スカーレット




「お前には関係のないことです、あまり首を突っ込むものではない」
 そう冷たく言い放つ兄に、響也は唇を噛み締めたくなった。
 関係ないなんて、そんな訳ない。今まで交わしていた話題は、あの男、成歩堂龍一のことだから。彼と兄が親しくしていると言う事実に耐え切れなくなって、探りを入れたのに、返って来た答えはこれだった。

――成歩堂龍一。
 彼の名前を呟くと、響也の胸に浮かび上がって来るのは二つの情景だ。裁判所で、憎たらしいほどに堂々としていた立ち姿と、胸を焼くような扇情的な光景。
 でも、後者は、もう、全て消し去ってしまいたいほどの苦い後悔と、追い掛けたくて堪らない衝動を必死の思いで堪える辛さも伴っている。
 何だってあんなことになったんだ。目の前にちらつく残像を追い払って、響也は兄の前を去った。

 らしくない。こんなに苛々しているなんて。本当に、あの男が係わると、響也は自分を見失ってしまう。
 七年前。捕まえた腕は別段細くもなくか弱くもなく、喰らい尽くすように触れた喉元だって、どこからどう見ても華奢でもなんでもない。ただ、首筋に顔を埋めたとき、彼の肢体を掻き抱いたとき、どこか日向のような、そんな匂いがしたのだけは覚えている。
 甘ったるい声なんて一度も上がらなかったけど、それでも、堪え切れずに漏れた掠れた声は、響也の聴覚を刺激した。嵐みたいな無茶苦茶な行為だった。
 だから、忘れられない。何度も忘れてしまおうとしたのに。もう七年も前のことだ。いくらなんでも、時効だろうに。
(頼むから、忘れさせて欲しいよ)
 そう願って、彼を思い出させるものを遠ざけた。華やかなスターの世界だけに身を投じて、あの法廷であった出来事も、検事牙琉響也の名前も、世間が忘れてしまうほど。
 でも。駄目だ。
 あの自分を見詰めていた涙に潤んだ黒い目が、いつまでも響也を責め立てているようで、いくら頭を振っても出て行かない。
 無理矢理だった訳じゃない。でも、完全に合意だったかと言われれば、それも怪しい。きっかけを作ったのはどちらとも言えない。でも、あの男に隙があったからいけない。隙があったからって、あんな凡庸で面白味のない、暑苦しいだけが取り柄の男を組み敷こうなんて自分も、相当酔狂だけど。
 あのときは、やり切れない思いが渦巻いていて、どうして良いか解からなかった。言い訳するつもりはないけど、まだ十七歳だった。兄のように冷静な対応なんて出来ない、未成熟な感情を持て余していた。そんな自分にとって、あの裁判は深い傷になった。あの感情を癒してくれるのは、時間だけだった。
 それから、元凶である、あの男の存在。
 だから、あの行為は八つ当たりに近い。むしゃくしゃしていたし、傷付いていた。そんな自分の前に、彼はのこのこと現われた。捕まえて組み敷いたのに、抵抗らしい抵抗はしなかった。止めてくれ――と、弱々しい声で告げられた拒絶は、一度きり。無視して進めると、もうそんな言葉も上がらなくなって、喉だけがひくひくと震えていた。そして、何か言いたげに見えた双眸が、無言のまま響也を見上げていた。
 ただ、あの苦い気持ちを忘れたかっただけなのに。どうしてあんなことになったんだろう。
 そんな後悔と共に、響也はいつももう一つの強烈な愉悦に支配される。
 もう一度。もう一度だけ彼をああやって自分の下に組み敷いたら。そんなことが出来たらと、そのときの恍惚を思い巡らすと、喉が渇いて目の奥が熱くなる。強烈な感情に、眩暈すらしてしまう。
 そんな危険な思いを、いつも寸でのところで押し殺して来たのに。
 もう、限界だ。兄が、あの男に接触していることと、彼に纏わり付く黒い噂が、響也の衝動に追い討ちを掛けた。成歩堂龍一が、あの地下室で何をしているのか。いつしか、流れ出した噂は響也の耳にも届いた。ただの噂ならそれでいい。けれど、その内容は衝撃だった。あの如何わしい暗い部屋で、彼は自分自身を商品にしていると。信じられない、そんなこと。あってはいけない。
 でも……もし。もし、それが本当だったら。
 それなら、いっそのこと。
 そんな薄暗い思いが自分の中に浮かんで来る。それを可笑しいと思う冷静な自分も、頭の中にちゃんと存在しているのに。
 でも、響也の足はもう止まらなかった。



「久し振りだね、牙琉検事。あまり変わってないなぁ」
 響也の姿を見て、すっかり豹変した成歩堂龍一は、そう告げた。兄の話や、周りの人間から入って来る噂で、彼が七年前の面影を無くしてしまったことは知っていた。
「まぁ、ここに来たってことは、きみもゲームがしたいんだよね?お客さんなら、ちゃんとお金を払ってね」
 そう言われて眉根を寄せる。ゲームなんて、下らないことをしに来た訳じゃない。そんな白々しい遠回しな台詞はいらない。自分はただ、欲しいものを手に入れに来たのだ。
「じゃあ、あんたを買うには、いくら払えばいい?」
「………」
「ねぇ、成歩堂さん」
 顔色一つ変えず、響也はそんな台詞を言ってのけた。

「驚いたね、きみも、そんなことを言うなんて」
 本当に驚いたように、暫くの間放心していた成歩堂は、我に返るとそんなことを言い出した。
(きみもっ、て……)
 聞き流せば良いその台詞に、敢えて食い付くように、響也は一歩足を進めた。
「あんたは、ここでそんな商売をしてるって言うのかい」
「誤解しないでよ、そんなことを言うヤツもいたなって話だよ」
 はは、と何が可笑しいのか、成歩堂はそのときのことを思い出したように、声を上げて笑った。
 その様子に、どく、と胸の奥で心臓の音が大きく鳴る。急に頭に血が昇って、鼓動が不自然に早くなった。知らず握り締めていた拳に、響也は爪が食い込むほど強く力を込めた。
「そいつと……寝たのかい、あんた」
 明け透けな言葉に、成歩堂がすぅっと目を細める。
「随分、野暮なことを聞くんだね……」
「どうなんだい、成歩堂さん」
 軽口を叩いてやり過ごすのを許さず、響也は正面から成歩堂を見据えた。
 別に、彼がこの七年間誰と何をしていようが、どんな男と寝ようが、自分に責める権利なんて一つもない。そんなことは、嫌というほど解かっている。
 でも、七年前、この男と……彼との間にあったことを思うと、どうしても響也には理解出来なかった。
「答えてくれないかな、成歩堂さん」
「……寝たって、言ったら?」
「……っ!!あんたは……っ!」
 返された挑発めいた声に逆上して、響也は勢い良く成歩堂の肩を掴んで、側にあったテーブルに押し付けた。
「……い、っ」
 ダン!と言う音と共に、成歩堂が衝撃に顔を顰める。それにはお構いなく、響也は押し殺した声を上げた。
「何で……だい?何でそんな、バカげた真似をするんだ……!」
 苛立ちながらも、必死な問い掛けが上がった。本当にらしくない、喉の奥から振り絞るような声だった。
 けれど、乱れた襟元を大袈裟な仕草で整えた成歩堂は、少しも取り乱している様子などない。発した声も、あくまで穏やかで、どこか揶揄するような軽い調子のものだった。
「バカげた、ねぇ……。そんなものじゃないよ、牙琉検事」
「……?」
「現にきみは、七年前、その行為で少しは救われたんじゃないかい?」
「……っ!」
 彼の台詞に、響也の体は凍り付いた。
 頭に昇っていた血が一気に下がって、冷たい汗が噴き出す。
 きみだって、その手でぼくを組み敷いて、強引に行為に及んだではないか。どうしてきみに、その行為を責める資格があるのか。
 気だるげで物言わないその目が、強烈に自分を責め立てているように思えて、響也は堪らなくなった。
「やっぱり……ぼくのせいかい、成歩堂さん」
 成歩堂の衣服を掴んでいた指先から、ゆっくりと力が抜ける。こちらの意図することが理解出来なかったのか。成歩堂の目には怪訝な色が浮かび上がったけれど、それには気付かずに言葉を続けた。
「ずっと忘れたいと思っていたけど、ぼくは、七年前のことを忘れたことはないよ」
「……」
「あんたは、ぼくが憎いんだろう?あんな事件の後、あんたを更に追い込んだぼくが。あのときのことが許せないから、だから今も、こんなことを……」
 胸の中の燻りを少しずつ吐き出しながら、響也はずるりと崩れ落ちるように成歩堂の肩口に顔を埋めた。彼は、抵抗する素振りなど見せず、ただ黙って響也のしたいようにさせていた。
 あの頃と変わらない、華奢でもなんでもない彼の体。けれど、陽の匂いがしたあの頃と違って、彼からは仄かに甘いような、誘うような匂いがした。

 そのまま、どのくらい沈黙が続いたんだろう。
 やがて、成歩堂はゆっくりとその手を上げ、響也の頭を背後から手の平で抱え込んだ。
「馬鹿だね、牙琉検事。それは違うよ」
「……?」
 囁くような穏やかな声に反応して、響也は彼の肩口から顔を上げた。
 視線を合わせた成歩堂の表情からは、何を考えているのか読み取れない。でも、いつになく優しく、親しみに溢れているように見えた。
「今、ぼくがこんな生活をしているのは、きみには関係ない」
「……」
「第一、体なんて売ってないよ。ぼくに断られた誰かが、腹いせにそんな噂を流したんじゃないかな」
「……成歩堂さん」
 あからさまにホッとした表情を浮かべた響也に、成歩堂はふっと口元を綻ばせた。
「それに……」
 そこで一端言葉を止めた成歩堂に、響也は息を詰めた。続く言葉を待つと、自然と喉元が上下する。彼がゆっくりと再び口を開くのを、響也はじっと見詰めた。
「ぼくは今でも、きみのことなら、受け入れてもいいと思ってるよ」
「…………え?」
 意外な台詞に、一瞬惚けたように目を見開いた。
 告げられた台詞を反芻してみると、今度は頭の奥が熱くなった。
 今、彼は何と言ったのか。考えるまでもない。甘い誘惑のような誘い文句だ。本気で言っているのだろうか。
 もう一度、喉がごくりと音を立てて上下した。
 本気か、冗談か。でも、彼の真意を確かめる前に、響也の中で何かが音を立てて切れてしまった。

「……成歩堂さん」
 ゆっくりと、触れてもいいのか戸惑いながら、響也はそっと成歩堂の顎を捉えた。指先に力を込めると、しっかりとした手ごたえがあった。今触れているのは、紛れもない、成歩堂龍一だ。
 正面から覗き込んだ彼の双眸は、どこまでも曖昧で気だるげなのに、その奥に強い意思を秘めていることは、知っている。こちらを見詰める双眸に吸い込まれるように顔を寄せ、響也は彼の唇を塞いだ。少しだけ触れると、あとは理性の糸がぶつりと切れたように、深く強く味わった。成歩堂の体を抱き抱えたまま、古臭いテーブルの上に倒れ込んで、寝転んだまま唇を貪り合った。早急な手つきでパーカーの前を割り、シャツを捲り上げると、隙間から覗いた肌に目の前が真っ赤になるような気すらした。
「んっ……」
 小さく漏れる声に、渇欲がどっと溢れ出る。七年ぶりだ、無理もない。
「成歩堂さん……」
 呼び掛けて、もう一度深く口付けをする。暫く繰り返していると、やがて彼の舌が応えるように絡み出した。夢中で衣服の中に手を差し入れ、直接彼の肌の上をなぞる。本当に久し振りに触れる体は、あの頃と少しも変わらない。無骨な男の体なのに、何故か逆らい難い不思議な魅力があった。
「……っ、牙琉、検事」
 不意に、吐息のような声が彼から上がった。今まで一度も聞いたことのない、甘さを含んだ声色に、背筋に痺れが走った。その途端、もう何も考えられなくなって、響也は彼の中に深く身を沈めた。
「……く、っ」
 掠れた声が上がって、彼の喉が背後に仰け反る。そこに唇を寄せ、軽く歯を立てて吸い付きながら、響也は夢中で彼の中を突き上げた。
 先ほど彼も言っていたけれど、こうしてみて、実感した。他の誰かが抱いたなんて、あり得ない。この肢体は今でも響也だけを待ち望んで、自分だけを受け入れてくれているように思えた。



「だいたい、きみは酷いよ、酷いヤツだ」
 長い時間の後。
 不貞腐れたようにそんなことを言い出した成歩堂に、響也は気まずそうに視線を向けた。
「そんなことは解かってるよ、でも、今日のことは……」
 今日のことは、ちゃんと合意じゃないか。そう言おうとした言葉が、拗ねた声に重なった。
「そうじゃなくてさ……」
「……?」
「ぼくが、どれだけきみが来るのを待ってたと思ってるんだい?」
「……え?」
「あの先生は何度も来てくれたのに、きみはいつまで経っても顔を出さない。だからさ、すっかり忘れられてると思ったよ」
「な、何を……」
 何を言ってるのだ、彼は。
 まさか、この七年間、彼は響也が現れるのをずっと待っていたとでも言うのか。
 呆気に取られたまま目を見開いていると、彼は視線から逃れるようにふいっと顔を逸らしてしまった。その様子に、慌てて言い訳めいた声を上げる。
「そ、それは、あんたに合わす顔がなかったからだよ。別に、忘れてた訳じゃ……」
「ふーん、まぁ、いいよ。信じてあげるね」
「……」
 言葉通り、本当に信じてくれたのかは解からないけれど、成歩堂はずれたニット帽を直しながら、意味有り気な笑みを浮かべてみせた。

 本当に、何だったんだろう、一体。彼の言うことが本当なら、何て遠回りしたんだ。さっさとここを訪れていれば、こんなに思い悩むことなんてなかったのか。馬鹿馬鹿しい。
 それに、言いたいことはもっと沢山ある。七年前のことだって、きちんとさせたいし、無体を強いたことは謝りたい。そして、兄と懇意にしていることの意味とか。
 でも、何を言っても場違いな気がして、響也は口を開くことが出来なかった。
 その代わり。未だに誘うような色を浮かべた目をこちらに向ける成歩堂の顎を捉え、再びゆっくりと唇を寄せた。