mellow
ごく、と音がして、目の前の人物の喉が幾度か上下した。
手にしたボトルを傾けて、そこから直接中の液体を喉の奥に流し込んでいる。
事務所の中には果実の甘い香りが広がった。
これは、最近随分と嗅ぎ慣れてしまった香りだ。葡萄の甘酸っぱい匂い。
「もう、その辺にしておいた方がいいですよ」
何度も何度も繰り返しボトルに口を付けている彼に、王泥喜は見かねたように声を上げた。
彼――成歩堂龍一は、王泥喜の言葉に一度冷たいガラスから口を離し、不服そうな顔をしてみせた。
「別にいいじゃないか、美味しいんだから」
「駄目ですよ、みぬきちゃんが言ってたじゃないですか。医者に止められてるんですよね?」
医者に、あまりグレープジュースを飲まないように、なんて言われる人はあまりいないだろう。
入院しているときも病室のベッドに転がっていたし、彼がこのボトルの中身をどれだけ好きかはよく解かっているけれど。
「じゃあ、もう少ししたら飲むよ」
「……」
あまり解決策になっていない台詞をさも妥協したように吐くと、成歩堂は空いた手をパーカーのポケットに突っ込んだ。そのまま、ソファに身を投げ出して退屈そうに外を見ている。
玩具を取り上げられた子供か、この人は。
やや呆れながらも、王泥喜はテーブルに置かれたボトルに目をやりながら声を上げた。
「それにしても、そんなに飲んでよく飽きませんね」
「うん?まぁ、そうだね」
視線だけこちらに向けて、成歩堂はふっと笑みを作った。
気だるい目と、いつも何か含んでいるような笑い方。
彼のそんなちょっとした仕草に自分が惹き付けられていることに気付いたのは、いつ頃からだっただろう。あまり覚えていない。でも、自覚がないだけで、きっと、ずっと前から。
彼がいると、いつも事務所には甘い香りが立ち込めている。熟した果実の香りだ。甘酸っぱくて爽やかないい匂い。でも、いつもそればかり嗅いでいるせいか、最近では段々と嗅覚が麻痺しているような気がする。
代わりに、五感の他の部分で彼の姿や声を必死で追おうとしている。彼の体温とか、微かに聞こえる溜息とか。そんなものを感じるだけで、ドキっとする。
「どうしても止められなくてね。みぬきには、きつく止められてるんだけど」
「……え、ああ……」
そこで、成歩堂が言葉を続けて、王泥喜はハッと我に返った。
そう言えば、ジュースの話をしていたっけ。
「まぁ、今回は見逃してあげますよ。みぬきちゃんにも内緒にします」
「ありがとう、オドロキくん」
「い、いえ……」
そんな台詞と共に先ほど見たのと同じ意味有り気な笑みをみせられ、王泥喜はただ人形のように首を縦に振った。
たまに、彼には逆らえない引力のようなものが働いている気がする。いつの間にかそれに引き付けられて、気付いたときには、もう手遅れだ。初めて、触れてみたいなんて単純な欲求を抱いたのはいつだっただろう。そのときに引き返していれば、今、こんな風に複雑な感情を持て余すこともなかったんだろうか。
「まぁ、きみにもきっと、いずれ解かるよ」
ふと、王泥喜の思考を遮るようにそう言って、彼はそのままごろりとソファに横になってしまった。
それから、そんな他愛もない会話など忘れてしまうほど、色々なことがあった。
七年前の事件の真相が白日の下に晒されて、みぬきにとっては辛い事実が明るみに出た。同時に、成歩堂のこと、牙琉霧人のこと、溢れ出た真実は王泥喜を困惑させた。でも、全てが済んで、成歩堂が見せた笑顔が忘れられない。こんなに屈託なく笑う人だったんだ。脳裏にあるのは、人を食ったような曖昧な笑みと、ぼんやりと追い掛けていたおぼろげな背中だけだったから。何の裏もなく全開の笑顔を見せられて、思わず目を細めてしまった。
でも。今、目の前にいる彼はいつもと同じようにソファに身を投げ出して、ぐったりとしていた。
今は、みぬきが側にいない。さっき彼女がここにいたときは、本当に嬉しそうにしていたのに。
「何だか、色々と疲れたね、今回は」
呟く彼の表情は見えない。目深に被ったニット帽のせいだけじゃなく、片腕で顔を覆うように隠しているからだ。昼寝するとき、窓から差し込む光が眩しくて、彼はいつもそんな体勢を取っている。だから、何と言うことはないけれど、今は無性に隠された彼の表情が見たくて仕方なかった。
急に沈みだした元弁護士に、王泥喜はどう反応して良いか解からなかった。でも、彼の言葉が何を指しているのかはよく解かる。
「先生のこと、ですよね」
遠慮がちに尋ねると、微かな溜息が漏れるのが聞こえた。
ようやく全てが終って、あんなに綻ぶような笑顔を初めて見せたくせに。彼の胸中はなかなか複雑そうだった。
「まぁ、きみは頑張ったよね。本当に、何だかきみを見てるとさ、昔のこと思い出すよねぇ、色々と……」
「……成歩堂さん」
そっと呼び声を上げながら、王泥喜は彼に向けて一歩ずつ足を進めた。距離が縮まって行く間中、彼の顔から目が離せない。もしかして、泣いているのだろうか。そんなことを思って、首を打ち振った。この人が、そんな部分を自分に見せるはずない。でも、もし――。
ふと、そんな思いが胸中に浮んで、王泥喜の心臓はどくどくと早鐘のように鳴り出した。今、どうしても彼の表情が見たい。いつもは隠されて見えない本心を暴いてしまいたい。
そのまま、彼のすぐ側に足を止めると、王泥喜はごくりと喉を上下させた。
「成歩堂さん」
もう一度呼び掛けたけれど、返事はない。でも、それでもいい。
直後、顔の前で交差するように組まれていた腕を、咄嗟に掴んでいた。ぐぐっと力を込めて左右に広げると、確かにどこか疲れたような成歩堂の顔が見えた。
泣いている訳じゃないことを確認して、ホッとすると同時に、何だかどこかで気落ちしている自分がいた。実際に彼が泣いていたりしたら、きっとあり得ないほど取り乱してしまうかも知れないのに。もっと彼に弱みを見せて欲しいと思うのは何故だろう。
「オドロキくん。腕、痛いよ」
そう言ったけれど、彼は王泥喜の指を振り解こうとはしなかった。それは、王泥喜が望むほどではなくても、彼が少しは自分に気を許している証拠みたいに思えた。それにきっと、今何を言われても、どう揶揄されても、手を離す気にはなれない。
いつの間にか、ソファに寝転んだ成歩堂の上に、圧し掛かるように身を寄せていた。人肌が密着して体温が上がり、衣服の内側で肌の表面に汗が浮き上がる。
捕まえたままの腕を彼の顔の横に押し付け、王泥喜は彼の自由を奪った。僅かに見開かれる目に、込み上げて来たのは確かに押さえ難い欲情だった。
駄目だ、もう止められない。
そんなことを思いながら、王泥喜はゆっくりと成歩堂の唇に自分のものを重ねた。
始めは、ただ触れるだけ。それだけで頭の奥が麻痺したように痺れた。
そこからは、箍が外れてしまったように、ただがむしゃらに彼の温かさを求めた。もっと強く痛いほどに唇を押し付けて、舌を捩じ込む。口内を這い回る舌先が、自分の意志とは関係なしに蠢くのを止められない。
もっと、もっとだ。
熱くなった頭の中でそんなことだけを繰り返している中。
ふと、いつかの彼の台詞が突然浮かび上がって来た。
もうずっと、忘れていたはずの台詞。何気なく交わした会話で、彼が口にしていた。あれは、甘くて良い香りのする飲み物のことだった。
これがないと駄目なんだ。どうしても止められない。
きみにも、いずれ解かるよ。
「……」
どうして、今頃こんなことを思い出したんだろう。
そう思うと、王泥喜は苦い笑みを浮かべたくなった。
でも。
(俺にだって解かりますよ、成歩堂さん)
あなたでないと、駄目だ。一度味わったこの甘さは、もう忘れられない。
手放すことなんて、きっと出来ない。
だから、このままずっと、拒まずにいて下さい。
そんなことを胸中で呟きながら、王泥喜は更に深いキスを続けた。
終