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 彼、成歩堂に対して最初に抱いた感情は、単純に憧れだった。純粋に、弁護士として。彼の諦めない強さと真っ直ぐな目に惹かれた。
 でも、再会した彼には、以前のような雰囲気は少しもなかった。彼の目に湛えられていた強い意思は鳴りを潜め、代わりにやたらと気だるい目が王泥喜を捉えて、よろしく、とだけ言った。口元に浮かぶ、人を煙に巻くような笑み。
 目にした一瞬、意図せず背筋に痺れが走った。
 その後も、大切に思っていた気持ちを裏切られたり、そんなことなどお構いなしに振り回されたりで、王泥喜の中はいつの間にか成歩堂龍一のことでいっぱいになってしまった。
 やがて、胸に常に吹き荒れている苛立ちやら、それでも懲りずに惹き付けられてしまうのは何故なのか、気付いた。でも、気付いたからと言って、何がどうなる訳でもない。彼は男だし、どちらにしろ、踏み込むことなんて出来なそうな手強い男だ。
 ただ、一つだけ。彼と二人きりになると、王泥喜は妙な感覚に陥ることがあった。自分が意識しているせいなのだろうか。成歩堂が吐息を一つ吐くたび、仄かに誘うような気配が漂う気がする。何と言うか、妙な色気と言うか。
 それを意識するようになってから、そんな状況になると、いつも上手く息が出来なくなった。甘ったるい匂いを嗅ぎ過ぎて鼻腔が麻痺している感覚に似ている。可笑しな話だ。そんなことあるはずないのに。でも、いつも何故か目で追ってしまう。
 彼は気付いているのだろうか。気付いていて、知らないフリをして、笑っているのだろうか。
 未だに、七年間どう言う風に生きて来たのか、ちょっと謎な男。何でこんな人をと思うのに。
 今日も、朝からソファに横になっているその人物を見詰めて、王泥喜は溜息を吐いた。

 それから。あの事件の全てが明らかになって、成歩堂のことが少しは理解出来た気がした。彼は、不正なんてしていなかった。牙琉霧人のことを思うと複雑には違いなかったが、内心とてもホッとしていた。
 そんな頃だった。王泥喜は、人づてに成歩堂龍一の妙な噂を聞いた。正しくは、妙な噂が流れていると知って、事情を知っていそうな響也を問い詰めたのだ。
 物凄い形相で追求されて、響也は言い辛そうに口を開いた。
「……と、言う訳だよ。本当のことは知らないけどね」
 パチンと指を鳴らす響也の顔を、王泥喜は呆然としたまま凝視した。
「どう言う、ことですか。牙琉検事、いくらあなたでも、そんなでたらめ!」
「落ち着きなよ、オデコくん。だから言ったじゃないか、あくまで噂だって」
「……っ」
「あの男には、気を付けた方がいいってことだよ。きみみたいに人がいいと、その内頭からがぶりとやられちゃうよ」
 最後はそんな風にふざけた台詞に摩り替えて、響也は去って行った。
 でも、彼が語った内容は衝撃だった。成歩堂龍一が、あのボルハチで行っていたのは、ポーカーだけじゃない。本当に、“物好き”な客から金を貰って、それ相応の代償を自身の体で払っていたと。
 馬鹿馬鹿しい噂だ。そんなはずない。あの人が、そんなことするはずないじゃないか。
 自身に言い聞かせながらも、ほんの少しだけ、胸の中に暗闇が落ちた。
 胸具合が悪い。酷く気持ち悪い。
 何故かって、自分には、容易に想像することが出来るからだ。彼を組み敷く手。押し倒して、肌の上を卑猥に這い回る舌先。肉を掻き分けて、貫く熱を。 
 でも、それが自分ではなく、他の誰かに置き換えられた途端、酷い吐き気がした。
 ――その内、頭からがぶりとやられちゃうよ。
 響也の言葉が、カッとなったままの頭に木霊した。
 違う、そうじゃない。そんなことない。彼に食い付きたいと、彼を味わいたいと思っているのは、本当はこの自分なのだから。
 そう思って、王泥喜は暗い表情を湛えたまま、きつく唇を噛んだ。

 それから数日が過ぎたけれど、王泥喜の頭の中はそのことでいっぱいだった。
 一度抱いた疑問は簡単には消えなかった。それどころか、忘れようとすればするほど、頭の中に常に浮んで来る。考えないようにしているのに、響也の声が耳から離れない。
 やがて、それは少しずつ大きく膨れ上がって、黙っていることが出来ないほど王泥喜を侵食してしまった。
(こうなったら、もうちゃんと確かめたい)
 暫く悩んだ後、出た結論はそれだった。
 こんなに悶々としているなら、はっきりさせたい。そうして、そんなこと、全て大嘘だったのだと、笑い飛ばしてしまいたい。その為にはどうすればいいだろう。成歩堂に聞けばいいのかも知れないけど、そんなこと出来るはずない。それに、彼が真剣に答えてくれるはずもない。もし誤解だったら、彼を傷付けるだけだ。だったら、誰か、あの頃のことを知っている人物に聞けばいい。響也は、あの様子ではあれ以上のことは何も知らないだろう。
 他に、誰がいるか。思考を巡らせてみると、一人の人物が脳裏に浮かび上がった。
(そうだ、あの人なら)
 胸中で呟くと同時に、王泥喜の足はふらふらと誘われるように薄暗く冷たい空気が漂う場所へと向かっていた。

「お久し振りです、先生……」
 王泥喜の挨拶に、目の前の人物は腕組みをしたまま微笑した。
 正確には、もう彼は弁護士でも王泥喜の先生でもない。でも、他に呼び方が解からなかったし、呼び慣れた名称はすぐには変えられない。それが解かっているのか、相手も特に咎めようとはしなかった。
「どうしたんですか、王泥喜くん」
 静かな落ち着いた声色が聞こえる。その声に、今さらながら足が竦んだ。何となく、足を踏み入れてはいけな場所まで来てしまったように思う。でも、頭がくらくらして、思考が纏まらなかった。
 成歩堂龍一。彼のことを考えると、まともでいられないのはどうしてだろう。今なら、何となく解かる。
(先生も、あの人に狂わされたんじゃないか)
 そんなことを思いながら 王泥喜は低い声を発した。
「あの、俺……、あなたに聞きたいことがあるんです」
「一体何ですか、王泥喜くん」
「……成歩堂さんのことです」
「成歩堂?」
 ぴくりと、霧人の眉が蠢く。けれどそれは一瞬のことで、すぐに彼は動揺を隠す様にそっと眼鏡を片手で直した。
「成歩堂が、なんです」
 急かす霧人の声に、王泥喜は一度深呼吸をしてから思い切って口を開いた。
「あの人は、成歩堂さんは……ボルハチでどんな仕事をしていたんですか?先生なら、ご存知じゃないかと思って……」
「……変なことを聞きますね。きみなら既に知っているはずでしょう」
「ええ……、そう、ですけど……」
 そうに違いはないけれど。聞きたいのは、そんなことではない。
 気が逸り、妙に焦燥を感じる。
 王泥喜の苛立ちを感じ取ったように、霧人は静かな声で続けた。
「まぁ、そうですね。如何わしい噂なら、沢山ありましたよ。例えば、本当に違法な行為で金を稼いでいたとか。イカサマの天才だ、とか。売り物にしていたのは、その腕だけではない、とか」
「……!」
「でも、どれも本当かどうか……私には解かりません」
「……そう、ですか……」
 穏やかな声に、王泥喜は頭を垂れた。
 きっと、彼は本当のことを言っている。何故かそんな確信があった。

 結局、はっきりとした話は聞けなかった。
 胸中に渦巻くもやもやも、一向に晴れない。
 やはり、彼に確かめるしかないのだろうか。彼、成歩堂に。
 でも、そんなこと聞けるはずない。どうしたらいいだろう。
「オドロキくん」
「あ……、成歩堂さん」
 事務所に出勤してまでそんなことを考えていたら、ふと、成歩堂龍一本人からそんな言葉が掛けられた。
 ふ、と綻ぶ口元に、思わずドキっと鼓動が跳ねる。いつからこんな風になったんだろう。前はもっと、ただの憧れで、近付きたいだとか、触れたいだとか、そんなこと思ってもみなかったのに。
「どうしたんだい、ぼうっとして。考え事かな」
「……い、いえ」
「何かあったんなら、言ってみなよ。言うだけなら、ただだし」
 その上、至近距離で見詰められて、思わず頭がぼうっとなってしまった。
 気付いたら、今まで思い巡らしていたことが思わず口を突いて出ていた。
「あ――俺、う、わさを……」
「……噂?」
「……あ!いえっ!」
 成歩堂の聞き返す声に、ハッと我に返った。
 しまった。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
「何だい、それ。ぼくのこと?」
「い、いえ。べ、別に、なんでも……」
 慌てて首を左右に振ると、王泥喜は成歩堂から距離を取るように後ずさった。
 でも、明らかに取り乱してしまった。まずい。可笑しいと思われただろうか。
「ふーん、そう」
 案の定。成歩堂は曖昧な笑みを浮かべたまま、何か言いたそうにこちらを見詰めている。
「……っ」
 ただでさえ彼に見詰められると落ち着かないのだ。王泥喜の額には、あっと言う間に汗が浮き出て来た。
 暫く、じっとこちらを見詰めていた成歩堂は、やがてふっと口元を緩めると、突然王泥喜の腕を掴んだ。
「なっ、何ですか?!」
 焦って引き攣った声を上げると、彼は自分の顔に王泥喜の腕を寄せるように持ち上げた。彼の指先が食い込んだ部分に、力が籠もる。その部分が、やたらと熱い。
 何だろう。どう言うつもりだろう。
 息を飲む王泥喜の耳元に、笑いを含んだような成歩堂の声が聞こえた。
「オドロキくん、きみ、何かいい匂いするね」
「…………え」
「この匂い、知ってるよ。牙琉の匂いだ」
「……!」
 どく、と今までにないほど鼓動が跳ね上がった。何もかも見透かされているような気さえして、心臓の音が不自然に早くなる。彼の笑み。全部解かっているのだと、そう言いたいのだろうか。
「な、成歩堂さん……」
 でも、バレているはずがない。確かに、牙琉霧人はいつも質の良い香りがした。でも、実際に会って来たのはもう数日も前だし、今の霧人はもうそんなものつけていなかった。かまを掛けられているのだ。そう思って、王泥喜は必死に冷静になろうと努めた。
 でも、この男の前で、それは無駄な努力だろう。彼は、あの成歩堂龍一だ。小さな矛盾でも、これ以上ないほど突っ込んで来る、王泥喜の憧れだった人物。
「はっきり言っていいよ。聞いたんじゃないのかい、何か」
「……」
「それで、牙琉に確かめに行ったんじゃないのかい?」
「……っ」
 そこまで言われて、王泥喜は観念したように溜息を吐いた。
「そう、です。牙琉先生に会って来ました」
「うん、それで?噂って、何?」
「そ、それは……」
「……うん?」
「あ、あなたが、その、ボルハチで……」
 そこまで言って、口を噤んだ。こんなこと、これ以上言えない。彼がどんな表情をしているのかも、怖くて見れない。
 王泥喜が言葉を詰まらせると、成歩堂はいとも軽い口調で言い放った。
「ああ……、体でも売ってるんじゃないかとか、そう言うことかな?」
「……!!ど、どうして……!」
「よく言われたよ、それ。まさかきみの耳にまで入るなんてね」
 困ったなぁ、みぬきの耳にも入るかも知れないってことじゃないか。
 暢気にそんなことを呟く目の前の人に、頭がくらくらした。
「成歩堂、さん……」
 そんなことより、真っ先に否定して欲しかった。そう思うのは、当たり前のことじゃないか。それなのに、何をそんな平気そうな顔で、何でもないような声を出しているのだろう。まさか、噂は本当だとでも言うのだろうか。一瞬、自身の考えに目の前が真っ暗になった。
 けれど、続いて聞こえて来た声に、ハッと我に返った。
「……それで、きみは……その噂を信じたんだね」
「……!」
 寂しそうな声だった。顔を俯い、傷付いたとでも言うような。
「そ、そんなことありません!俺は、そんな……」
 解かってたはずだ。
 成歩堂が、そんなことするはずないって。
「俺は、あなたを信じてます」
 ぎゅっと拳を握り締めて、王泥喜はそう言った。
 少なくとも、そのときは心底そう思っていた。少しでも彼を信じる心を曇らせた自分を激しく後悔した。
 でも――。
「……ふーん」
「……」
 と……、彼はまるで何も感じていないように、興味なさげな声を吐き出した。
 ざわ、と胸の内が騒ぐ。何だろう、この感じは。何かが、可笑しいような。
 息を飲む王泥喜の前で、彼は突然こちらを真っ向から見詰め、口元に酷薄な笑みを浮かべた。
「じゃあさ、もしぼくが本当は、そんな人間だったら?」
「……え?」
「金さえ貰えば、誰にでも足を開くようなさ、そんな人間だったら?きみはどうするんだい」
「……?!」
 頭が、真っ白になった。
 こちらを見詰める彼の目に、体中に電気が走ったような感覚が襲った。
 はっきりと解かる。欲情に駆られた二つの目が、誘うように王泥喜を見詰めていた。
 ぞく、と背筋を走る抜ける痺れ。何て顔。何て目だ。色気と言うのもがあるなら、きっと、これがそうだ。
 これが――。
「お、俺は……」
「うん……?」
「俺は、そんなこと……」
 そんなこと、気にしないし、第一、あるはずない。
 あなたは憧れの人で、手が届かないような眩しい人だった。
 今だって、いい加減でだらしなくてどうしようもない大人に見えるけど、根本的にはあのときのままで。そう言いたかったのに、声にならなかった。
 ただ、喉が焼けるように熱くなって、王泥喜は彼に向けて、一歩足を進めた。
 触れてしまったら駄目だ。今彼に手を伸ばしたら、それで終わりだ。解かっていたのに、止まれなかった。
 何だって良かったんだ。彼がそんな男でも、そうじゃなくても、この衝動は止まりようもなかったのだから。
「お、俺は、あなたが好きです。だから、そんなこと関係ない。それだけです」
 そう言って、力を込めて彼の両肩を掴んだ。そのまま勢いに任せてその場に無抵抗な肢体を押し倒し、夢中で唇を押し付けた。温かく柔らかい唇を噛み付くように味わって、何がなんだか解からないまま舌を捩じ込んだ。
 初めて味わった成歩堂の唇は何だか甘くて、この味を他の誰かが知っているのかと思うと、居た堪れなくなった。
 それが余計に劣情を煽って、何かが頭の奥でぶつりと切れたような気がした。

「……うっ」
 小さく上がった声は、擦れていた。
 その呻きが酷く苦しそうで、王泥喜は自分がかなり無茶をしていたことにようやく気付いた。
 でも、止まれない。
 少しでも腰を揺らすと、成歩堂が堪らないように身じろいで、ぎゅっと内壁が縮こまった。ひく、と震える喉元に噛み付いて、痕が残りそうなほど力を込めた。
「……っ、ぅ」
 ぎゅっと閉じていた目が薄っすらと見開き、こちらを見詰めるだけで頭の奥が真っ白になる。
「成歩堂さん――、成歩堂さん」
 夢中になって行為に及ぶ中、そうやって何度も彼の名前を繰り返した。他の言葉なんて忘れてしまったように、何度もだ。
 成歩堂は、合間に何か言おうとしているように見えた。王泥喜の名前を呼んでいたのか、もう止めろと咎めていたのか、解からない。解からないけど、もうどうなってもいい。こうやって腕に抱いているのが成歩堂であることだけが、何より大事なことだと思えた。


「ところでさ、信じてるって、本当に?」
「え、あ――」
 その後。不意に上がった声に、王泥喜はハッとしたように顔を上げた。
 無茶苦茶だと思える行為を、成歩堂は一言も責めなかった。誘ったのは自分なのだと、自虐的な台詞を吐かれて、思わず息を飲んでしまった。それだけじゃないと伝えようとしたけれど、どう言えば良いか解からなくて言葉に詰まっていると、彼はそんなことを尋ねて来た。
「さっき言ったじゃないか、ぼくのこと信じてるって、さ」
 何を考えているのか読めない、意味有り気な笑み。素直に頷きたいのに、そうさせない雰囲気がある。
 けれど、ちゃんと伝えなければ。彼を抱いたのは、そんな噂やら何やらに振り回されてのことじゃない。振り回されたのは確かかも知れないけれど、関係ない。もしからかわれたとしても、それでいい。
 半ば自棄になりつつも、王泥喜はぎゅっと拳を握り締めて口を開いた。
「は、はい。きっと、成歩堂さんは……好きじゃなきゃ、こう言うことまで許さないと思ってます」
「好き……?ぼくがきみを?」
「そ、そう……です」
「……ふーん、随分自信あるんだね」
「……っ、そうだったらいいなと、思いたいです」
 耳が赤く染まるのを感じながらも、目を逸らさずに言い放つと、ふと、彼は眩しいものでも見るように目を細めた。合わせていた視線をぎこちなく外し、顔を伏せる。
「成歩堂さん?」
 いつもと違う様子に驚きながら、顔を覗き込んで名前を呼ぶと、彼は顔を逸らしたままで、ぽつりと独り言のように呟いた。
「ありがと、オドロキくん」
「……!」
 突然の言葉に、どく、と鼓動が不自然に跳ね上がった。
 でも、瞬きをするほんの僅かな間に、彼はもういつも通りの気だるい表情に戻っていた。
 今、確かに彼の本音を聞いたような気がしたのに。
(……成歩堂さん)
 でも、今はその言葉だけで十分だ。受け入れて貰っただけでも、夢のようだと言うのに。
 そう思うと、それ以上は何も言えなくなってしまった。
 だから、言葉を発する代わりにおずおずと身を寄せて、王泥喜は自分よりも背丈のある彼の肢体に、そっと腕を回した。