requiem
空から引っ切り無しに落ちてくる雨粒が、バラバラなリズムで地面を叩いている。デスクに頬杖を突いていつの間にかその音に聞き入っていた成歩堂は、何とはなしに視線を窓の外に移した。
こんな日は、いつも作業に身が入らない。形だけでも握り締めたペンは先ほどから手の中で遊んでいる。雨の音だけが鼓膜を揺らして、それ以外は何も聞こえない。
けれど、やがて、雨音に混じって小さな旋律が聞こえて来た。昔聞いた子守唄のように懐かしく感じる。それが煩い雨の音と一緒に耳の奥で木霊している。聞こえるのはほんの一小節か二小節。しかも、その音はやがて小さく遠くなって行く。
その音を脳内で繰り返し聴きながら、成歩堂はふと思った。
これは、音じゃない。誰かの歌だ。あのときも、こんな風に雨が激しく降っていた。
瞼の裏に、白い傘を頭上に翳した、白く細い腕が浮んだ。背中を向けて去って行く後姿。揺れる赤みがかった長い髪の毛。
(美柳ちなみさん)
浮かび上がる名前は、まだ声に出すのも憚られる。胸中で呟くだけで、胸にちくりと痛みが走った。
目を凝らすと、側に男が倒れていた。赤いジャケットは降り注ぐ雨にすっかり濡れている。かわいそうに、きっと、寒いだろう。そんなことを考えて、すぐに頭を打ち振った。
しっかりしろ。彼はもう……、息をしていない。
そこで、再び同じ歌声が聞こえた。
(そうか……。これはきみだ、ちなみさん)
あのとき、彼女は確かに小さなメロディを口にしていた。
―私のこと、絶対に証言しないで。
そう告げ、成歩堂に背を向けた彼女の声が、雨に混じって耳元を掠めた。気のせいだとは思わなかった。小さな鳥の囀りのような……なんて表現したら、笑われるだろうか。あんな状況で、酷く場違いなのに、あの旋律は不思議とすんなりと溶け込んだ。寂しげで暗いのに、どこか清らかな音だ。
あれは、何だったんだろう。
「なるほどくん、手が止まってるわよ」
「……!」
そこで、一気に現実に引き戻されて、成歩堂はハッとした。視線を上げると、腕組みをした千尋が厳しい顔でこちらを見ていた。
「すみません、千尋さん」
すぐに素直に謝ると、彼女の表情は緩んだけれど、代わりに何とも言えないような光が目に浮んだ。聡明な彼女のことだ、もしかしたら、気付いているのかも知れない。
成歩堂が雨の度にこうして意識を遠くへ飛ばしてしまうこと。そんなとき、彼女はいつも憐れむように成歩堂を見詰める。辛いのは解かるわ。でも、早く忘れてしまいなさい。今にもそう言う彼女の声が聞こえて来そうだ。
でも、そうじゃない。思い巡らしていた内容を悟られたら、彼女は怒り出すかも知れない。
美柳ちなみ。
ぼくを殺そうとしたきみの白い指先が、雨に濡れた綺麗な赤い唇が、泣きそうに潤んでいた大きな目が、脳裏に焼き付いて離れないんだと。そんなことを言ったら怒られてしまいそうで、成歩堂はいつも口を閉ざして、微笑んでみせる。
「もう大丈夫ですよ、千尋さん」
そう言えば、彼女はそれ以上何も追求して来なかった。
その日は珍しく、雨が止んだ後もあの歌が頭から離れなかった。
帰り支度をしながら、何とはなしに口ずさんでいると、ふと、千尋がこちらを見て意外そうに目を見開いた。
「どうしたの、なるほどくん。そんな歌、歌って」
「……え」
尋ねられた成歩堂の方が目を丸くして、千尋に逆に聞き返した。
「知ってるんですか、千尋さん、この歌」
「ええ、まぁね……」
そこで、彼女は何故か言い辛そうに言葉を濁した。
「誰か、亡くなったの?」
「え……?」
見当違いな台詞に、一瞬何を言われたのか解からなかった。
でも、すぐに全てが腑に落ちた。同時に、目の前にあのときの光景がまざまざと浮かんで来た。
ああ、そうか。
だからきみは、あんな場面であんな風に歌を歌っていたのか。亡くなった魂を悼む鎮魂歌。倒れていたあの彼に、安らぎが訪れるようにと。直接手を下したきみが、それを願っていたって言うのか。
(お笑いじゃないか、そんなの)
「なるほどくん、どうしたの?」
「何でもないです、すみません。千尋さん」
緩く首を打ち振ると、成歩堂は笑顔を浮かべた。
千尋はやっぱり何か言いたそうにしていたけれど、結局は何も口にしなかった。
あのとき、本当はぼくもきみのその手に掛かって命を落とすはずだった。仮にそうだとしたら。きみは……。
(きみは、ぼくの為にも歌ってくれたのかい)
あの赤い唇を震わせて、気紛れな歌を。あれは、彼女の奥底に残っていた憐憫の情なのか、それとも彼女なりの皮肉なのか。もう、それを確かめる術はない。
でも、もしまた雨が降ったら……。ちなみさん。今度はぼくが、きみの為に歌おう。
終