crisis
夜も更けて、照明の消えた暗い部屋。
辺りには文字通り、暗闇だけが広がっている。
そんな中…突然、あらぬ方向から低い声がして、成歩堂はびくりと肩を揺らした。
「随分、遅かったのですね、成歩堂」
「……?!」
聞き覚えのある声。
最近、特によく聞くようになった声だ。
「牙…琉…?」
牙琉霧人…弁護士。どうして、ここに?
どう考えても、今は友人を歓迎出来るような状況ではない。
成歩堂は無意識のうちに、ごくりと生唾を飲み込んだ。
ここは…元、成歩堂法律事務所。
今は可愛らしい少女の希望で、芸能事務所と言うことになっているが。
あの事件があってから、成歩堂はその少女、みぬきと共にここで寝泊りしている為、最早自宅のようなものになっていた。
そのみぬきが、今日に限って鍵を閉め忘れたのか、それとも霧人を客人として迎え入れ、待たせている間に先に眠ってしまったのか。
考えられる理由は幾つもあったが、今までこんなことはなかった。
彼のような男は、きっと、意味のない行為を嫌う。
こうして、真夜中にここへやって来たからには、何かがある筈だった。
「別に…対した用じゃないよ」
不穏な空気の中、成歩堂は殊更明るい声を発して、部屋の奥に佇む霧人から目を逸らした。
途端に、居心地の悪くなるような強い視線を感じる。
けれど、彼には、何も悟られたくない。
「きみの方こそ、こんな遅くまで待っているなんて、どうしたんだい?」
「……」
「悪いけど、今日はもう帰ってくれるかな」
明かりを点けないまま、成歩堂はバスルームに向かって足を進めた。
「待ちなさい、成歩堂」
「……!」
途端、冷静な声で呼び止められ、びく、と肩が震えてしまった。
霧人に気付かれただろうか。
ほんの些細な変化であれ、やり手の弁護士である彼は、それを見逃してくれるほど甘くない。
自分の、変化。彼に気付かれる訳には行かない。
成歩堂は方々に散った気を取り直して、何とか顔を上げた。
「疲れているんだ。話なら明日にして貰えないかな」
「……」
無言のまま、霧人が眼鏡を直す仕草を見せる。
すぅっと部屋の温度が下がったような気がしたが、引く訳には行かない。
痕跡さえ流してしまえれば…言い逃れくらい何でも出来る。
そう思って、構わずに足を進める。
が…辿り着くまでやたらと長く感じたバスルームの前で、半分ほど扉を開けた、途端。
バン!と言う音がして、背後から伸びた手に扉は虚しくも閉じられてしまった。
「……!!」
いつの間にか、すぐ後に霧人の気配があった。
振り向いた成歩堂の目が、驚愕に揺れる。
「人の話は最後まで聞くものですよ、成歩堂」
「牙琉…、ぼくは…」
何か適当な理由を付けて、彼を帰そうと思案した途端、両腕が彼に掴まれた。
そんなに強い力が籠もっている訳でもない。
なのに、どうしてか…やたらと重い鎖が巻き付いたように、動けない。
成歩堂の額に、じわりと汗が浮き出た。
「服から…煙草の匂いがしますね」
「……!」
「その帽子からも、しますよ」
「……」
「煙草の匂いはきみには似合わない、止めた方がいいですよ」
「牙、琉…」
「それとも、誰かが一緒にいたのですか?」
「あ、ああ…。随分長いこと…話をしていたからね」
喉の奥が乾いて、言葉が上手く出て来ない。
こんなことでは、怪しまれてしまう。
「ぅん……っ?!」
危惧した通り。
次の瞬間、グっと顔が近付いて、唐突に唇を塞がれた。
霧人の整った綺麗な顔が、すぐ傍にある。
目を見開いて、突然の口付けを受けながら、何故か…背筋が凍り付くような気がした。
僅かに開いた隙間から、舌先が潜り込んで口内を好き勝手に暴れる。
執拗に纏わり付いて来る彼の唇はやたら冷たくて、成歩堂の不安を更に煽った。
やがて、霧人がそっと顔を離す頃には、成歩堂の吐息はすっかり乱れてしまって、肩は苦しげに上下に揺れていた。
「おかしいですね…。一緒に話をしただけだと言うのに、ここからも煙草の味がするとは」
すぅっと成歩堂の唇をなぞって、霧人が言う。
「……っ!!」
じわじわと…少しずつ追い詰めるような尋問。
圧力に耐え切れなくて、成歩堂は自分を見詰める霧人の視線から顔を逸らした。
落ち着け。何も、慌てることはない。
牙琉霧人が、彼が、知る筈はないのだから。
自身に言い聞かせ、成歩堂は何としてもこの場を切り抜けようと必死に努めた。
さっきまで、成歩堂龍一はボルハチにいた。
そこは自分の職場であり、何も不自然なことではない。
ただ、もう時間はかなり遅くて、通常の営業など、とっくに終了してしまっていた。
数年も経つ頃には、ちょっとした話題になるポーカープレイヤーとしての仕事も、今の成歩堂にはまだない。
ただ。
閉店間際になって、取引をしようと、話を持ちかけて来た男がいたのだ。
人がいないところが良いと言うので、あのナラズモの部屋に二人で入った。
妙な内容ならその場で立ち去るつもりだったが、話し始めてほんの数秒で、成歩堂にはそれが出来なくなってしまった。
「情報をやろう、あんたが欲しがっている情報だ」
「何だって…!?」
男は、成歩堂の耳元にそう囁くだけで良かった
成歩堂龍一と言えば、今ちょっとした話題で世間を騒がせている為、殆どの人間が彼の名と、彼が弁護士バッジを失ったことを知っていた。
そして、彼の依頼人が忽然と姿を消したことも。
その行方、成歩堂が知りたくない筈はない。
真相を知っているなどと仄めかされて、心が揺らがない筈は…なかった。
けれど、代償にと請求された金額は、とんでもないものだった。
しがないピアノ弾きになど、とても払えるものではない。
「金は…ない」
「それなら、この話は終わりだな」
「待ってくれ!だったら、どうしろって言うんだ?!」
帰りかけた男を成歩堂はただ夢中で引き止めた。
「そう、だな…」
まるで、こちらのその言葉を待っていたかのように。
そこで、男の視線が急に下卑たものに変わった。
「相手をして貰えれば、それで手を打ってもいい」
「な、に…?!」
「解からないのか?相手をしろと言ってるんだよ、こっちで」
「……!」
不意に腰の辺りを撫で回され、そこで初めて、相手の意図に気が付いた。
思い切り腕を振り払ったつもりが、逆に強い相手の手に肩を掴まれる。
「待てよ。よく考えてみることだ。例の事件…どうしてあんなことになったのか、知りたくないのか?」
「何だって…?」
「そして、消えた男が今何処にいるのかもな…。あんたにとって悪い話じゃないだろう?」
脅しにも似た、明らかに挑発的な言葉。
すぐにそこから逃げ出さなかった時点で、もう自分に立ち去る力がないことに、気が付いた。
けれど、その取引は偽物だった。
簡単に言えば、成歩堂は罠に掛けられたのだ。
男は結局、何も知らなかった。
迂闊だった。そうとしか、言いようがない。
そうして、散々好き放題された後そのことを知らされて、怒りよりも虚しさが込み上げた。
それでもようやく自身を奮い立て、痛む体を引き摺って帰って来たのだ。
とにかく、最低な気分だった。
誰にも見られたくなかったし、誰にも会いたくなかった。
それに、知られている筈はない。
なのに、どうして牙琉はここにいて、こうして自分を問い詰めているのだろうか?
「弁解する気は…なさそうですね」
言葉に詰まった成歩堂に、尚も霧人の尋問は続く。
「それなら、確かめてあげましょうか。きみが何をしていたのか」
「……?!」
すぐには意味が解からなかった。
ただ、嫌な予感が胸に湧き上がって…。
次の瞬間、体が浮いて、冷たい床に突き倒されていた。
その上に、霧人の肢体が圧し掛かる。
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
「牙琉!何を…んっ!」
拒絶の声は、グッと唇に押し付けられた手の平に吸い込まれる。
「……っつ」
目を見開く成歩堂に、いっそ穏やかに見える笑みを浮かべ、霧人は優しい口調で告げた。
「大人しくしていた方が、きみの為です」
「……!」
柔らかいその物言いに反し、成歩堂の目には一瞬、怯えの色が走った。
殊更ゆっくりと、上着のジッパーが下ろされる。
その間、何故か抵抗することも出来ず、成歩堂は息を詰めて、目の前で起きていることを呆然と見ていた。
何と言っても、まず…霧人は一体何をしようとしているのだろう。
それに、当然だが…成歩堂をこんな風に問い詰める権限など、霧人にはない。
それでも何故か、理屈以外に…どうしても拒否出来ないような強さが彼にはあった。
慣れた手つきで衣服が剥ぎ取られて、霧人の視線が、肌の上を這う。
少し衣服を捲り上げると現れる、鬱血した痕。
肌を滑っていた指先が、そこでぴたりと止まった。
「きみのお相手は…随分と情熱的だったようですね」
「……っっ」
相変わらず、彼の手で口を塞がれたままで、何の返答も出来ない。
成歩堂はせめてもの抵抗に、無言のまま精一杯霧人を睨み付けた。
「……んっ!」
途端、その肌の上に痛みが走って眉を顰める。
霧人の爪が、その上を軽く引っ掻いたのだ。
男では珍しいだろうに…いつも丁寧に手入れされている、彼の爪が。
肌を焼くような熱い感触に、成歩堂は、そこが血を滲ませているのに気が付いた。
「ま…待ってくれ!止めろ、牙琉!」
両足を無理矢理割って、霧人が体を割り入れる。
それが何を意味するのか解かって、成歩堂は必死の抵抗を始めた。
冗談ではない。今日はもう、そんな体力も気力もない。
第一、隣の部屋にはみぬきが眠っているのだ。
今にでも起き出して来て、こんな状況を見られたら…。
そう思うと、何よりも血の気が引く。
「きみが静かにしていれば…それで済むことですよ、成歩堂」
「……!」
こちらの思考など見透かすように、静かな声に捩じ伏せられる。
「…牙琉っ!」
蒼白になった成歩堂の抗議も聞き入れられることはなく、不意に、指先がグイと後孔に潜り込んだ。
「んん…っ!!」
衝撃に、びく、と体が浮き上がる。
普通であるなら、容易く異物を受け入れることなど出来ないその場所は、少し萎縮しただけですんなり彼の指を受け入れた。
「い、嫌だ…!止め…っ!」
それは…先ほどまでの行為の裏づけに繋がる事実で、成歩堂は羞恥の為、何とかそこから逃げ出そうと努めた。
「ぐ、ぁぅ…っ!!」
途端、もう一本の指が侵入して来て、下肢が引き攣る。
「…随分、楽に入るのですね…」
「く……っ!!」
羞恥を煽る、霧人の穏やかな声が降って来る。
「がっかりですよ、成歩堂。きみがこんなに淫乱だったとは…」
「…牙琉…っ!」
ぎりぎりの状況で上げた縋り付くような声も、この状況では、何の効果も齎さないようだった。
「バカな男ですね…あんな連中にのこのこ付いて行くから、こんな目に遭う…」
「…?!くっ…」
「情報など、貰えなかったのでしょう?」
「ぁ…ッ!な、んで…何で、それを…!」
成歩堂は知る良しもない。
霧人が、自分の周囲に必要以上に目を光らせていること。
情報があるなどと偽って、成歩堂に接触して来た男。
もし本当にあの事件の真相を知っていたなら、きっと今頃、彼の命はなかった。
今回は、ただの罠のネタに使われるだけに終ったけれど。
今後の牽制…と言うものは必要になった。
下手な輩が成歩堂龍一に近付いて、入れ知恵したりしないように。
彼が、余計なことを嗅ぎまわらないように。
何よりも、真実だけは、絶対に知ることがないように。
だから、霧人は今日ここへやって来たのだが。
そんな事情など、成歩堂には知る術もない。
ただ、ゆっくりと抜き差しされる指先に、ひたすら呻き声を抑えようと、懸命に努力していた。
幾ら、先ほどまで無理にでも受け入れていたとは言え、流石に、そうそう何度も耐えられるような造りではない。
「ぁ…うっ…!」
それなのに、時折霧人の指先が敏感な場所を掠めて、あられもなく声が上がる。
快楽に流されて、何も解からなくなってしまえば楽だったのかも知れないが、彼はそれを許してくれなかった。
声を堪えようとする唇が優しい手つきで抉じ開けられ、口内に指が押し込められる。
噛み付いてやることも出来たのだろうが、そんな気力は残されていなかった。
「んぅ…う…っ」
ただ、痛みから逃げるようにがむしゃらに、彼の指先に夢中で舌を絡ませた。
「あなたは…私のことだけ見ていれば良いのですよ」
少しずつ、抵抗する力が意識と一緒に削られて行くのを感じる中。
不意に、やたらと冷静な霧人の声が降って来た。
「……?」
自分だけを見て、自分だけを頼って、信じていればいい。
霧人の言葉の意図を測り損ねて、成歩堂は眉を寄せた。
(牙琉、何を…何を言っているんだ…?)
当然、成歩堂に理解出来る筈もない。
その代わり、ただきつく目を閉じて。
理不尽な行為が終るのを、ひたすら待つだけだった。
END