conviction




 そう言えば、彼のことが気になりだした理由は、一体なんだっただろう。
 あの裁判のせいなのか、その後の変貌ぶりのせいなのか。それは、考えたところで答えなど出ない。
 けれど、この全ての元凶とも言える男が、この七年間ずっと付かず離れず纏わり付いていた存在であることだけは確かだ。出来れば係わりたくないと思いつつ、胸中から消してしまえない厄介な存在だと、響也は目の前の男を視界に捉えながら思った。

「……ゲームしない?牙琉検事」
 成歩堂龍一と久し振りに顔を合わせて、突然そんな提案をされ、響也は思い切り怪訝な顔になってしまった。きっと、自分でなくてもそんな反応を返すはずだ。
 王泥喜弁護士に用があって成歩堂なんでも事務所を訪れたのは、数分前のことだ。でも、そこにいたのは目当ての男でも娘のみぬきでもなく、疲れた様子でソファに横になっている成歩堂だけだった。
 彼から王泥喜の不在を知らされて、じゃあ出直すよと踵を返しかけたところで、背中に成歩堂の声が掛かった。それが、さっきの台詞だ。
「ゲームだって?」
「うん、そう」
 眉根を寄せながら聞き返すと、成歩堂はこくんと首を縦に振った。
 彼が何故そんなことを言い出したのかは、よく解からない。
 けれど、どうせ特別な理由なんて、ないに決まっている。ただの暇潰しか、または面白半分に。気だるそうな笑みを浮かべる彼からは、どう見ても、そんな雰囲気しか感じない。
「何でまた急に?」
「別に。ちょっと暇だから」
「ふーん」
 一体、どう言うつもりだろう。
 本当に暇そうにソファに寝転びながら返答する成歩堂に、響也は増々訝しげに眉根を寄せた。
 でも、何故か無視してそのまま去ることは出来なかった。
 きっと、本当はずっとこうして彼を接するきっかけを探していたけれど、掴みどころのないこの男の懐に、どうやって飛び込めばいいのか解からなかった。 だから、こうして接する機会がそちらから転がり込んで来たなら、受けない手はない。
「まぁ、退屈しのぎにしてもいいけど、ポーカーは嫌だなぁ。あんたの噂知ってて、勝負を挑むほど、ぼくは無謀じゃないよ」
「うーん……残念だなぁ」
「でも、ゲームするのは面白そうだね。ここは無難に、チェスとかでどうだい?」
「チェス……ねぇ、あんまり気が進まないなぁ、って言うか、ルール知らないし」
「面倒臭い人だね……。じゃあどうする?まさか、じゃんけんだなんて言わないよね?」
「ああ……。それ、いいね……」
 冗談半分の台詞に、成歩堂は満足そうに笑みを浮かべた。
 食えない笑み、と言う言葉がぴったりの笑顔を見詰めて、響也は気を引き締めるように彼と距離を取った。何だか、気を抜けば彼のペースに乗せられてしまうような気がする。気を付けなければ。
 でも、たった一瞬で勝負がつくそれに、一体何の楽しみがあるのだろう。
 けれど、他に何も思い当たらないし、響也が話に乗ったのは、ゲームの内容ではなく、その結果得られるものに興味があったからだ。
 少し考えて、何か言うのが億劫になり、響也は話を進めることにした。
「で……?ただ勝負をするだけじゃつまらないと思うけど?」
「ああ、そうだね……。それなら、負けた方が勝った方の言う事を聞く、それでどうだい?」
 成歩堂から返って来た言葉は、響也の内心をぞくりと沸き立たせた。けれど、敢えて関心のない素振りを装って、響也は成歩堂の顔を覗き込んだ。
「ありがちだけど、それでいいよ。じゃあ、あんたは、ぼくに何をして欲しいんだい?」
「うーん、そうだなぁ……」
 こちらの問いに、成歩堂は少し考え込むようにして、パーカーのポケットに突っ込んだ手を遊ばせた。
 暫くの間そうして、やがて何かを思いついたように、パッと顔を上げた。
「こうしよう。ぼくが勝ったら、きみは、ぼくの娘に絶対に手を出さないこと」
「……」
 真剣そのものと言った様子で告げられ、思わずがくっと肩の力が抜けてしまった。
 全く、何を言い出すと思えば……。
「成歩堂龍一。あんた、ぼくを誤解してないかい?」
「そうかい?」
 首を傾げてみせる彼は、どうやら本気のようだ。
 まぁ、別に構わない。本気で言っていようがいまいが、本題は別にあるから。
「まぁ、いいさ。じゃあ、ぼくが勝ったら……」
「……悪いけど、お金はないよ」
「解かってるよ。貧しい元弁護士さんから巻き上げようなんて思ってないしね」
「じゃあ、何かな」
「そうだね……」
 そこで、響也も成歩堂と同じように黙り込んだ。
 頭の中に思い描いたことに、ほんの少し、心臓の音が早まったような気がする。あくまでさり気無く、悪戯でも思いついたときのように告げなくては。すぅっと小さく息を吸うと、響也は彼の顔を伺いながら口を開いた。
「さっきさ、娘には手を出すなって、言ったよね?」
「ああ……、そうだね」
「それじゃあ……あんたに出すのは、構わない訳だ」
「………」
「どうなんだい?元弁護士さん」
 突拍子もないこちらの台詞に、流石に驚いたように両方の目が見開かれる。
 けれど、それはほんの一瞬のことだった。
「物好きだね、牙琉検事。きみに、ぼくが扱えるとは思えないけど……」
 軽く受け流すような言葉に、響也は無言で笑みを浮かべた。
 気分を害する代わりに、気持ちがゆっくりと昂ぶって行くのが解かる。
 七年前のあの時のように、何事にも動じない静かな目。それが、妙に頭の何処かに引っ掛かって離れなかった。その時から、単なる興味に勝る何かが響也の中にあったのは確かだ。それが成歩堂の挑発するような態度に刺激され、彼に接触したことによって、徐々に溢れ出してきた。
 彼の目は、まだ死んでいないのだ。あれから、もう七年も経っていると言うのに。それは、何故だろう。そこには、何かがあるからではないだろうか。それを引き摺りだしてやりたい。
 そう思うのは、自分もまだ、七年前のわだかまりが胸の中に燻っているからだ。
 目的が明白になると、あとは簡単なことだった。
「いつまでもその余裕が続くといいけどね。成歩堂龍一」
 不敵に笑って、響也は成歩堂に向き直った。

 そうして、その日の勝負は響也が勝った。


 翌日。
 再び事務所を訪れると、そこには成歩堂の姿のみがあった。
「あれ、あんただけかい?成歩堂、元弁護士さん」
「そうだよ。また来たのかい?検事さんは意外とヒマみたいだね」
 軽い調子で投げ掛けられた皮肉に、響也は小さく肩を竦めた。
 昨日あんな会話をしたばかりだと言うのに。本当に何も気にしていないんだろうか。それとも、彼の得意なはったりを利かせているだけか。
 確かめる為にも、目的を果たす為にも、響也はゆっくりと足を進め、彼のすぐ側まで身を寄せた。
 窓際で腕組みしていた成歩堂は、響也が一歩ずつ足を進めてくるのを、興味もなさそうに見ていた。本当に、こう言うところが勘に触る。もうちょっとうろたえたり、反応したっていいじゃないか。でも、これが彼の食えないところだ。
 はぁ、と溜息を吐きたいのを堪えて、響也は徐に手を伸ばして成歩堂の手首を掴んだ。
「あのさ、成歩堂さん」
「何だい、牙琉検事」
「今日はあんたに用があって来たんだよね。内容は、解かってるよね」
 言いながら、ぐっと、手首を掴んだ指先に力を込めると、僅かに彼の肩が揺れた。
 でも、手が振り払われることはない。
「逃げないのかい……?」
 挑発めいた台詞を吐くと、成歩堂は響也から顔を逸らして視線を伏せ、口元を歪めて笑った。
「昨日、約束したからね」
「……へぇ、相変わらず、潔いんだね」
 どく、と胸の奥で鼓動が高鳴ったのを押し殺して、敢えてからかうように言ったけれど、別に堪えた様子はない。
 それどころか、彼は不意に手首を掴んでいた響也の手を逆に掴んで、こちらを覗き込んで来た。
「それで……?ぼくは何をすればいい?」
 率直な台詞に、思わずざわざわと胸が騒いだけれど、響也はそれを無理に抑え付けた。そんなに簡単に飲み込まれてしまう訳には行かない。今は、自分が彼を征服しようとしているのだから。
「何もしなくていい。そこでじっとしててくれればいいよ」
 そう言うと、響也は徐に手を伸ばして、ぐい、と彼の腰を抱いて引き付けた。

 体温が側に寄ると、柄にもなく早まったかも知れないという焦りが浮んだ。彼相手に、どうしようと言うのだろう。手を出すと言うことの意味は、彼だって自分だって、よく解かっている。この男だって、抵抗していない。いや、もしかしたら響也が本当に実行することなどないと、高を括っているのかも知れない。
 そう考えると、何だか面白くなくて、響也は自棄になったように腕の中の人物に覆い被さるように身を寄せた。
 ドサ、と音がして、ソファが沈む。知らず、挑むような視線を送ると、彼がふっと口元を綻ばせた。
「何が可笑しいんだい」
「いや、別に」
 ムッとしたのを隠しもせずに尋ねると、成歩堂は相変わらず気だるい笑みを浮かべて返答して来た。
「百戦錬磨な検事さんでも、こう言うときは緊張するんだな、と思ってね」
「……!」
 揶揄する台詞に、カッと頭に血が昇った。こんなときに煽るなんて、いい度胸をしている。
 何を言い返しても軽く受け流されそうな雰囲気が嫌で、響也はただ無言で掴んだ手首をぐっと押さえ付けた。
 そうだ。あんたみたいな男相手に緊張して、何が悪い。
 開き直ったようにそんな呟きを胸中で漏らしながら、響也は顔を寄せた。
「ん……」
 ぐっと、強く唇を押し付けると、小さな吐息のような声が漏れた。
 途端、じわ、と喉の奥から何とも言えない感覚が這い上がる。
 こんなキスは、はっきり言ってお遊びの範疇にも入らないのに。
 ゆっくりと重なった唇が少し蠢くだけで、ぞくりとした。
 成歩堂は、一切抵抗する素振りを見せない。ぎこちなく舌先で唇をなぞると、そこは響也を誘い込むように緩やかに開いた。その度に、響也は掴んだ手首に更に力を込めた。別に、抵抗された訳じゃないけれど、何だか捕まえているようでいないような、妙な感覚に捕らわれてしまったからだ。
 夢中になって口内を味わっても、何だか、見知らぬ他人とキスしているような不可解さが拭えない。
「ん、……ぅ」
 小さく漏れる声は、確かに成歩堂龍一のものだけど。
 これじゃあ、埒が明かない。もっと、彼を暴きたい。その為にも、いっそ、このまま……。
 自然とそんな結論に自然と達したところで、いきなり心地良い感覚は途切れた。
 息苦しくなったのか、突然もがいた成歩堂が、響也を引き剥がしたからだ。
 まるで、こちらが抱いた欲求を敏感に感じ取ったみたいに。
「牙琉検事……」
 掠れた呼び声と共に響也の腕をを振り解こうとする手を、ムキになって掴み直した。
「逃げるのかい?でも、そうは行かないよ、成歩堂龍一」
「……!」
 ぐっと、捻るように力を込めると、彼は僅かに眉根を寄せた。
 走り抜けた痛みに耐える顔が、響也の琴線に触れる。
「だいたい、逃げられるのかい。ぼくをここから追い出す?ぼくの方が、力は強いみたいだけど……」
 状況を思知らせるように言い放ったけれど、彼も負けてはいない。
「……そんな必要ないよ。でも、強行するつもりなら、訴えようか?牙琉検事」
 揶揄するように言われて、ますます引けなくなる。
 いつもいつも、そうやって気だるい視線と曖昧な笑みで誤魔化してしまえるなんて、思わないで欲しい。本当は、知っている。彼のその、力の抜けたようにしか見えない両目には、誰にも屈服する気などない強い意志が隠されている。七年前、自分に向けられた眼差しを思い出すと、響也の背筋には、恍惚に似た強烈な感覚が一瞬這い上がって消えた。
 彼は一体、何を抱えているんだろう。そうだ。彼は今も、その中に何かをしまい込んでいるのだ。それを引き出して、捕まえたい。
 落ち着かなければ。熱くなったら、終わりなんだ。
 響也は軽く深呼吸をして、それから指先で軽快な音を鳴らした。
「検事を訴えるなんて、いい度胸だね。でも……」
 言いながら、片手で腕を捻ったまま、彼の二の足を割って自身の体をその間に押し込んだ。そうして、逃げられないように上に圧し掛かると、成歩堂はハッとしたように小さく息を飲んだ。
「……!牙琉検事、きみ……」
 初めて、少しだけ慌てたような声が上がる。
「約束は守って貰うよ、言い出したのは、あんたの方なんだから」
 ふっと口元を緩めて言うと、成歩堂は何事か考えるように黙り込んだ。
 でも、それはほんの数秒のことだった。
「解かった……。好きにすればいいよ。牙琉検事」
 諦めたように発せられた声に、響也の目は柄にもなく期待で輝いた。
「勿論……そうさせて貰うよ」
 そう言って、響也は再び彼の口元に顔を寄せた。

 場所を奥の部屋に移してそこに鍵を掛けると、あとは難なくことが進んだ。別に、彼みたいな男を相手にするのが慣れてるなんてことじゃないけれど、何となく、出来るものだ。
 それより、これはそう言う欲求じゃなく、単なる好奇心と支配欲だ。多分、そんなものだ。だから、決められた通り進めればそれでいい。
 そんなことを思いながら、響也は目下にいる人物に視線を向けた。
 ぎし、とデスクが軋む度、仰け反った喉がひくりと鳴る。乱れた衣服の隙間から覗く肌は、響也が与える愛撫に似た動きに反応して、既に上気していた。
 胸元をなぞって突起を引っ掻くように弄ぶと、その度に上体が揺れる。箍が外れてしまえば、こんなものか。
「へぇ、意外だね。あんたが、こんな……」
 揶揄する言葉が掠れないようにするだけで、精一杯だ。嘲笑うような台詞に、成歩堂は気だるげな視線を一瞬だけこちらに向け、それからすぐ逸らしてしまった。
 何だか、苛々する。
 されるがままになって、それでやり過ごすつもりなのか。
「くっ……」
 ふと、苦しそうに上がった声に我に返った。夢中になるあまり、気遣いを忘れていたらしい。荒っぽい動きに精一杯堪えていたのか、唇を切れそうなほど噛んでいた痕が残っている。それでも、我慢が効かなくなって声が上がったのだと思うと、どく、と心臓の音が高鳴った。
 彼だって、そう慣れているようには見えない。でも……。
(悪いけど、優しくしてあげる気なんて、到底ないよ)
 意地悪い言葉を胸の内で囁くと、響也は声を上げる口元にぐっと手の平を押し付けた。
「静かにしなよ、誰かに気付かれてもいいのかい?」
「……っ」
 声を塞ぐように力を込めると、成歩堂は苦しそうに眉を寄せた。
 両足を開かせて、その奥をなぞると、水に濡れたように潤んだ目が恨みがましそうに響也を見上げる。その視線に、体が熱を孕んだ様に熱くなるのが解かった。
 と言っても、このままじゃ本当に苦しそうだからと、そっと手の平を外して、代わりに口元を指先でなぞる。征服する手は緩めずに、響也は胸の奥に痞えたまま取れないものを、言葉にして吐き出した。
「教えてよ、成歩堂龍一」
「……っ、……」
「あんたが、何を考えているのかさ」
「………」
「何を考えて、ずっと兄貴の側にいたのか」
 七年間、ずっと、その中に何を抱えているのか。本当は、何を思って、何を見ていたのか。兄のこと、彼自身のこと。それから、あの裁判のこと。
 問い掛けに、答えは返って来なかったけれど、それで良かった。こんな状況で、まともな返答など出来るはずない。
 その瞬間まで、響也の胸の内に溢れていたのは、優越感に似た快感だった。

 けれど、我に返ると、襲って来たのは焦りと罪悪感に似た感情だった。
 胸の中で吹き荒れていた感情を、勢いに任せてこの男に八つ当たりしただけだ。
 目下に横たわっている成歩堂は、流石に精根尽き果てたのか、ぐったりとしたまま動かない。彼の表情はニット帽に隠れてよく見えないけれど。
「成歩堂……さん」
 恐る恐る声を掛けようとしたそのとき、成歩堂は急にスイッチが入ったように声に反応して顔を上げ、ゆっくりと身を起こした。
「悪いけど、タオル取って来てくれないかな、そっちの奥」
「あ、ああ……」
 いつもと変わらない彼の様子にうろたえつつ、言われたままにタオルを取って手渡す。響也の手からそれを受け取ると、成歩堂はにこりと笑った。
「ありがとう、牙琉検事」
「……」
 そう言われて、どういたしまして、なんて笑い返せるか。あの兄じゃあるまいし。
 響也がそのまま身動き取れずにいると、成歩堂はふっと表情を緩めた。
「そんな顔しなくていいよ。ぼくも、知りたかっただけだから」
「……」
(……え?)
 呆けたように続く言葉を待っていると、成歩堂は衣服を整えて、よいしょ、などと間の抜けた声を発しながら立ち上がって響也の側に足を進めて来た。
「きみのことをだよ、牙琉検事」
「……!」
 どき、と心臓の音が高鳴った気がした。予想もしていなかった台詞に、一瞬だけ頭に血が昇る。
 何を言っているのだろう。ふざけているのか。そう疑ったけれど、言葉を紡ぐ成歩堂の様子はあくまで優しそうだった。
「きみのことが知りたかった。七年前と変わっていないのか、どうなのか」
 顔を上げると、先ほどまでは確かに響也の思うままに翻弄さていた双眸は、昔見たときのようにしっかりと開かれて、こちらを見据えていた。
 その真っ直ぐな目に思わず息を飲んでいる間に、成歩堂は響也の襟元を掴んで、ぐいと自分の方に引き寄せた。耳元に唇が寄せられ、温かい吐息が掛かるほど側に。
「安心したよ、牙琉検事。きみはあの頃のままだ。それを確かめたかったんだよね」
「……どう言う、ことだい」
 響也の問いには答えず、彼は曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「きみの葛藤とか、迷いとか、そんな気持ちは解かったつもりだよ。でも、まだなんだ」
「……?」
「まだ、その時期じゃないんだ」
「……成歩堂さん?」
「いずれ解かるよ。きっとね……」
「………」
「ぼくは、きみにちょっと期待してるのかも知れないよ、色々と……」
 そこで、成歩堂は襟元からパッと手を離した。
 解放されたからと言って、響也の頭の中は未だ混乱したままだ。
(何なんだよ、この男は……)
 訳が解からない。結局、何も解からないままだ。
 何てことだ。征服して、何もかも引きずり出してやりたかったのに。
 でもきっと、今告げられた台詞こそが本音に違いない。一体、何を企んでいるのかは知らないが。
 そう思うと同時に、響也は何だか全てがどうでも良くなったように、ふっと笑みを零した。
「それが嘘じゃないといいけどね。成歩堂龍一」

 その後。
 動いたせいで下肢に痛みを感じたのか、呻きを上げる成歩堂に、胸がすっとしたような気がしたけれど、同時に少し苦しくもあった。

 ずっと、七年前のことが気になっていた。七年経ってお互い変わって、忘れてしまったつもりだったけれど、そうじゃなかった。
 恐らく、成歩堂だってあの頃と本質的には少しも変わっておらず、彼の言うように自分だって同じだ。そりゃ、そうだ。大事なものなら、いつだって、見失ったことはない。
 何日か後の法廷で、響也はそのことを改めて思い出すことになった。