残像
その人がやって来たとき、何だか、部屋中に花が咲いたような。
上手く言えないけれど、そんな感じがした。
「こんにちは。お邪魔致します」
「あ、はい、どうも…」
突然の来客。
部屋に響いた声に顔を上げた王泥喜は、思わず、そのまま言葉を発するのを忘れてしまった。
事務所の扉の前に立って、にこりと微笑んでいる女の人。
肩まで伸びた長い髪に、純粋そうな綺麗な目。
今にも折れそうな、華奢で細い肩にすらりと長くて白い腕。それに、ふんわりと良い香りがする。何よりも、何て綺麗な顔だろう。
黙り込んだまま、数秒経つと、その人は少し困ったように首を傾げた。
「あの…?」
控えめな声で様子を伺うように言われて、ようやく我に返る。
「す、すみません!ええと、どんなご用件でしょうか」
必要以上に大きな声でそう言うと、彼女は少し口元を綻ばせた。
笑ったのだと悟るまで、暫く時間が掛かってしまった。
それほど上品で、うっとりとするほど優雅な振る舞いだった。
「あの、わたしの顔に何か?」
「え、あ…」
そこで又、ハッと我に返る。
いけない。しっかりしなくては。
「な、何でもありません、大丈夫です!用件、伺いますので、こちらへどうぞ」
言いながら部屋の奥へと案内すると、彼女は王泥喜の後に着いて事務所の中へと足を踏み入れた。
「あの、成歩堂さまは、いらっしゃいますでしょうか」
ソファに腰を下ろすと、彼女は開口一番にそう言った。
「え……?」
ここ最近続いた騒動を思えば、何となくそうではないかと思っていたけれど。
やっぱり驚かない訳ではない。
またしても、成歩堂絡みか…。今度は一体何だろう。
と言うか、成歩堂ってやっぱり只者じゃない。
「あの、失礼ですがあなたは…?」
怪訝そうな表情をいっぱいに浮かべて尋ねると、その人は相変わらず花のように微笑んでみせた。
薄い花びらみたいな綺麗な色の唇がゆっくりと開く。
「わたし、葉桜院のあやめと申します」
「あやめ、さん…ですか」
あやめって、確か…花の名前だったような。
この人にぴったりだ。
暢気にそんなことを思ってしまって、慌てて首を振った。
「す、すみません!あの…成歩堂さんはちょっと出かけているんです。今、電話してみますから」
「はい、宜しくお願いします」
彼女が頷くのを確認して、携帯電話を手に取る。
でも、成歩堂の携帯には電源が入っていないようだった。
がっかりしながらそのことを伝えて謝ると、彼女は静かに首を振った。
「それでは、待たせて頂いてよろしいでしょうか」
「は、はい。勿論、大丈夫です!」
力強く頷くと、その人は少しだけホッとしたように見えた。
「宜しくお願いいたしますわ、ええと…」
「あ、すみません、俺は王泥喜法介です」
「オドロキさま、素敵なお名前ですのね」
「あ、ありがとうございます」
何だか、物凄く照れてしまう。
さっきも思ったけれど、本当に何てきれいな人だろう。
茜もみぬきも、春美もあの色っぽいお姉さんも、それはそれは皆可愛くて美人だけど、この人はちょっと特別と言うか…。
繊細でたおやかで、春の花のように…。
(…って、俺は何を言っているんだ)
うっかり詩人のような感想を漏らしてしまって、王泥喜は少し恥ずかしくなった。
それにしても、この彼女の様子。
成歩堂に対して、何だかただならぬものを感じる。
ただの勘だけど、何となくそう思う。
もし彼女も、成歩堂のことが好きだったら、またまた面倒なことになりそうだ。
少し考えた末、王泥喜は躊躇いがちに口を開いた。
「あの、あやめさん」
「はい、なんでしょうか」
「あなたは、成歩堂さんとは…どう言う関係なんですか?」
「……え?」
答えてくれるかどうか解からなかったけれど、聞かずにはいられなかった。
王泥喜の言葉に、あやめは何度か瞬きをして、それから少し遠くを見るような顔になった。
「恩人ですわ、あの方は」
「恩人、ですか…?」
「ええ。わたしは、以前あの方にとてもお世話になったのです、もう、昔のことですが…。今になっても、どうしても忘れられなくて」
「そう、なんですか…。余程思い出深いんですね」
「ええ、とても……」
何だか意味有り気にそう呟くと、あやめはそっと顔を伏せた。
もしかしてこの人は、成歩堂が弁護士を辞めたことを知らないのだろうか。
それに、みぬきのことも。
でも、そんなことは王泥喜の口から上手く言えそうにない。
「オドロキさま」
「は、はい?!」
ぐるぐる巡っていた思考が、あやめの一言でぴたりと止まる。
焦って顔を上げると、真っ直ぐで素直そうな瞳が、じっとこちらを見詰めていた。
「あの、成歩堂さまは、今はどうしておられるのですか」
「え……?」
(ど、どうって…)
今、正に考えていたことだ。
彼がもう七年前に弁護士バッジを剥奪されてしまったこと。
ここで言うべきか、言わないべきか。
けれど、あやめが口にしたのはそのことではなかった。
「恋人などは、いらっしゃるのでしょう?」
「え……」
(な、何だ。そのことか)
そう思って、ホッとしたのも束の間、彼女の様子を見てぎくりとする。
あやめは白い頬を真っ赤に染めて、照れたように俯いていた。
まるで恋する乙女のような仕草に、嫌な予感がむくむくと込み上げる。
それに、恋人のことを聞くなんて。
これは、間違いない。
この人もきっと、成歩堂のことが好きなのだ。
ここは、更なる修羅場を避ける為にも、正直に言ってあげなくては。
心を鬼にして、王泥喜は口を開いた。
「え、ええ。います…」
「まぁ、どんな方なのですか?」
「ええと、その…。は、春美ちゃんと言って、とても可愛くて良い子です。よくここへ遊びに来るんですよ」
「え……っ?」
言い終えると、あやめは物凄く驚いたように目を見開いて、それから突然、弾かれたようにくすくすと笑いだした。
(な、何だ?)
何だと言うのだろう。
何か可笑しなことを言っただろうか。
「な、何が可笑しいんですか!」
焦って声を荒げると、一通り笑い声を上げて、彼女は王泥喜に向き直った。
「申し訳ありません。だって、成歩堂さまが、あの子とお付き合いだなんて…」
「……?」
「本当に、何を考えているのかしら…。リュウちゃんは…」
「……え?」
(リュ、リュウちゃん?)
それに、あの子、って…。
まるで、春美を知っているような口ぶりだ。
「春美ちゃんを知っているんですか?」
「ええ…。勿論、知っていますわ。春美は、わたしの妹ですから」
「え……?!」
(えええ?!!)
思いがけない台詞に、目を限界まで見開く。
春美に姉がいたなんて?!
それも、こんなに綺麗な。
春美も相当可愛いから、流石に姉妹とでも言うべきか…。
でも、本当に意外だ。
それに、リュウちゃんて…。
成歩堂龍一。彼のことなのだろうか。
こんなに親しげに呼んでいるなんて、一体どんな関係なんだろう。
「それはそうと、成歩堂さまは、まだお帰りにならないのでしょうか」
「あ、すみません。あの人、あんまり帰って来なくて…。一体何時になるか…」
「そうですの、困りましたわ…。もう、時間がないと言うのに…」
「え……?」
何か、大切な用事でもあるのだろうか。
王泥喜が顔を覗き込むと、あやめはそっと目を伏せてしまった。
「わたし、もう行かなくては…」
「え?!でも…折角ですし、もう少しだけ待たれてみては…なんでしたら携帯にももう一度…」
「残念ですが、時間がないのです」
きっぱりとそう言うと、彼女は今までで一番綺麗な、天使のような笑みを浮かべた。
「リュウちゃんにお伝え下さいな。わたしは、必ず又会いに来ますと」
「は、はい…」
「それでは、また」
思わず、その笑顔に魅入ってしまい、言葉が出て来なかった。
彼女が踵を返したのを見て、ハッと我に返って、王泥喜は慌てた。
「ま、待って下さい、あの…」
せめて、連絡先だけでも聞いておきたい。
そう思ったのだけど。
「では、ごきげんよう。オドロキさま」
そう言うと、あやめと名乗ったその人は、一段と綺麗な笑みを残して、去って行ってしまった。
成歩堂が事務所に戻って来たのは、それからほんの数分後のことだった。
あの笑顔が強烈に瞼の奥に焼き付いて、何だか夢見ごこちだった頭の中が、一気に現実へと引き戻される。
「な、成歩堂さん!どこへ行っていたんですか?!」
「ああ、ただいま、オドロキくん。ちょっとね、昔の知り合いに会いに行ってたんだけど…」
「それどころじゃないですよ!さっきまで、春美ちゃんのお姉さんがいらしてたんですよ!もう少し早ければ会えたかも知れないのに!」
「え……?」
ぎゅっと拳を握り締めて喚いた途端、成歩堂の顔色が変わった。
いつも気だるげなその表情が、みるみる険しくなって、王泥喜を真っ向から見据える。
「な、なるほどう、さん?」
何だ、この雰囲気は。
何が何だか解からなくて、不安そうに名前を呼ぶと、彼は真剣そのものと言った顔で口を開いた。
「オドロキくん。もう一度言ってくれるかい?」
「え…?だ、だからですね…春美ちゃんのお姉さんがさっきまで、ここに…」
「本当に、ここに…?」
「は、はい…」
おずおずと頷くと、成歩堂の顔は増々厳しくなった。
「今、ぼくは彼女に会って来たんだ。だから、ここに来ていたのは葉桜院のあやめさんではない」
「え…?そ、そんな…」
意外な言葉に、王泥喜も釣られて表情を固くした。
彼女は、あんなにはっきりと名乗ったのに。
そんなバカな。
「でも、確かに言ったんですよ!春美ちゃんのこと、妹だって。じゃあ、嘘…ってことでしょうか」
腕輪には何も反応なかったけれど。何だろう。
王泥喜が難しい顔をしていると、成歩堂は少し黙り込んだ後、言い辛そうに口を開いた。
「実は…。彼女には姉がいるんだよ、双子の…」
「…!な、何だ。そうなんですか。じゃあ、そのお姉さんの方ですね」
それなら、納得だ。何も可笑しくない。
けれど、ホッとする王泥喜とは対照的に、成歩堂は険しい顔のまま、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、違うんだよ…」
有り得ないんだ、それは。
そう呟いた彼が、何故そんなにも青褪めていたのか。
王泥喜には解かるはずもなかった。
END