Marking
新しいパパと一緒に住むようになって、一ヶ月くらいが過ぎた。
「おやすみ、みぬきちゃん」
「おやすみ、パパ!」
そんな挨拶を交わした後、もう毎晩恒例となっている、おやすみのキスをしたときのこと。
みぬきの小さな唇が成歩堂から離れると、彼は急に何だか難しい顔になってしまった。
そして、複雑な顔をして口元を手で覆っている。
何と言うか・・・照れているような、怒っているような、そんな表情だけど、みぬきにはよく解からない。
成歩堂が沈黙しているのが不思議で、みぬきはそっと首を傾げた。
「パパ、どうかしたの?」
「え…?ああ、ええと…」
じっと顔を覗き込むと、少し考えるような素振りをした後、彼はぎこちなく口を開いた。
「ええと、みぬきちゃん」
「なぁに、パパ」
「その、キスのことなんだけど」
「……?」
「頬にとかはいいんだけど、口には…」
「え……?」
「ちょっとね、照れると言うか…、何て言うか…」
成歩堂はとても言い辛そうにして語尾を濁したけれど、キスを止めて欲しいのだと言っていることだけは解かった。
折角のおやすみのキスなのに!
みぬきは少し頬を膨らませた。
「ええ!どうしてなの?!つまんない…」
「はは、ごめんね」
みぬきがますます頬を膨らませると、成歩堂は本当に困ったように笑った。
パパを困らせてはいけない。
何しろ、このパパは初めてパパと言うものになったんだから。
みぬきは、本当のパパとの間に親子の経験があるから、ここは先輩として、新米なパパをしっかりリードしてあげなくちゃ。
でも…。キスは、したい。
頬にもおでこにも良いのに、どうして口には駄目なんだろう。
それに、成歩堂はまだ少しみぬきに対して他人行儀と言うか…。
みぬきに気を使っているような気がする。
パパって呼んでって言ったのは、彼の方なのに。
でも、完全にあの本当のパパみたいな関係になっても、ちょっと困る気がする。
それは何でかと言うと…。
このパパに、少しだけドキドキしてしまうことがあるから。
少し一緒に住んでみて、すぐに解かった。
大きくなったら、みぬきはパパと恋人になりたい。
でも、成歩堂が抱いているのは、それとは少し違う気がする。
どうしたら良いだろう…。
みぬきは一生懸命考えてみたけれど、良い方法はあまり見付からなかった。
それからも、みぬきは頑張って何とか彼の口にキスをしようとしたけど、その度に上手くかわされてしまった。
そんなある日。
成歩堂の携帯に誰かから電話が掛かって来た。
画面を見た途端、成歩堂の顔が凄く嬉しそうに輝く。
「もしもし、真宵ちゃん?」
通話ボタンを押すと、彼はみぬきの知らない人の名前を呼んだ。
「元気だった?うん、こっちは、何とかね…」
「春美ちゃんは?ああ、そっか、良かった…」
彼は凄くリラックスした様子で、とても楽しそうにそんな話をしていた。
嬉しそうなパパの様子を見ているのは楽しい。
何だかちょっと寂しいような気もするけど。
けれど、成歩堂の電話を黙ってもくもくと聞いていたみぬきは、そこでふと、あることに気付いた。
「うん、うん。じゃあ、いつでも遊びにおいでよ」
最後にそんなことを言って、成歩堂がようやく電話を切ると、みぬきはそっと彼の側に寄ってぎゅっと手を握り締めた。
「ねぇ、パパ」
「…?何、みぬきちゃん?」
「今のまよいさんて人、パパの恋人?」
「…?!え、い、いや!違うよ」
「じゃあ、はるみさんは?その人がパパの恋人なの?」
「い、いやいや、春美ちゃんはみぬきちゃんと同じくらいの年だから、そんな…」
「そっか…」
やっぱり、そうだ。みぬきの思った通り。
でも、念の為、これも聞いておかないと。
「じゃあパパは、まよいさんやはるみさんと、キスした?」
「え……」
真剣な眼差しを向けてじっと顔を見つめると、成歩堂は物凄くうろたえたように、引き攣った声を上げた。
「な、何言ってるんだよ、みぬきちゃ…」
「したの?」
更に口調を強くして詰め寄ると、彼は首を数回横に振った。
「い、いや。したことないよ、一度も」
「…そうなんだ」
これで確実になった。
未だにあたふたと何事か呟いている成歩堂を余所に、みぬきはぎゅっと拳を握り直した。
まよいちゃんに、はるみちゃん。そして、みぬきちゃん。
だから、いけないんだ。
だからキスしてくれないんだ、きっと。
彼が、みぬきのことを”みぬきちゃん”て呼ぶのは、嫌いではない。
優しい大人の男の人みたいで、ドキドキするから。
でも。今日、解かった。
「ねぇ、パパ…。みぬきのこと、今日からちゃんと、みぬきって呼んでね」
「え……?」
「その方がいいでしょ?ほら、本当に家族みたいで」
「え、そ、そうだね…。解かったよ、みぬきちゃ…みぬき」
「ありがとう、パパ」
「うん、みぬき…」
その日、成歩堂はぎこちない様子ながらも初めてそう呼んでくれた。
そう言う風に呼ばれるなんて、もう慣れているはずなのに・・・。
それは何だか特別なしるしみたいで、思っていたよりもずっとドキドキすることだった。
もっともっと親子みたいになれば、きっといずれは唇にキスすることだって、許してくれるに違いない。
それは、みぬきが目指すものと根本的に違うのかも知れないけど。
(パパに、恋人として好きになってもらうのは、これからでもいいもん)
これから、みぬきはどんどん大人になって行くんだから。
それまでは、ちゃんと成歩堂のこと、見張っていなくちゃ。
みぬきがもっと大人になるまで、彼との特別なしるしが、どうか消えたりしませんように!
END