ショコラ
その日の朝。
未だ布団の中でうとうとしていた成歩堂は、突然鳴り響いたチャイムに叩き起こされた。
「な、何だ?朝から……」
朝だろうが何だろうがギザギザなままの頭を掻きながら、成歩堂は玄関へと出向いた。
「成歩堂さんですね、お届け物です」
「あ、はい」
「二つあるんですが、一つは着払いで届いてます」
「ちゃ、着払い?」
覚えが全くない。一体誰だ?
慌てて送り主を見ると、大沢木ナツミの文字が。
(ナ、ナツミさん?)
彼女が相手なら、荷物が何であろうと、着払いで送って来るのは解かる気がする。
仕方なく代金を払って、成歩堂は小さな箱を受け取った。
開けてみると、中には見るからに安そうなチョコレートの箱と、“ナルホドーへ”とだけ書かれた紙と、そして請求書。
内訳を見ると、チョコレートの代金がきっちり請求されていた。
「……」
あまりのことに、思わず絶句する。
そう言えば、今日はバレンタインだ。
でも。
(これ、プレゼントって言わないんじゃ……)
呆れたように溜息を漏らしつつも、もう一つの送り主を見て、少しホッとする。
(あ、茜ちゃんか……)
もうアメリカへ行ってしまって大分経つけど、元気だろうか。
少し懐かしく思いながら箱を開けると、中にはチョコが流し込まれた巨大なフラスコがドーンと入っていた。
そして、薬品の模様のついたカードにメッセージが。
――あたしの手作りです。良かったら食べて下さい。茜。
「……」
(こ、これ、食べれるのか?)
少し不安に思ったけれど、容器が普通じゃないだけで味はいけるかも知れない。
そう思って、口にしようとした、途端。
「なるほどくん!!」
「うわっ?!」
急に背後から声が掛かって、成歩堂は飛び上らんばかりに驚いた。
振り向くと、いつの間に中へ入り込んだのか、グイと腕捲りをして臨戦態勢の春美の姿が……。
「は、春美ちゃん!?いつの間に?!」
目を丸くして尋ねると、彼女は鬼気迫る様子で口を開いた。
「なるほどくん、真宵さまへのチョコレートは用意されたのですか?」
「え……?」
(ま、真宵ちゃんに、チョコ?!)
「春美ちゃん、チョコって……普通は女の子からくれるものじゃ……」
「そんなことありません!バレンタインは愛しい人から愛しい人へ愛の証を送るもの……。ですから、殿方からでも一向に問題はありません」
言いながら、春美はポッと頬をピンク色に染めた。
(ま、参ったなぁ……)
事実がどうであれ、春美がこう言うからにはもう仕方ない。
「事務所に行く前に、チョコレートを買って行きましょうね!」
「うん、解かったよ」
仕方なく頷いて、成歩堂は春美と一緒に家を出た。
朝から開いているお店を探して、厳密に吟味した上でチョコレートを買って。
二人で事務所に向かう途中。
「あ、弁護士さん」
突然背後から声が掛かって、二人揃ってびくっとした。
今日はよく背後から声を掛けられる日だ。
ともかく、どこかで聞いたことのあるような可愛い声に振り向くと、思わずハッとしてしまうほど可愛い女の子が立っていた。
不思議な魅力のあるあどけない笑顔と、くるくるに巻かれた立てロールの金髪。
忘れようもない。確か……。
「ミ、ミリカちゃん!?」
「久し振り、弁護士さん」
「ひ、久し振り……」
思わずその可憐さに見惚れていると、不意に彼女は何かに気付いたように声を上げた。
「それ……綺麗な箱!」
「あ、うん……」
ミリカがステッキで差しているのは、成歩堂が買ったばかりのチョコレートの箱だ。
「バレンタインだからね、今日」
そう言うと、彼女は少し考えた後、にっこりと笑顔を浮かべた。
「弁護士さん……。それ、ミリカにくれるの?」
「え……?!そ、そ、そう言う訳じゃ……」
しどろもどろになって否定しようとした途端、止めとばかりに大きな潤んだ目で下から見上げて来る。
「ねぇ、それ……。ミリカに用意してくれたんだよね?そうなんだよね……?」
「……………うん」
「な、なるほどくん?!!」
何か逆らえない力でも働いたように、こくんと頷いた成歩堂に、春美は素っ頓狂な声を上げた。
でも、もう遅い。
「ありがとう、弁護士さん!ミリカ……弁護士さん大好き!」
チョコレートを受け取ったミリカは上機嫌で去って行った。
その笑顔の余韻に浸ってボーッとしていた途端。
「な、る、ほ、ど、くん!!!わたくし、許しません!!」
パン!パン!
「い、いたたた!」
物凄い平手が春美から二発も飛んで来た。
春美に突かれるまま、もう一度お店に寄ってチョコを買って。
改めて事務所に向かっていると、またしても背後から声が掛かった。
「リュウさま」
「……?!!」
しかも、うっかりしていると聞き逃してしまいそうな、暗くて小さなか細い声。
何と言うか、じめっとした感じのこの口調、物凄く聞き覚えがある。
嫌な予感と共に恐る恐る振り向くと、見覚えのある人が電柱の影に隠れるようにして立っていた。
「あ、あなたは……うらみさん!」
慌てて側に駆け寄ると、彼女はそっと小さな箱を差し出した。
「これ、わたしが作りました。特製チョコレートと、……です」
「え、あ……」
(“……”の部分は何なんだ……?!)
「召し上がって下さいますね?」
「は、はい、勿論です!」
不安が立ち込めたものの、何だか逆らえない雰囲気に、成歩堂は思い切り首を縦に振った。
只ならぬ雰囲気に、うらみと別れた後、春美が心配そうに顔を覗き込んで来た。
「あの、なるほどくん……だ、大丈夫なのですか?」
「う、うん……何が入ってるんだろうなぁ、このチョ……」
言い掛けた直後。
「お茶も」
「うわっ?!」
「きゃあ!」
突然どこからともなく聞こえて来た声に、二人は飛び上って悲鳴を上げた。
振り向くと、いつの間にそこにいたのか、別れたはずのうらみの姿が。
「……淹れて差し上げます、わたしが……」
「あ、ありがとう、うらみさん……」
スーツの色と同じくらい青褪めながら、成歩堂は湯飲みを受け取った。
今度こそうらみと別れて、気を取り直して事務所へ向かう。
もう大分寄り道をしてしまった為、遅刻しそうだ。
「走るよ、春美ちゃん!」
「はい!なるほどくん」
二人揃って走っていると、背後から物凄いスピードのバイクが走って来た。
「きゃああ!」
「は、春美ちゃん!」
風に煽られてよろめいた春美を慌てて抱き抱えて、成歩堂はもう見えなくなってしまったバイクを睨み付けた。
「あ、危ないな!何なんだ、あのバイクは!」
その途端。
耳を劈く騒音と共に、行ってしまったはずのバイクが凄い速さで戻って来た。
(な、何だ?!)
まさか、文句が聞こえたのか?!
焦る成歩堂の前で、バイクはぴたりと止まった。
そして、乗っていた人物が素早くメットを取る。
「リューイチくん!それに、リューイチくんにビンタしてた子!」
「……!!マ、マレカさん?!」
爽やかな笑顔を向けられて、成歩堂は裏返った声を上げた。
「こ、この方は……」
「久し振りだね!元気にしてた?」
「は、はい……」
何となく迫力に気圧されて口籠もる成歩堂にお構いなく、稀華は胸元から小さな箱を取り出して成歩堂に差し出した。
「あ、そうだ。これあげる。チョコレート。お世話にったからね、リューイチくんには」
「あ、ありがとうございます」
どぎまぎしつつ受け取ると、成歩堂は頬が赤く染まるような気がした。
(あ、相変わらずドキドキするなぁ……)
胸中で呟いた途端、下の方から重たい視線が……。
「……」
(う、春美ちゃんが物凄い目でこっちを睨んでいる……)
平手が飛んで来る前にと、成歩堂は咳払いをして、稀華と別れた。
そして、もうすぐ事務所に着く、と言う時。
「これを受け取って貰うわよ、成歩堂龍一!!」
きりっとした声と共に、顔面に物凄い痛みが走った。
何かがぶつけられる重い痛みと、鞭のような鋭い、二種類の痛み。
「いててて!!」
顔を上げると、高々と鞭を抱えた狩魔検事の姿があった。
先ほど投げ付けられたのは、どうやらチョコレートの箱のようだ。
「ふ、普通に渡せばいいだろっ!」
顔をさすりながら抗議したけれど、狩魔冥は気にした様子もなく、尚も声を張り上げた。
「成歩堂龍一!この私からチョコレートを受け取れることを、一生誇りに思うといいわ!」
「一生……かよ」
ぐったりと肩を落とす成歩堂を置いて、彼女は颯爽と身を翻して行ってしまった。
「やれやれ、何か酷い目に遭ったけど……結構貰っちゃったな……」
何と言うか、やっぱり嬉しいものだ。
思わず顔が緩んでしまう。
けれど、そんな成歩堂の表情を春美が見逃すはずない。
「なるほどくん、そのチョコレート、わたくしがお預かりします」
「ええ?!」
「真宵様と言うものがありながら、年下の女性!人妻!薄幸漂う美女!真宵様を虐めた検事さんまで!年下の女性にはあろうことかチョコを渡してしまわれて……!!う、うわぁぁぁん!」
怒りながらも泣き崩れてしまった春美に、成歩堂は慌てて駆け寄った。
「は、春美ちゃん、泣かないで」
「うっ、うっ、……な、なるほどくんは、とても素敵な殿方ですけど……でも、でも……」
「だ、大丈夫だよ、春美ちゃん。殆ど義理チョコだから。ね?」
何とかなだめようと苦し紛れに言った言葉だったけれど、春美は急に泣き止んで、パッと顔を上げた。
「義理、チョコ……ですか?」
「う、うん。チョコには本命と義理チョコって言うのがあってね……」
(って、皆が義理かは解からないけど……)
「だから、心配しなくてもいいんだよ」
「そ、そうだったのですか……」
何とか納得してくれたようで、成歩堂がホッと胸を撫で下ろした直後。
「あの、なるほどくん!」
春美は急に何かを思い付いたように声を上げた。
「何?春美ちゃん」
「わ、わたくし!ちょっと、用事を思い出しましたので!さ、先に事務所に向かわれて下さい!」
「……?うん。解かったよ。気を付けてね」
「はい!」
元気良く走って行く春美の背中を見送って、成歩堂は事務所へと足を早めた。
この後。
真宵からのチョコと、それからもう一つ、小さなチョコレートが増えるのは、あと数十分後のことだ。
終