fibber




 いつもいつも、大した用事もないのにやって来ては事務所のソファを占領している男を見降ろして、霧人は溜息を吐いた。
 自分を待っていたはずの男は、すっかり熟睡してしまっていた。すやすやと、心地良さそうな寝息まで聞こえて来る。待ちくたびれたのは解かるが、ここは弁護士事務所だ。もう少し、緊張感を持ってもいいだろうに。
 安らかな寝顔を暫く無言で見詰めた後、霧人は優しく彼の肩を揺さぶった。
「起きなさい、成歩堂。風邪を引きますよ」
「……うーん」
 成歩堂が眠そうな目を開ける。目の前の霧人の姿を捉えると、彼はずれたニット帽を直しながらゆっくりと起き上がった。
「遅いよ、先生」
「すみませんね。仕事が長引いてしまったのですよ。いいから、起きなさい」
「……うん」
 素直に頷いて緩慢な仕草で立ち上がった成歩堂は、次の瞬間、バランスを崩してぐらりとよろめいた。
「成歩堂……!」
 咄嗟に腕を伸ばして、手首を掴む。
「何をしているんですか、きみは……」
 溜息を吐きながら力を込めてこちらに引き寄せると、彼の肢体は勢い余って霧人の胸元に飛び込むような形になった。
 まるで抱き抱えるような格好になってしまって、不本意な体勢に眉根を寄せる。けれど、そのとき。自分の意思とは関係なく、掴んだ手首に不自然な力が籠もった。ぎゅっと爪の先が成歩堂の皮膚に食い込む。突然触れた他人の体温に動揺してしまったのだろうか。らしくない。
すぐに取り繕おうとした霧人は、ふと、自分に寄り掛かるように立っている成歩堂の肩がびくりと揺れたのに気付いた。
 何をそんなに大袈裟な反応をと、不可解に思って見下ろすと、ほんの一瞬だけ、いつも気だるそうな色を浮かべた彼の目が大きく見開かれているのが見えた。
 すぅっと大きく息を飲む気配と、掴んだ手首、その皮膚の下で、どくどくと音を立てる鼓動がはっきりと耳に届くような気がした。
「……?」
 いつもと違う反応に、霧人は眉根を寄せた。
 まさか、動揺しているのだろうか。こんな表情は、暫く見たことがない。
 じっと見詰めていると、やがて見開かれていた双眸はゆっくりと元に戻り、代わりにそこに僅かな艶のような色が蠢いた。あからさまな表情の変化にハッとした途端、ざわりと嫌な予感が背筋を走り抜ける。
 このまま、この顔を見ていてはいけない。そんな直感に従って、霧人は捕まえていた成歩堂の手をそっと解放した。
「もう遅いですよ。あなたも帰りなさい」
「……」
 何事もなかったように告げたけれど、すぐには返事がない。
「成歩堂……。どうかしましたか」
「……何でもない。そうするよ、牙琉先生」
 彼はそう言って、ニット帽を直す仕草をしながら俯いた。
 その様子は、もういつも通りの彼だ。先ほど垣間見えた表情など、どこにもない。何を考えているのだろう。相変わらず、訳の解からない男だ。でも、何がどうであれ、霧人には関係ない。
 ただ、先ほどまで彼の手首を捕まえていた手の平を見詰めると、少しだけ胸の内がざわざわ騒いだ。血が昂ぶっているような、不思議な感覚だ。
 あの、皮膚の下で蠢いていた脈打つ感覚に、もう一度触れたい。
 馬鹿げた考えが頭の中に浮んで、何故か口元が自然と綻んだ。

 それから数日後。
 前回と同じようにソファに横たわっている男を、霧人は腕組みをしながら見下ろしていた。
 見慣れた光景だ。僅かに苛立ちを感じる以外、何も変わらない。
「成歩堂、起きなさい」
 いつものように声を掛けると、今まで閉ざされていた瞼が待ち構えていたように開いた。
「……!」
 意表を突かれて思わずハッとしたけれど、それも一瞬のことだ。
「起きて……いたんですか」
「うん……、まぁ」
 相槌を打ちながら、成歩堂はゆっくりと起き上がり、霧人のスペースを開けるようにソファの端に身を寄せた。ここに座れと言うことか。何のつもりかと思いながらも、無言のまま空いた場所に腰を下ろすと、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
「先生、まだ眠いよ」
 その上、そんなことを言いながら霧人の背に寄り掛かるように体重を掛けて来る。普段、こんな風に触れたがるようなことはしないのに。
 不可解な行動に、霧人は眉根を寄せた。
 けれど、それを成歩堂には悟られないように、そっと眼鏡を直す仕草で誤魔化す。
 彼も、霧人の反応を引き出したいのだろうか。わざとやっているのか。
 どちらにしても、他人の体温など煩わしいだけのものなのに。背中に触れる感触には、不思議と心地良い温度があった。
「仕事の邪魔をしないで欲しいですね」
 もっとこうしていたいと思う感情を振り払って冷ややかに言い放つと、霧人は再び眼鏡を直した。
 その途端、成歩堂から気だるい声が上がる。
「きみがそうするのは、動揺しているか、本心を隠しているか……どっちかだよね、先生」
「……?」
「ぼくもそうだよ。最近気付いたけど、本心を隠したいときは、こうやってこのニットに触る癖がある」
「……よく、見ていますね」
 平静を装いながら告げた声は、掠れてもいなければ震えてもいなかった。
 いつの間にか、じっとこちらに向けられている目と視線が合う。
 静かな目。気だるい、妙な色気を纏った、食えない視線。でも、逸らすことが出来ない。
 今、彼の鼓動はどんな音で鳴っているのだろう。あのとき捕まえた彼の手首は、内心の動揺を打ち出すようにどくどくと脈打っていた。今も、そうなのだろうか。何故か無性に、あの音が聞きたい。
 ふと、パーカーの間から覗く首筋に目が移った。そうだ。手首なんかより、もっとよく解かる場所がある。
 霧人は誘われるようにゆっくりと手を持ち上げて、無防備な成歩堂の首筋に触れた。少し凹んだ柔らかい部分に指を宛がうと、そこはとく、とく、と鼓動が鳴っている。以前に触れたときより、早く、力強く。
 ぐ、と指先に力を込めると、成歩堂は眉根を寄せた。
「……っ」
 小さく漏れる声に、酷く気分が高揚した。
 みっともなく、呼吸が乱れ、心拍数が増える。
 唇が酸素を求めるように、緩く開く。少し間を詰めると、体がぴたりと密着した。胸板が合わさって、高鳴るリズムが重なる。その音に促されるように、霧人は顔を寄せ、そっと成歩堂の唇を塞いだ。
 柔らかくて、温かい。生きている人間なら当たり前のように持ち合わせているその感触に、霧人は一瞬我も忘れてのめり込んだ。
 頭の奥が甘く痺れて、軽い眩暈がする。
 ゆっくりと舌を捩じ込もうとすると、成歩堂はささやかな抵抗を試みた。拒絶しようとする仕草に、喉元に当てたままの指先に少しだけ力を込める。柔らかいその場所が、ほんの少しだけ沈むように。途端、ひゅっと短く息を飲む音がして、成歩堂の抵抗は止んだ。緩く開かれた口内に侵入して、霧人は夢中になってその場所を味わった。
 成歩堂の鼓動は更に跳ね上がり、こちらまで息苦しくなるほど、彼の呼吸は乱れた。


「苦しいじゃないか。ぼくに恨みでもあるのかい」
 ややして、夢中で合わせていた唇を離すと、成歩堂は自身の首筋を押さえて、恨みがましそうにそんなことを言った。
「そんなものありませんよ。それに、私は平和主義者です」
 顔色一つ変えずに言い切ると、成歩堂はいつもと変わらない、気だるい笑みを浮かべた。
「出来ればそうであって欲しいよ、先生。ぼくは、きみが好きだからね、牙琉」
「……」
「出来れば、ずっときみとこんな関係でいたいと思うよ」
「ええ……私もですよ、成歩堂」
 そう告げると、霧人は殊更ゆっくりと眼鏡を直し、成歩堂はそっとニット帽を指先で撫でた。