テンペスト




 週刊誌に自分の名前が出るようになって、少し経った。
 ただし、載るのは良くない記事ばかりだ。と言っても、根も葉もないことばかりだ。全て噂に過ぎない。
 昔の知り合いは、あれに目を通しているだろうか。勿論、あんな記事、自分は気にしていない。何をどう言われようと、正しいと思う信念に基づいて検事としての役目を果たして来た。
 だから、胸を張っていればいい。迷いはなかった。
 あの手紙が、届くまでは。

 ある日、御剣の元に一通の手紙が届いた。その手紙の差出人を見た途端、御剣は眉根を寄せた。
 もう、何年前になるだろう。今でもはっきりと覚えている。
 それに、もしかしたら、この人物なら、いつかこうして連絡をして来るのではないか。そうも思っていた。ただ、考えないようにしていただけだ。
 次々と呼び起こされる記憶を封じる為に、御剣は無表情を作り、無言のまま手紙を破り捨てた。
 けれど、それは一通に留まらなかった。
 幾度も幾度も。その手紙の主は御剣に手紙を送り続けた。
 届いた手紙を破り捨てる度、後ろ暗い罪悪感が御剣を襲った。だが、幾度も繰り返している内に、やがてそれも薄れ、冷たい感情だけが胸を支配しつつあった。

 そんなときだった。
 何通手紙を送っても返事をしない自分に業を煮やしたのか。その相手が、自分の元を直に尋ねて来たのは。
「御剣!」
「……!」
 マンションの前でそう叫び声を上げる男に、御剣は息を飲んだ。
 初めて見る男のはずなのに、良く見知った人物の面影がはっきりと残っていた。ぎざぎざの髪の毛。真っ直ぐな黒い目。彼の顔と、手紙の差出人名がだぶる。この男が誰なのか、御剣にはすぐに解かった。
 彼は、表情一つ変えない御剣の顔を見て不安そうに視線を揺らした。こちらに近付こうとするのを無視してそのまま足を進めると、彼は慌てて追い縋るように声を上げた。
「待てよ、御剣!ぼくだよ、成歩堂だ!」
「悪いが、何のことだろうか」
「……!」
 成歩堂と名乗った男は、冷酷な台詞に息を飲んだ。
 ぐっと黙り込んだ彼を、御剣は冷ややかな視線で見詰めた。
「そんな男もいたかも知れないが、私には関係ない」
「……」
「迷惑なのだよ、成歩堂とやら。もう二度と、ここへは来ないことだ」
「御剣……」
 成歩堂の顔が、絶望に歪んだ。まるで、以前夢を打ち砕かれた自分のように。彼の足元ががらがらと音を立てて崩れたような気がした。
 その様子に、僅かに胸の奥が痛みを訴えた。
 でも、あの男は自分の触れたくないものを嫌でも引き摺りだしてしまう。だから、もう関わる訳には行かないのだ。
 そう自分に言い聞かせ、御剣はもう彼を振り返ることなく足を進めた。

 それから、数日経った。
 あれから、成歩堂は一度も御剣の前に姿を現さなかった。もう、彼の存在に煩わされることがないのだと思うと、心底ホッとしていた。
 けれど、それも束の間のことだった。
 数ヵ月後。
 相変わらず、彼は自分の前に姿を現してはいない。ただ、その代わり、噂を聞いた。一番、耳にしたくなかった噂だ。
 あの男が、弁護士を目指していると言う。
 何を、馬鹿げたことを。そう思う自分と、彼ならやりかねない、そんな風に絶望的な気持ちになる自分を感じた。
 このままではいけない。再び自分の足元が崩れ落ちることなど、あってはならないのに。成歩堂の存在が、御剣をぐらつかせる。あの忌まわしい出来事が……。手の平に残った冷たい物体の感触が、息苦しさと不安でいっぱいの数時間の記憶が、蘇って来る。確固たる意志で立っているはずの足元が、瞬く間に脆くなってしまう。
 薄暗い感情が、胸の奥に込み上げた。自分に付き纏っている黒い噂。それに相応しい、後ろ暗い感情だ。
 それに突き動かされるまま、御剣は部屋を飛び出していた。
 足が、以前目にした住所に勝手に進む。手紙の裏に書かれていた住所。何度も何度も目にしている内に、脳裏に焼き付いてしまった。
 その文字と同じように、どうあっても頭の中から消せない存在なら、いっそ壊してしまえ。胸の中には、そんな嵐が吹き荒れていた。

 辿り着いた部屋のチャイムを夢中で鳴らすと、現れた成歩堂は驚いたように目を見開いた。
「御剣?」
 自分の名前の形に唇を動かした後、彼の顔には喜びに似た光が浮かんだ。自分がここへやって来たことを、暢気に喜んでいるのだろう。相変わらず、暢気で無防備な男だ。
「どうしたんだ、急に。でも、嬉しいよ」
 緊張感のない台詞を吐く男の腕を、次の瞬間、御剣は勢い良く捕まえていた。そこに、ぎり、と痛いほど力を込めると、成歩堂が息を飲む音がした。
「御剣?」
 ようやく、不穏な空気を感じたのだろう。探るような声が、成歩堂から上がった。一言も発しない御剣のことも、不安になったのだろう。
 今更、遅い。きみが、望んだことだ。
 きみが、いけない。
 自身に言い訳するように胸中でそう囁き、御剣は成歩堂の体を押し込むように扉の奥へ足を踏み入れた。そのまま壁に押し付け、ぐっと肢体を寄せると、彼の動揺が痛いほど伝わって来た。
「御剣?」
 幾度目になるか。不安気な呼び声を無視し、御剣は彼の襟元に手を伸ばし、そこを思い切り左右に割った。ビリ、と悲鳴のような音が上がり、白いシャツが裂ける。薄暗い明かりの中、肌が露に浮かび上がると、彼は怯えたように身を捩った。
「な、何、す……」
「……動くな、成歩堂」
「……!」
 耳元で低い囁きを落とすと、彼の顔はみるみるうちに青褪めた。
 無防備な首筋にそっと顔を寄せると、子供の頃のように日の匂いがした。あの頃の、無邪気な笑い声が頭の中に響いた。夢に溢れていたあの頃の自分と彼の、笑い声。
 御剣――と親しみの籠もった声で呼ぶ明るい声が、耳元に聞こえたような気がした。
 眩暈がした。今自分がしようとしていることがどれだけ恐ろしいか、御剣には解かっていた。
 でも、止める訳には行かない。
「動かないでくれ」
 きみを壊してしまう為に、ここへ来たのだから。
 そう告げたいのに、言葉にならなかった。ただ、もがく体を押さえ込むと、御剣は低い声を発した。
「きみは、私を救ってくれるのではないのか」
「……!」
「成歩堂、龍一」
「……っ」
 言い終えると同時に、成歩堂の抵抗はぴたりと止んだ。
 言おうとしていた言葉とは、全く違う台詞が勝手に出て来た。
 それこそが、自身の本音なのだと気付きたくなくて、御剣は夢中で温かい体を抱き締めた。

 喉元に唇を押し付けると、そこが震えるようにひくりと蠢いた。急所を曝け出していることに、本能的に恐怖を感じているのかも知れない。軽く歯を立てると、無意識に逃れるように上体が揺れる。咄嗟に逃さないように柔らかい肌に更に圧力を加えると、小さく喉が鳴った。
「御剣……」
 微かな声が、情に訴えるように上がる。そんな、憐れみを請うような動きを見せても無駄なことなのに。
「成歩堂、頼むから……」
 頼むから、きみはこれ以上、私の周りに現れてくれるな。
 それでも。
 どこまでも自分を追い掛けて来るというなら、そのときは完全に立ち直れないように落としてやろう。そうすれば。もう、心を掻き乱されることはない。きっと、そうだ。
 ああ、自分は自覚しているのだ。彼ならきっと、自分を追い掛けて、いつかは法廷にすら姿を現すだろう。それを信じて、それに恐怖している。
 本当は、どちらなのだろう。彼に追い掛けて来て欲しいのか、そっとしておいて欲しいのか。
 頭を抱えたところで、答えなど出ない。
 ただ、こうして触れているときの恍惚とした感触だけが、ずっと体中を蝕むのではないか。そんな予感がひしひしとして、彼に触れる間中、御剣はそのことだけに怯えていた。