ゆめうつつ




もう、二度とここへ来ることはないと思っていたのに。
目の前に広がる光景に、成歩堂は改めて深い溜息を吐いた。



休日。
気付いたら勝手に足がここへ向いていた。
何しに来たんだろう、と思う。
ここは、深い山の中。
側には、切り立った崖とかなり流れの速い川が見える。
数ヶ月前に事件のあった、あの橋だ。
と言っても、その上にいる訳ではない。
やっぱり、落下した恐怖からか思い切り腰が引けてしまうので、成歩堂は橋の手前でぼんやりと立ち尽くしていた。

“お姉さまは、かわいそうな方なのです”

ふと、頭の中に響いた言葉に耳を傾けてみる。
あやめの言葉が頭のどこかに残っていて、それが何だか妙に引っ掛かっていたのかも知れない。
だからと言って、こんなことろに来てみたところで、どうと言うことはないけれど・・・。
でも…。
ぼんやりと考え込んでいた成歩堂は、いつの間にか、自分の視界が極端に狭くなっていることに気付いた。

「……?」

(霧…か?)

いつの間にか、辺りは濃い霧で覆われて、殆ど何も見えなくなっていた。
来た時はこんなに凄くなかったのに。
間違って足を踏み外したら大変だ。
そう思って、二、三歩後ずさりした、その時。

「……?」

突然、背後から何度か衣服を引っ張られたような気がして、成歩堂は息を飲んだ。
振り向いたけれど、後ろには誰もいない。
けれど、後方でパタパタと走り去る小さな足音が聞こえた。
慌ててそちらを見やると、霧の中に紛れて、和装の小さな女の子が走り去っていく後姿が見えた。

「春美ちゃん?!」

咄嗟に名前を呼んだけれど、すぐに違和感に気付いた。
春美ではない。少し違う…。
でも、どうしてこんなところに子供が…?
新しい修験者が子供でも連れて来たんだろうか。
けれど、こんな酷い霧の中、一人では危険なのではないか。
少女が走って行ったのは、極楽庵の方だ。
何か考えるよりも早く、成歩堂はその後姿を追い掛けていた。

けれど、走っている内に見失ってしまったのか。
いつしか、追い掛けていた筈の小さな背中は、霧に溶け込むように見えなくなってしまった。
夢中だったせいで、大分山の奥まで来てしまったけれど…ここはどこだろう。
このままでは、道に迷って帰れなくなってしまう。
だいたい、こんなことろに女の子なんて本当にいたのだろうか。
見間違えただけかも知れない。
何だか、神秘的とも言えるような不思議な場所だから…。
そろそろ引き返した方が良いのかも知れない。
そう思い、踵を返そうとした、その時。
突然、上の方から小さな声が降って来た。

「あなた、誰?」
「……!!」

弾かれたように顔を上げると、すぐ真上の木の上に登って、枝に腰掛けている少女が、こちらをじっと見下ろしていた。

(やっぱり、女の子が…)

見間違いではなかったのだ。
真宵や春美が着ているような和装を身に纏って、少し変わった形に髪を結った女の子。
どう見ても、葉桜院に修行に来たような格好だ。
でも、どうしてこんなことろに一人でいるのだろう。
成歩堂が黙り込んでいると、少女は不審そうに眉を顰めた。

「ねぇ、どうして追い掛けて来たの?」
「あ…。ご、ごめん。その、きみのことが、心配だったから」
「わたしのことが…?」
「きみこそ、何で逃げたの?」
「…珍しかったの」
「え……?」
「男の人が…とても」
「…?え、ええと…とにかく危ないよ、こんなところに一人で。お母さんは?」

何気なく尋ねると、彼女はきつく口を引き結んで俯いてしまった。

「……」
「きみ?」

何か、まずいことを言っただろうか。
様子を伺うように顔を覗き込むと、少女は言い辛そうに口を開いた。

「お母さまには、ここに連れて来て貰ったの」
「そっか、なら…」

なら、母親もこの辺りにいるのだろうか。
そう言おうとした成歩堂の声に、少女の声が重なった。

「でも、お母さまだけ帰ってしまったから、いないの」
「え……?」

どう言う、ことだろう。

「ここで修行しなさいって言われたけど、わたしは嫌。もっと人が沢山いる、賑やかなところに行きたい」
「そ、そうなんだ…」

相槌を打ちながら、成歩堂は引き込まれるように少女から目が離せなくなっていた。
よく見ると、幼いのに随分と可愛らしい顔立ちをしている。

「きみは、霊媒師なの?」

尋ねると、少女は無言で首を振った。
何だろう、この子。
凄く可愛い子なのに、何だかとても寂しそうで冷たく見える。
気のせいか、よく知っている誰かを思い出してしまうような。
何故か放っておけなくて、成歩堂は少女に向けてそっと手を差し出した。

「とにかく、ここにいたら危ないよ。こっちにおいで」
「いやよ。わたしのことは放っておいて」

少女がきっぱりと言い放って首を振る。
その仕草が、何だか警戒しているように見えて、成歩堂は彼女を安心させようと穏やかな声を発した。

「大丈夫…。きみが嫌なことは、何もしないから」
「…本当に?」
「うん、本当だよ」

頷きながら手を差し出すと、かなり躊躇った後、少女はおずおずと成歩堂の手を取った。
木から降りた少女の体を、しっかりと両手に受け止める。
地面にゆっくりと降ろしてやると、彼女は成歩堂の手の平をぎゅっと握り締めて来た。

「ありがとう、おじさま」
「う、うん…」

(お兄さん、だけどね)

手を繋いで歩きながら、来た道を戻る。
無言のまま歩いていると、彼女は物珍しそうに成歩堂の顔を見上げて来た。

(な、何だ…?)

あんまりじっと見詰められると、少し戸惑う。
そう言えば、男の人が珍しいって言ってたっけ。

「おじさま、葉桜院の人なの?」
「え…?いや、違うよ。ぼくは弁護士だよ」
「弁護士?」
「うん。霊媒師とは全然関係ないかな」
「そうなの…」

少し残念そうに呟いた少女は、やがて成歩堂の襟元に目を留めて、そこを指を指した。

「これは、何?」

指の先にあるものは、円い形のバッジ。

「ああ…これ?弁護士バッジだよ。ぼくが弁護士だって言う証だね」
「ふぅん…。ピカピカして、きれい」
「そうかな。大分古くなったとか言われるんだけど…」
「わたし、ピカピカできれいなものは好き」
「へぇ?宝石とかかい?」
「うん…。凄く大きくてきれいなのが好き」
「へ、へぇ…」

将来、お金のかかる女の子になったりしないか、ちょっと心配だ。
でも、普通の女の子は皆そうなのかな。
春美は少し変わっているから、特別だろう。
そんなことを考えていたら、彼女は空いている方の手の平を成歩堂に向かって広げてみせた。

「ねぇ。それ、わたしにちょうだい」
「え?」
「お願い、おじさま」
「い、いや。駄目なんだ、これは。ごめんね…」
「……」

やんわりと断ると、少女は目に見えてがっかりしてしまった。
いや、がっかりと言うよりは、何だか不機嫌と言うか…。
舌打ちまで聞こえた気がするけど、気のせいだろう。
ここまで落ち込まれると、ちょっと悪いような気がしてしまう。
貸すだけなら良いか…。

「ええと、ちょっとだけなら良いよ。でも、後で返してね」

そう言って、外したバッジを小さな手の平にそっと載せると、少女の顔がパッと輝いた。

「ありがとう、おじさま」
「う、うん」

彼女が初めて笑顔を見せた。
元々きれいな顔立ちなのもあって、笑うとかなり可愛い。
ずっと笑っていれば良いのに…。
そうもいかないのは、何だか複雑な事情がありそうだ。
その後。
ようやく気を許してくれたのか、彼女はぽつぽつと話をしてくれるようになった。



やがて、やっと半分くらまで戻ったところでだろうか。
不意に、ずっと繋いでいた手に、きゅっと強く力が込められた。

「わたし…」
「うん?」
「人がいっぱいいるところに行かなくても…おじさまがいれば、いいかも知れない」
「……?」
「ここに、ずっといてくれる?」
「え…?」
「そうしたら、わたしもここで修行してもいい」
「……!」

(そうか、この子…)

賑やかなところが良いって言っていたのは…。
もしかして、寂しいのかも知れない。
寂しくて、気を紛らわしたくて、賑やかなところへ行きたいだけなのかも…。
でも。
自分は、帰らなくてはいけない。
待っている人が沢山いる。

「ごめんね…。ぼくは、ここにはいれない。帰らなくちゃいけないんだ」
「……」

出来るだけ優しくそう言うと、彼女から小さな吐息が漏れたような気がした。

「……そう」

そして、ただ一言、あくまで静かにそう呟くと、少女は急に成歩堂の手を離して、くるりと背中を向けてしまった。

「なら、もういい。さよなら!」
「…あ!ちょっと…!!」

止める間も無く、勢い良く走り出した小さな影を、成歩堂は慌てて追い掛けた。
霧がさっきよりもずっと濃くなっている。
足でも滑らせたら大変だ。
あの子の背中が、少しずつ小さくなって行く。
このままでは、見失ってしまう。

「待ってくれよ!」

声を上げながらも、成歩堂は必死で足を早めた。
でも、彼女との距離は一向に縮まらない。
大の大人の足で追いかけているのに。
あんなに小さな女の子が、そんなに速く走れる訳ない。

息が切れるまでぐんぐん走り続けて、足が重たくなって動かなくなる頃、ようやく少女は足を止めた。

(ここは……)

見覚えのある風景が、霧に紛れて視界に飛び込む。
おぼろ橋…。
いつの間にか、戻って来ていた。
成歩堂が橋の手前で足を止めると、少女はゆらゆら揺れるつり橋の真ん中に立って、こちらを振り向いた。
成歩堂は肩で大きく息をするほど呼吸が荒くなっているのに、彼女のそれは、少しも乱れていない。
それどころか、きりっと表情を硬くして、凛とした声を上げた。

「さよならって、言ったでしょ」
「…でも…」
「あんたなんか…嫌い。だから来ないで」
「き、きみ・・・」

成歩堂が橋を渡ろうと足を踏み出すと、少女は急に橋から大きく身を乗り出した。

「あ、危ないっ!」

小さな細い体が、今にも急流に飲み込まれて消えてしまいそうだ。
青褪める成歩堂を尻目に、少女は尚も続けた。

「それ以上来たら、ここから飛び降りるから」
「…!だ、駄目だよ!解かった、解かったから!」
「じゃあ、もう帰って。ここには二度と来ないで」
「き、きみは…」
「わたしは、あんたなんか…いなくたっていいんだから」

そう言って、少女は二つの目でじっと成歩堂を見詰めた。
何て目だろう。
こんなに小さいのに、他人を拒絶した、冷たい目。
でも、何だかとても悲しい。
自分が近付けば、彼女は本当に躊躇いなく飛び降りてしまうだろう。
何故かそんな気がした。
覚悟を決めた目と言うより、何だろう。
本当に、ただ、悲しいような。

「解かったよ。きみの、言う通りにする。だから、落ちるなんて言わないでくれ」
「……」

成歩堂の言葉に、少しの間沈黙した後、彼女はようやくゆっくりと身を引いた。

「ねぇ、きみの…名前は?」
「…わたしは…」

問い掛けに、少女の唇がゆっくりと開きかけた、その時。
橋の向こう側から小さな声が聞こえて来た。

「お姉さま、どこにいらっしゃるの?」
「……!」

この、声。
目の前にいる少女と、全く同じ声。
目を見開いた成歩堂は、続いて聞こえて来た呼び声に、思わず息を飲んだ。

「お姉さま…!ちなみお姉さま…!」
「……?!」

(え……)

今、何て。

ハッとして、橋の上の少女に目を向ける。
まじまじとこちらを見詰める瞳には、幼いながらも憎しみや怒りに似た感情が溢れんばかりに湛えられていて・・・。
今だからかも知れないけれど、妙な懐かしさがあった。

「きみ、は……」

あり得るはずない。それは解かっている。
でも、まさか…。

「きみは、もしかして…」

呆然としたまま、呟きを漏らした直後。
あんなに濃く広がっていた霧が嘘のように晴れて、急激に視界が開けた。
同時に、橋の上にいたはずのあの小さな少女は、跡形もなく消えてしまっていた。

(え……?)

今のは…?
何度も瞬きしてみたけれど、少女の姿はどこにもなくて、細い橋がただ風に揺れているだけだ。

一体、何だったのろう。夢でも見たと言うのか。
けれど。
狐につままれたような気持ちのまま、何気なくスーツの襟元を見ると、そこにある筈のものが忽然と消えていた。
少女に渡した弁護士バッジ。
ここに来る前、確かに襟元に付けていた。
あれが白昼夢か何かなら、あのバッジはどこへ行ったのか。
おぼつかない足取りで、ゆっくりと釣り橋の上を進む。
風が吹くたびに視界が揺れて、足元がぐらつく。
そんな中。ようやく橋の中央まで辿り着いた成歩堂は、先ほどまであの少女がいたはずの場所に、金色のバッジがひっそりと落ちているのを見つけた。
そっと指先で掴んで拾い上げたそれは、まだほんの少しだけ温かかった。



END