リハーサル




 突然、事務所を訪れた小さな客人に、成歩堂は目を丸くした。
「なるほどくん!」
「え……、は、春美ちゃん?」
 倉院の里に帰っているはずの彼女が、どうしたのだろう。しかもしたたかに和服の袖を捲くり上げて、すっかり臨戦態勢だ。まさか、また何か事件でもあったのか。
「どうしたの、春美ちゃん」
 慌てて駆け寄って尋ねると、春美は息を切らしながら捲くし立てた。どうやら、思い切り走って来たらしい。
「な、なるほどくん!もう少しで、夏です!」
「……?うん、そうだね」
「夏と言えば、お熱いデートの季節!なるほどくんは、真宵さまとどのようなおデートを計画しておられるのですか!」
「……え」
「なるほどくんのことですから、きっと目が眩むほど素敵で溜息が出るほど魅力的な計画を立てておられるのですよね」
「え、え……」
 彼女の口にした内容に、成歩堂はすっかり慌ててしまった。そうか、何か事件があった訳ではなくて、真宵のことだったのか。こんなに慌てて掛け付けるなんて。余程、子供には刺激的なデートの特集でもテレビで観たのだろう。でも、当然だけど、計画なんて何もしてない。
 成歩堂が口籠もっていると、生き生きと輝いていた春美の目は、みるみる不穏な色を湛え始めた。
「ま、まさか、なるほどくん。何も、何も計画されていらっしゃらないのですか」
「え、いや……、その……」
「されていないのですね!あんまりです!」
 そこで、右の頬にパァンと強烈な痛みが走った。やっぱり、こう来ると思った。このままでは、確実に左の頬も叩かれてしまう。その前にと、成歩堂は痛みを堪えて慌てて声を上げた。
「ご、ごめんね、春美ちゃん!今からすぐ計画立てるから」
 変な言い訳は逆効果だと知っている。案の定、潔い成歩堂の言葉に、春美はホッとしたように笑顔を浮かべた。
「良かったです。わたくし、安心致しました。流石です、なるほどくん」
「う、うん……、ありがと」
「では!わたくしと、早速予行演習を致しましょう」
「え……、春美ちゃんと?」
 意外な申し出に目を見開くと、春美はやけに張り切った様子で、ぐい、と和服の袖をますます捲り上げた。
「勿論ですとも!大切な大切なお二人の日に、失敗があってはいけません。わたくし、不束者ながら協力致します!」
「春美ちゃん……」
(……参ったな)
 こうなったら、きっと何を言っても諦めないに違いない。とことん付き合ってあげるか。幸い、今日はお客はいないし。
「じゃあ、よろしくね、春美ちゃん」
「はい。なるほどくん」
 成歩堂が差し出した手を遠慮がちに取って、春美はポッと頬をピンクに染めた。

 結局、彼女の申し出で、遊園地に行くことになった。
 いつも行っている何の変哲もない場所だけど、きっと春美は一生懸命考えたのだろう。そう思うと、微笑ましい。チケットを二枚買って手を繋いで入園すると、春美の目はこれ以上ないほどきらきらと輝きだした。
「わたくし、遊園地は、久し振りです」
「うん。倉院の里には、こう言うのないもんね」
「はい、残念です」
「いつでも連れて来てあげるよ、春美ちゃん」
「あ、ありがとうございます、なるほどくん」
 そんな会話を交わしながら、春美の要望でありとあらゆるアトラクションに乗った。観覧車とジェットコースターに乗るときだけは怯えて躊躇したけれど、春美に頬をぶたれて渋々乗った。顔はすっかりミドリ色を通り越してビリジアンになってしまったけれど、本当に嬉しそうな彼女を見ていると、何となく仕方ないなと思えた。

 昼食を取って又園内を回っていると、もう既に夕方近くになっていた。夕方にはイベントがあるだとかで、いつの間にか周りは人ごみだらけだ。
「春美ちゃん、はぐれないでね」
「は、はい、なるほどくん」
 そう言って、春美は必死に成歩堂の後を着いて来たけれど、流石に辛そうだ。そう言えば、朝も走って事務所まで来ていたし、もう疲れがピークなのかも知れない。少し考えて、成歩堂はひょい、と春美を腕の中に抱え上げた。
「な、な、なるほどくん?!」
 驚いて大きな目を瞬かせる春美に、成歩堂は笑みを浮かべてみせた。
「春美ちゃん、疲れたよね?こうしてていいよ」
「で、ですが、こんな、恐れ多い……」
「大丈夫だよ、春美ちゃん軽いから」
「あ、ありがとうございます、なるほどくん」
 やたらとかしこまる春美に何だか可笑しくなって、成歩堂は声を上げて笑ってしまった。
 やっぱりかなり疲れていたのか、抱え上げた春美はホッとしているように見える。
「あの、なるほどくん」
「何?春美ちゃん」
「わたくしも、大きくなったらなるほどくんをおんぶして差し上げますね」
「い、いや、うーん、そ、それは……」
「もしかして、お姫様抱っこの方がよろしいでしょうか」
「い、いえ!おんぶで!おんぶでお願いします」
「ふふ、奥ゆかしいのですね、なるほどくん」
 どうも噛み合わない会話の後、二人は遊園地を出た。

 とにかく、これで春美の気も済んだだろう。そろそろ帰ろうかと、成歩堂がぼんやりと時計を見ていると、春美はとんでもないことを言い出した。
「では、なるほどくん、そろそろ、最後のイベントを!」
「え、最後って?」
 きょとんとした顔で返すと、彼女の頬はポッとピンクになった。
何だか、嫌な予感がする。そして、それは予感だけではなかった。
「おデートの最後にして最高のイベントと言えば、勿論、口付けに決まっています!」
「え、ええっ?!」
「さぁ、遠慮なく!」
 真剣そのものと言った顔の春美にずいっと迫られて、成歩堂は慌てて二、三歩ずり下がってしまった。
 何てことを言い出すのだ、この子は!
「で、でも、春美ちゃん、キスなんてしたことないよね」
「ええ、勿論ですとも、ですが、わたくし、なるほどくんと真宵さまの為でしたら!!」
「は、春美ちゃん」
「さぁ、なるほどくん!」
 思い込みもここまで来ると、何と言っていいか。成歩堂は頭を抱えたけれど、すぐに春美の目線まで腰を落として、真っ直ぐに顔を覗き込んだ。
「あのね、春美ちゃん。そう言うことは言っちゃ駄目だよ」
「な、なるほどくん……わたくしでは、不満なのでしょうか」
 がくりと肩を落とす春美に慌てて首を横に振る。
「そうじゃないよ。ただね……」
「はい」
「こう言うことは、もっと大きくなって、自分が一番好きな人にして貰うんだよ」
「で、ですが、わたくし……」
「真宵ちゃんだって、春美ちゃんにそうして欲しいと思ってるよ」
「な、なるほどくん……」
 真宵の名前を出すと、春美には効果覿面だ。俯いて、暫くは何事か考えているようだったけれど、やがてこく、と静かに首を縦に振った。
「解かりました、なるほどくん。では、ぶっつけ本番で頑張って下さい!」
「う、うん、解かったよ」
 取り敢えずはホッとして、成歩堂は溜息を吐いた。

 それから、今度こそ事務所へと帰ろうと、二人で手を繋いで歩き出した。
 その途中。
「なるほどくん。わたくし……、なるほどくんでしたら……」
「うん?何、春美ちゃん」
「いえ、何でも……ありません」
 ふい、と顔を逸らして、ポッと頬を染めた春美が何を言いたかったのかは、解からない。
 けれど、何だかんだと楽しい一日だったと、成歩堂は改めて思い直した。