ランチ




「ねぇ、オドロキくん」
「はい、何ですか?」
 今日もせっせと事務所の掃除をしていた王泥喜は、背後から成歩堂に呼び掛けられて、くるりとそちらを向いた。
「そろそろ昼だし、何か作ろうか」
「そう言えば、お腹空きましたね。解かりましたよ、今から何か作りますから……って、え……」
 今、何と?
 成歩堂の意外な言葉に、王泥喜は思わず目を丸くしてしまった。
 いつもなら、彼は昼食の時間になるとどこからともなく現れて、食事を作ってくれと強請ってくるのに。
 今のは、聞き間違いだろうか。確か、自分が作るって言ったような。
 王泥喜がいつまでも意表を突かれたように目を見開いていると、成歩堂は不貞腐れたように視線を逸らした。
「もしかして、不満かい」
「い、いえいえいえ!そんな!そんなことないですよ!」
 成歩堂が作ってくれるなんて、本当に嬉しい。そう言えば、彼だって王泥喜が来る前まで七年間も人の親をやっていたのだから、作れないはずはない。
「嬉しいですよ、凄く!」
「じゃあ、任せてね」
 慌ててそう言うと、成歩堂は嬉しそうに笑って、自信たっぷりな笑みを浮かべた。いそいそとエプロンなんかを付けて部屋の奥へと消えて行く背中を見送って、何だか胸の奥が弾むような気がする。こう言うのも、悪くないかも知れない。王泥喜はささやかな幸せを噛み締めて、思わず笑みを溢した。
 が……その、僅か数分後。
 ガッチャーン!!!
「……?」
(え……?)
 成歩堂が入って行った部屋の方から、物凄い音が立て続けに聞こえた。
「……なっ、何だ!?!」
 一体、何事か。
 何だか良くない予感がして成歩堂のいる部屋へ足を踏み入れると、そこは結構悲惨な状況になっていた。
「あ、オドロキくん」
「な、何ですか、この惨状は!」
 王泥喜の目の前に広がったのは、何だか呆然としている感じの成歩堂と。どうやったらこんなに落ちるんだと思うほど、床に叩き付けられて割れたらしいお皿の数々と。極めつけは、部屋中にもくもくと舞い上がる真っ白な粉。
「な、何で……こんなことに……」
「それが、ぼくにもよく解からないんだけど……」
「わ、解からないって、どう言うことですか!」
「ただ……小麦粉の袋を開けようとしただけなんだけどなぁ」
「そ、それでこんなに食器が割れるなんて……」
「ああ、でもグレープジュースは無事だよ。小麦粉にこれ入れて焼こうと思ったんだけどね」
「……」
 成歩堂の言葉に、王泥喜は怒る気力もなくしてがっくりと項垂れてしまった。
 グレープジュースと小麦粉を混ぜて焼いたものなんて、何て独創的な料理なんだろうか。いや、でも。よく見るとその粉の袋には明らかに「重曹」と書いてはいないか。しかも、食用じゃないヤツだ。と言うことは、寧ろ料理が失敗して本当に良かった。
「でも、集めればなんとかなるかな」
「……?!」
 王泥喜が暢気に胸を撫で下ろしている間に、成歩堂はそんなことを言いながら床に散らばった粉をせっせと集め始めた。
「い、いやいやいや、止めて下さいよ!」
 慌てて彼を止めると、王泥喜は先ほどから頭に浮かんでいた疑惑を、恐る恐る口にした。
「な、成歩堂さん。あの……まさかと思いますけど、今まで料理の経験は……」
「え、ないけど……?殆ど」
「……ええっ?!」
「今まではだいたい牙琉が奢ってくれたし、みぬきの分もお土産くれたりしたからなぁ……」
「そ、そうですか」
(せ、先生……)
 かつての恩師のことを思い浮かべて王泥喜は少し切ない気分になってしまった。
 それに、出来ないなら言ってくれると良いのに!
 そう言い掛けて、王泥喜はぐっと我慢した。
 成歩堂は悪気があった訳じゃないし、もう起こってしまったことは仕方ない。
 何とか気を取り直して、王泥喜は掃除したばかりの部屋をまた一から磨き上げる羽目になってしまった。手伝おうとした成歩堂が、バケツをひっくり返したりゴミ箱をぶちまけたりと更に状況を悪化させたので、彼を何だかんだ言って応接室へ押し込んで。ようやく終る頃には、とっくに正午を過ぎてしまった。
「つ、疲れた……」
「大丈夫かい?悪かったよ」
「いえ、いいですよ。さっきデリバリー頼みましたし……。俺、ちょっとソファに横になっています」
「うん、解かったよ。テレビでも観てたら?」
「ええ、そうします」
 成歩堂の提案に頷いて、ぐったりとソファに横になると、王泥喜はリモコンのボタンを押した。
 テレビをつけると、丁度ラミロアの歌が流れていた。
「この曲は……」
(ラミロアさんか……何だか懐かしいな)
 流れるようなメロディと優しくて綺麗な声に、少し苛々していた気持ちは一気に穏やかになった。流石、ラミロアだ。
 そうだ、苛々したってろくなことがない。あの成歩堂が、王泥喜の為に料理を作ると言い出したこと自体、奇跡みたいなものだし。
 そんなことを思って、王泥喜がジーンと浸っていた、その時。
 バシっ!と音がして、王泥喜の顔のすぐ横のソファに、何かが凄い勢いで突き刺さった。
「……?」
(え……)
 何だろう、今のは。恐る恐る視線をずらしてそちらを見ると、たった今そこに突き刺さったばかりの小さな矢が、反動でビーンと揺れていた。
(なっ、な、なんだ!)
「ああ、失敗か」
「な、成歩堂さ……?!」
 彼が、これを投げたと言うのか。
(お、俺を殺す気か!!)
「あ、あなたという人は、どう言うつもりで!」
「ああ、これは……。ぼくもみぬきみたいに芸の一つでも磨こうと思ってね。ダーツを的に百発百中とか、カッコ良くないかい」
「ま、的って!俺ですか!命中したら俺は怪我してますよ!勘弁して下さい!」
「あ、そうか……」
 さも今気付いたようにポンと手を叩く成歩堂に、王泥喜はおデコに青筋が浮かぶような気がした。
「と言うかですね!まず何で俺が的何ですか!危ないんですから止めて下さいよ!」
「まぁまぁ、いいじゃないか、当たってないんだし」
「そ、そう言う問題じゃありませんよ!!」
 反省の欠片もない成歩堂の言葉に、王泥喜はひくっと顔が引き攣ってしまうのを何とか堪えて、再び口を開いた。
「とにかく!!事務所ではそんなもの振り回さないで下さい!それより、ラミロアさんの歌に合わせてそんなもの投げ付けたりしないで下さい!!」
 色々な苛々がガーッと募って思い切り叫ぶと、成歩堂は急にすうっと真顔になった。
「きみの言うことにも一理あるけど、ぼくだって生活がかかっているんだ。いつまでもみぬきにおんぶ抱っこじゃいけないと思って何が悪いんだい」
「お、俺にもおんぶ抱っこなことを忘れないで下さいよ!その上、先生にだって!だいたい、あなたはピアノの弾けないピアニストなんですよ!?その上でそんな役に立たない芸まで身につけて、どうするって言うですか!」
「………」
(あ……)
 しまった。言い過ぎた。
 そう思ったときには、もう遅い。
 彼は王泥喜の目の前で見るからにずーんと落ち込んでしまった。
「あ、あの、成歩堂さん」
「……」
「成歩堂さん?」
「……」
 呼び掛けても、返事がない。
 怒っていると言うより、本当にただ落ち込んでいるように見える。
 急に罪悪感が込み上げて、王泥喜はすぐに謝ってみた。
「す、すみません、俺、言い過ぎました」
「……いや、ぼくが悪いんだよ、本当にきみの言う通り、役に立たないし……おまけに生活費は娘に頼りきりで、駄目な男だよね……」
「い、いえ、そんな、俺はそこまで……」
「今日だって、少しはきみが喜んでくれると思ったんだけどね。本当に余計なことをして、すまなかったよ」
「な、成歩堂さん……」
「もうしないから、許してくれるかい」
 いつになくしおらしく謝る成歩堂に、王泥喜は胸がきゅぅんとなってしまった。
「そ、そんな……謝ったりしないで下さい!お、俺は、少なくとも成歩堂さんがいてくれて嬉しいですし!!」
「本当かい、オドロキくん」
「勿論です!」
「じゃあ、少しくらい我侭言っても、許してくれるのかい」
「あ、当たり前です!あなたの我侭くらい、俺が何とかしますから!」
「じゃあ、今日の昼は……特上の寿司が食べたいんだけど、それでも……?」
「勿論、大丈夫です!早速俺、電話して変更してもらいますから!」
「ありがとう、オドロキくん。好きだよ……(寿司が)」
「な、成歩堂さん…。俺も、俺も好きです……!」
 二人はぎゅっと手を取り合って、そして硬い握手を交わした。

 その数十分後。
「美味しいですね!成歩堂さん!」
「うん、凄く美味しいね、オドロキくん」
 にこにこと笑顔で向かい合っている二人は、どう見ても和やかに、とても幸せなランチの時間を楽しんでいるように見えた。