libido




「お姉さま、大丈夫ですか?しっかりして下さい!」
 冷たい川からやっとのことで這い上がり、肩で大きく息を吐くちなみに、あやめは涙を浮かべながら駆け寄って来た。
 差し出された手の平を大きな音を立てて払い、ちなみは冷めた視線を向けた。
「今更現れたって遅いのよ、あやめ。あんたは裏切り者。気安く話しかけないで貰える?」
「お姉さま……」
 払われた手を押さえたあやめの目に、みるみる涙が溢れる。
「ごめんなさい……。私、どうしても怖くて……」
 今の言葉通り、彼女はおぼろ橋には現れなかった。でも、狂言誘拐の計画のことを聞いていたから、心配になって川の付近を捜していたらしい。ちなみが川に飛び込むと知って。
 見上げると、あやめの手には毛布とタオルが握られていた。その白くて細い手は、がたがたと震えている。よろよろと立ち上がって彼女の手元からタオルを奪うと、ちなみは側にあったリュックを抱え直して歩き出した。
「ど、どこへ行かれるんですか」
「どこでもいいでしょ。もう、あんたには関係ないわ」
 水分のせいで絡み付く髪の毛を忌々しそうに払い、ちなみは足を進めた。
 いつまでもここにはいられない。このダイヤの原石さえあれば、もうここには何の用もないのだから。それに、もたもたしている暇はない。
 それなのに、あやめは必死で後を追って来て、縋り付くような声を上げた。
「お姉さま!待って下さい」
「何か用?」
 冷たい視線で一瞥すると、妹はびくっと肩を揺らした。
 けれど、引き下がろうとはせず、遠慮がちに口を開いた。
「お、お姉さまは、あれだけのことをなさって、何も感じないのですか」
「どう言うこと?」
「私は、怖いんです……、とても。でも、お姉さまは、どうして……」
 何だ、そんなこと。そんな下らないこと。
 同じ顔をした妹に本気で苛立ちを感じて、ちなみはさらりと言い捨てた。
「だって、何も感じないんだもの。それだけよ」
 これだけのことをしても、何とも思わない。あのバカな男がどうなるのか、想像は付くけれど、興味もない。手に入れたかったのは、このダイヤだけだ。
 でも、これだって別に、本気で欲しかった訳じゃない。あの考えるだけで胸の悪くなる父親への、当て付けだ。
 それだけ言って、そのまま去ろうとしたのに、あやめは尚も縋り付いて来た。
「では、どうすれば満足されるんですか。お姉さまは、一体何を手に入れれば幸せになれるんですか?私、何でもします。お姉さまの為になら、何でも……」
「何でもですって?よく言うわ。裏切り者のくせに」
「お姉……さま……」
「あんたこそ、どうなの。こんなど田舎の貧乏臭い場所にいて、一体何が満足なの?何が楽しいの?あたしはご免だわ。あたしはあたしだけの為に生きる。誰にも邪魔はさせない。あんたにも手伝って貰うわよ、あやめ」
 あなたには、その義務がある。裏切った報いを、受けて貰う為に。
 静かな落ち着いた声でそう告げると、あやめはようやく口を噤んで、無言のまま首を縦に振った。
 悲しそうな顔は、何もかも諦めて受け入れてしまったように見えた。

(何を手に入れれば満足するか、ですって?)
 あやめの言葉を思い返すと、酷い苛立ちを感じた。
 そんなもの、あるはずない。自分を本当に満たしてくれるものなんて、この世には一つもない。
 このダイヤの原石だってそうだ。この先、これがあればそれなりに楽しい生活は出来るだろう。
 自分は、あんな山奥に引っ込んで一生を終らせるなんて、真っ平だ。
 でも、いつも苛立ちはこの胸の中から消えない。
 何を手にすれば、この苛立ちは消えるのだろう。どうすれば満たされるのか。
 そんなもの、こちらが聞きたいと、ちなみは忌々しげに思った。

 それから、随分と時が流れた。
 あの日から運命が狂って、ちなみは沢山罪を重ね、確かに自分の為だけに生きて来た。
 今回も、それだけの為に一度別れを告げたこの世に戻って来て、復讐を果たそうとした。
 そうして、何度か立ったことのある裁判所の証言台に、自分は再び立っている。
 目の前には、数年前に殺し損ねた男の姿がある。彼は腰に手を当て、どこか勝ち誇ったような顔で、自信満々にちなみの名前を呼んだ。
「お久し振りですね。美柳ちなみさん」
 真っ直ぐにこちらを見据えるその黒い目と視線が合った途端、ぞくりと背筋が粟立つような気がした。
 ただのバカだと思っていたのに。ずっと、それだけの存在だと思っていたのに。
 今ここにいる自分をあやめだと思い込んだまま、ちなみの存在になど、気付くはずないと思っていた。だから、ずっと、そんな風に振舞って。
 いや、本当に?
 本当にそうだろうか。
 ボロを出さないように、完璧に演技していただろうか。
 もっと、他にやり方なんてあったはずじゃないか。ツメが甘かった。どこかで、気付かれたがっていたとでも言うように。
 では、ちなみが望んでいたのは、一体なんだろう。
 ここに自分がいること、復讐を果たしたこと、それを高らかに誇示したかったとでも言うのか。
 一体、誰に?
 この間抜けそうな裁判官に?それとも、今はもういない、あの忌々しい女、綾里千尋に?
 確かに、復讐は綾里千尋への憎悪から来るものだった。でも、それだけならもう済んだ。
 それなら、妹の春美だけに歪んだ愛情を注ぐ、あの母親に?それとも、自分を裏切った、本来なら自らの半身である、あやめに?
 彼女らを屈服させ絶望させる瞬間の恍惚を考えてみたけれど、どうも何かが腑に落ちなかった。
 でも、今。この自分をじっと見詰める、真っ直ぐな目。
 何て生き生きとした目を向けるんだろう。
 とっくに用済みになってしまったあの高価ながらくたより、ずっときらきらしている。
「リュウちゃん……」
 呟きと同時に漏れた微笑は、確かに天使の――と言わせるに値するような、無邪気であどけないものだった。
 ああ、今、解かった気がする。
 本当に欲しいもの。
 私が欲しくて堪らないのに、決して手に入らないもの――。