くなってしまった財布だけだ。これからどうやって生活していいのか解からないし、ちょっと悲観的になってしまうけど。
「あー楽しかった!ね、パパ!」
「う、うん、そうだね」
 でも、こんなに喜んでくれてるなら、いいだろうか。
 けれど、この笑顔を、自分はいつまで守ってあげられるんだろう。
 そんな風に考えていると、彼女は不意にこちらの胸の内を見透かしたように声を上げた。
「心配しないで、パパ!」
「え……?」
「みぬきはプロの魔術師だから。パパのことだって、養ってあげるから」
「みぬき」
「だから、パパは何も心配しないでね。ただ……」
「……?」
「ただ……、パパは何があっても、みぬきの側にちゃんといて下さい」
「……みぬきちゃん」
 前のパパみたいに、いなくならないで欲しい。
 そう言われているような気がして、成歩堂はハッとした。
「それだけ、約束して欲しいの。そうしたら、みぬき……それだけでいいから」
 いつの間にか、きらきらしていた笑顔は消えて、みぬきは俯いて下を見ていた。
 成歩堂の返事を、待っているんだろう。
 さっき、この笑顔を守ってあげなくてはと思ったばかりなのに。これじゃあいけない。
「大丈夫、約束するよ、みぬきちゃん」
 力強く頷くと、成歩堂はみぬきの手をぎゅっと握り締めた。
 不安なのは自分だけじゃない。この子の方がずっと心細くて、きっと小さな胸は不安ではち切れそうに違いない。
 でも、二人なら何とかやっていける。
「ありがとう、パパ!」
 そう言ったみぬきは、もういつもの彼女の笑顔に戻っていた。
 何だ。簡単なことじゃないか。こうして側にいて、彼女のことを一番に考えていれば、きっと。
「また買い物来ようね、みぬきちゃん」
「うん。じゃあ、みぬき頑張っていっぱい稼ぐね!」
「頼りにしてるよ」
 そんな会話を交わしながら、行きよりも固く手を繋いで、事務所への道のりを歩いた。