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 成歩堂なんでも事務所に臨時のマネージャーを頼んだ、あの日。
 てっきり来ると思っていた王泥喜の代わりに来たのは、あろうことか成歩堂龍一だった。
 あの後は、空腹の極限状態で部屋の片付けから次の仕事の準備から本当に大変だったのだ。
 そもそも、誰が来るのかちゃんと確認しなかった自分も悪いけれど。
 まさか、あそこまで使えない大人だとは。
 一体彼は……成歩堂龍一は、あの事務所でどんな生活をしているのだろう。
 王泥喜はいびられたりこき使われたりしていないのだろうか。
 会って直接文句を言いたかったのもあるけれど、何となくそれも気になって、響也はその日成歩堂事務所へと足を進めた。

「成歩堂龍一!邪魔するよ」
 裁判のときのように、ダン!と力強く壁を叩いて呼びかけると、ソファに横になっていた成歩堂はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
「あれ……、牙琉検事?どうしたんだい」
「どうしたもこうしたも……」
「……?」
 気だるい表情の彼に眉根を寄せながら、響也は部屋の中央まで足を進めた。
 すぐ側まで来ると、成歩堂は相変わらずゆっくりとした仕草でソファから起き上がった。
「あんた、この前はよくもぼくの楽屋を滅茶苦茶にしてくれたよね」
「何のことだい」
「何って、忘れたとは言わせないよ。この前、代理のマネージャーとして来たじゃないか。尤も、役に立つことは何一つしてないけどね」
 話しているうちにあのときのことを思い出して、響也は少しばかり棘のある言葉を投げ掛けた。
 でも、成歩堂龍一はやっぱり動じることなく、ただふっと口元を緩めて笑った。
「ああ……、必死に頑張ったぼくを、きみが無情にも放り出したことだね」
「人聞きの悪いことを言わないでくれないかな。だいたい、あんたは!」
 そこまで言いかけた直後。ガタン、と音がして、事務所の扉が開いた。
「今戻りました。全く、キャビア弁当なんてどこにも売ってなかったですよ」
 そんな言葉と共に姿を見せたのは、王泥喜法介だ。
 彼の姿と台詞に、響也は何となく成歩堂のここでの生活振りを察した。
「やあ、お帰り、おデコくん」
「牙琉検事?来てたんですか?」
 響也が爽やかな笑顔を作って挨拶をすると、王泥喜は少し意外そうな顔になった。
 それに、きっとすぐ解かる。この事務所に流れているのは、決して円満な空気じゃない。
「どうか、したんですか?」
「まぁ、ちょっとね」
 探るような声を掛ける王泥喜に、響也は誤魔化すように笑顔を浮かべた。
「でも、珍しいですね。検事がここへ来るなんて。一体何の用で……」
「そうだねぇ……、きみには到底想像もつかない用かな……オドロキくん」
「……えっ」
「……?!」
 尋ねかけた王泥喜の声に、成歩堂のそんな台詞が重なって、二人は思わずぎょっとしたような顔になった。
 別に、この台詞を他の誰かが口にしても、きっと……何ともないんだろう。
 ただ、この気だるそうな、意味有り気な微笑みを浮かべた男。怪しい雰囲気を纏った成歩堂が言うと、何だかただならぬことでも話していたように聞こえる。
 案の定。王泥喜は何だか急に居心地の悪そうな顔になって、そそくさと荷物を纏めだした。
「な、何か、俺邪魔みたいですね、ちょっと出て来ます」
「あ、おデコくん、ちょっと!」
 響也の呼び声にも耳を貸さず、王泥喜はそのまま行ってしまった。
 後に残った響也は、何だか軽く頭痛のし始めたこめかみを押さえて、溜息を吐いた。
「あんた、何だい、今のは!」
「え……何が」
「何がって」
「……?」
 こちらを見る成歩堂は、本当にぼうっとしたような、何も考えていないような顔だ。
 本当に、解かっていないのだろうか。
 天然なのか計算なのか。どっちにしても、性質が悪いことに変わりない。
 響也が警戒を強める中、彼は尚も意外な要求を突きつけて来た。
「オドロキくん、お昼買って来てくれるって言ってたのに。持って帰っちゃったみたいだね」
「え……?」
「きみ、責任取ってよ」
「な?なんでぼくが!」
「きみが今この時間にここへ来なければ、オドロキくんは帰らなかったと思うんだけど。それに、ぼくに話があるんだろう?」
 そう言われて、響也はぐっと抗議の言葉を飲み込んだ。先ほどの王泥喜は、手にスーパーか何かの袋を持っていたから、見付からなかったキャビア弁当の代わりに何か買って来ていたのだろう。まぁ、とにかく、彼の言っていることは物凄く理不尽だけど、用があって来たのは事実だ。
「ま、まぁ、そうだね。いいよ、食事くらい奢ろうじゃないか。外食でいいね」
「うん、勿論だよ」
 そんなこんなで、響也は仕方なく成歩堂の要求を飲み、二人は一緒に連れ立って事務所を出た。

「全く、あんたには呆れるよ」
 店に入って好き放題料理を注文し捲くった成歩堂に、響也は溜息混じりに吐き出した。
 運ばれて来た料理に、心なしか目を輝かせている姿も、とても人の親とは思えない感じだし。しかも、料理を頬張りながら顔を上げて、尚も何が何だかと言う顔をしている。
「……?何がだい」
「……。よくもそこまで図々しくなれるねって言ってるんだよ。全く……品性を疑うね」
 心底呆れたようにそう言うと、成歩堂は料理を飲み込んだ後、ぴたりと箸を持つ手を止めた。
「確かに……」
「……ん?」
「確かに、きみの言う通りかもね、牙琉検事」
 しかも、突然俯いて、そんなことを言う。
 意外な言葉に響也が目を見開くと、彼は尚も続けた。
「少し……我侭だったかも知れないよ」
「……?」
 おおよそ彼らしくない、しおらしい言動に、思わずハッとして顔を見返す。
 少しの沈黙の後。
 成歩堂龍一はゆっくりと顔を上げ、物凄く意味有り気な笑みを口元に浮かべた。
「でも……ぼくだって誰にでもそうって訳じゃないよ」
「え……?」
 もったいぶった口調と、気だるげな笑み。
 それに、今の言葉に続く台詞は、まさか。
 いや、彼相手に何を動揺することがあるのか。また、バカなことを言うに決まっている。
 響也はそう思い直して、負けじと余裕に満ちた笑顔を浮かべた。
「どう言う意味かな、成歩堂龍一」
 ファンの女の子がみたら、歓声の一つでも上げそうな笑顔。
 でも、目の前の男は何ら動じることなく、ますます意味有り気に口元を歪めた。
「そうだね……。例えば……きみだから、かな」
「……!」
 思わせぶりな台詞に、相手が成歩堂龍一であると解かっているのに、どきりと鼓動が跳ねた。
 何だ、それは。今のは、どう言う意味だ。
 いや、動揺している場合か。相手は成歩堂だ。
 こんなやる気のない顔で、本当は腹の中で何を企んでいるか。
 いや、そもそも自分は彼に対して少し警戒し過ぎているんじゃないか。
 それは、あのことがあったからか。あんなことなければ、彼なんか……。
 頭の中に、今まであった色々なことが溢れて、響也を困惑させる。
「いやぁ……、古い友人にも検事がいるんだけど、いつも羽振りが良くてね。それにきみはスターだし」
 深々と考え込んでいた響也は、続く成歩堂の言葉など少しも耳に入らなかった。

 それから、何だか微妙な空気が流れたけれど、とにかく食事を終えて、二人は店を出た。
「ご馳走様、牙琉検事」
「いや、いいよ、別にね」
 パーカーのポケットに手を突っ込んで本当に満足そうに告げる成歩堂に、響也は複雑な面持ちで返答を返した。
 結局、まだ言いたいことは言っていない。
 文句の一つや二つも、と思っていたのに。
 それに、さっきのあの言葉は……?深い意味はないとしても、何だか気になる。いや、気に障る。
「あんた……、さっきのは、どう言う……」
 直に問い質そうと、そこまで言い掛けた途端。
 不意に響也の背中に、どさりと凭れかかるように温かいものが触れた。
「……?!」
 背中に圧し掛かる重さと温かさ。何だかぎくりとして、思わず身を硬くする。
 誰かが、響也の背中に身を寄せている。誰かって言っても、自分の後ろにいるのは成歩堂しかいない。
「な、何だい、成歩堂さん?」
「……すまないね、牙琉検事」
「……っ」
 何が、すまないだ。訳が解からない。
 それに、ぎこちないこちらの態度にはお構いなしで、彼は更にぎゅっとしがみ付くように響也の衣服を握り締めた。
 先ほどよりも何だかぎくりとして、慌てて彼を引き離すように振り返る。
「へ、変な真似は止めてくれないかな!」
「あ、ごめん……。でも……、仕方ないんだよ、ちょっと躓い……」
「あんたのその物言いが、ぼくの勘に触るんだよ、本当にね!」
「……!」
 成歩堂の語尾は、張り上げた大声に重なって、響也に聞こえなかった。
 「牙琉検事……」
 代わりに、少し驚いたように呟く成歩堂の姿が目に入って、響也は一気に罪悪感のようなものに駆られてしまった。
 いくら何でも、ちょっと、言い過ぎた。
 でも、彼に素直に謝るのは癪だ。
 相手が王泥喜や、みぬきのような可愛い女の子なら別だけど。本当に、彼だけは響也にとって鬼門と言うか、泣き所と言うか。いや、そんなものじゃなくて、ただ、何だか。
 すっかり当初の目的など忘れて思いを巡らせる響也の背後に、そのとき、再び柔らかい感触がそっと触れた。
「……?!」
(え……)
 先ほどのことがあったせいで、思わずびくりと肩を揺らして動きを止める。
 咄嗟に避けようとしたけれど、何だか上手く行かない。
 どうせまた、成歩堂なのは解かっているのだけど。
 先ほどきつく言い過ぎたと負い目があるからか、避けようとする足に力が入らない。
「な、成歩堂龍一?」
 ぎし、と固まったまま動けず、背後にいるはずの人物の名前を呼ぶと、先ほどよりもぐっと彼は強く響也に身を寄せて来た。
「な、なに……」
「ちょっと、じっとしててくれないかな、牙琉検事」
「……?!」
 そう言いながら、成歩堂の手は背後から響也の胸元と、そして腰の辺りをそっと探るように撫で、それからゆっくりと離れた。
「……っ」
 ぞわ、と走り抜けたのは、悪寒ではなかった。
 でも、それ以上に何がなんだか。訳が解からない。
 今、一体何が起こっているのか。
 何か考えるよりも早く、足が勝手に動き始める。

「財布、入ってないね。ちょっと喉が渇いたんだけど、小銭でいいから持ってないかい?……って、あれ、牙琉検事?」
 そんな成歩堂の台詞を耳にする前に、響也は彼の前から脱兎の如く姿を消していた。