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ここへ来たときから、いや、正確に言えば彼に憧れていたあの頃から、何となく予感があったのかも知れない。
「はぁ〜…」
本日何度目になるか解からない溜息を吐いて、王泥喜はぼうっと窓の外を見詰めていた。
「どうかしたのかい、おデコくん」
わざわざ大事な書類を届けてくれた牙琉響也が、異変に気付いて笑顔で尋ねて来るのに、ぼうっとしたまま視線を向ける。
目に映る響也の顔を確認して、王泥喜は思わず視線を伏せた。彼が悪い訳じゃないけど、正直今はあはまり見ていたくない。
この、整った顔に、いつも余裕たっぷりの笑み。カッコ良くてスターで…。
「牙琉検事はいいですよね、何の悩みもなさそうで」
「いきなり、なんだい。深刻な悩みごとでもあるのかな」
「いえ、別に…」
悩みごと。あるのはあるけれど。こんなことは、彼に相談したって仕方ないのだ。
内容はとても誰かに言えるようなものじゃないから。
でも、何も言わなくても王泥喜の様子で何となく察したのか、響也は指を軽快に鳴らしてみせた。
「いよいよ、きみも恋の季節って訳だね、おデコくん」
「え、ええ?!」
「そんなに驚かなくてもいいよ。解かり易いからね、きみ」
「そ、そうですか…」
確かに、溜息の数も半端ではないし、そう言うことに慣れていそうな彼なら解かるのかも知れない。
「まぁ、そんなに思い詰めるのはよくないよ。行動してみればいいんじゃないかな」
そんな台詞を残して、響也は颯爽と帰ってしまった。
「行動か…」
そんなもの、出来ればとっくにしてる。
(解かり易い、か)
誰もがそうやって察してくれれば、こんなに思い詰めなくていいのかも知れない。
でも、相手は、あの成歩堂龍一だ。
頑張ったって、どうにかるものじゃない。
鈍いのか鋭いのか、何も考えてないのか先のことまでお見通しなのか。訳が解からない。
でも、響也の言う事にも一理ある。
「ちょっとだけ、本気出してみようかな」
相変わらず窓の外を見詰めたまま、王泥喜はぽつりと呟きを漏らした。
まず、自分と彼との関係を考えてみよう。
お互いの距離を知るのはとても大事なことだ。
彼の自分への言葉と態度と言えば、どんな感じだろう。
そう、例えば。あの気だるい笑みを浮かべて微笑みながら言うのは…。
「グレープジュース、買って来てくれないかな」とか。「チャーリー先輩に水あげておいてね」とか。「そろそろ寒くなって来たからカイロ買って来て」とか。挙句の果てには「お金貸してくれないかな、出世払いで返すよ」とか。
「………」
(何だよ、それは…)
改まって考えてみて、王泥喜は何だかムカムカしてしまった。
これじゃあまるで、体よく使われているだけだ。
この状態で恋愛なんて、到底想像つかない。
どうやったらここから抜け出せるだろう。
押して駄目なら引いてみるとか?
少し考えて、そんな考えが頭の中に思い浮かんだ。
いつも彼の為に率先して頑張って動いている気がするけど、それは間違いだったのかも知れない。
ここは、心を鬼にして、引いてみよう。
王泥喜はそんな決意を抱いて、ぐっと拳を握り締めた。
計画を実行する機会は、思いの他早くやって来た。
決意を固めた翌日。
又偶然、牙琉検事が事務所に来ていたときのことだ。
ソファに寝転んでいた成歩堂は、せっせとその辺りの掃除をしていた王泥喜を見て、甘えるような声を上げた。
「オドロキくん、お腹空いたなぁ」
「……!」
(こ、これだ!)
このときを待っていたのだ。この次に来る台詞は解かっている。何か作ってくれか、何か買って来てくれ、だ。
いつもなら、法廷で叫ぶときみたいな大声で返事をして、彼の言うことを聞いてあげるのだけど。
「すみません、俺、ちょっと忙しいので…用意くらい自分でして下さい」
「え、でも…」
「とにかく、俺は出来ません」
きっぱりと強い口調で、反論しようとした言葉も捩じ伏せた。
いつも、何だかんだ素直に言うことを聞いている自分が急に逆らったら、きっと彼だって驚くに違いない。
何かしら反応をみせてくれるのではと、王泥喜の鼓動はドキドキと高鳴ったのだけど。
「そうか、仕方ないねぇ…。じゃあ、牙琉検事。何か作ってよ」
「…?!冗談じゃないよ、なんでぼくが!」
「じゃあ、何か買って来て」
「し、仕方ないね。ちょ、ちょっと待ってなよ」
「……?!」
(ええ?!)
意外な展開に、王泥喜は思い切り出鼻を挫かれるハメになった。
そ、そんなにあっさりと矛先を変えるなんて?!
一体今までの自分は…。あんまりだ、成歩堂龍一。
それに、牙琉検事も牙琉検事だ。
いつもは少し険悪っぽい空気を醸し出しているくせに、どうして今日に限って素直に言うこと聞いているのか。
いきなりの挫折に王泥喜はがくりと肩を落としたけれど、ここで躓く訳には行かない。
もしかしたら、言い方が優し過ぎたんだろうか。
何とか胸中で自分を励まして、王泥喜は計画を続行することにした。
そして、翌日。
「ねぇ、オドロキくん」
「……!」
(い、今だ!)
強請るような成歩堂の声色に気付いて、王泥喜は返事もせずにふい、と顔を逸らした。
少し罪悪感を覚えて胃の辺りが痛いけど、仕方ない。
ここまですれば、きっと彼だって何かしら気付くに違いない。
そう思ったのだけど、王泥喜の予想はまたしても外れてしまった。
成歩堂は徐に携帯電話を取り出して、ぽちぽちと番号を打ち始めた。
「あ、牙琉検事?またお昼買って来てくれないかな、宜しく頼むよ」
「……?!」
それだけ言って、彼は一方的に電話を切った。
(ま、またかよ!)
あっさりと矛先を変えられ、王泥喜はまたしてもがくりと肩を落とした。
しかも、それから数回同じことを試みたのだけど、やっぱり失敗に終ってしまった。
流石に、もうこんなバカげたことは止めた方がいいのかと思い始める。
そもそも、成歩堂の自分への認識って……。
もしかして、自分は本当にただの都合の良い存在なんだろうか。
そんなことを延々と考えながら、とぼとぼと外を歩いていると、肌寒い風が身に染みる。
それに、もう何日喋っていないか解からない。
駆け引き云々の前に、もはや自分の方がちょっと寂しい。
ずっと冷たい態度を取っていたせいで、嫌われてしまったかも知れないし。
何だか急に不安が込み上げて来て、王泥喜は事務所へ戻る足を早めた。
「あ、あの!成歩堂さん!」
事務所に入るなり見つけた水色のニット帽に駆け寄って、焦ったように声を掛ける。
こちらの呼び声に反応して、ゆっくりと向けられる気だるい笑みに、ほっとしたのも束の間。
「ああ……、ええと、ダイジョウブく…いや、オドロキくん」
「………………」
返って来た言葉に、王泥喜は暫くの間呆然としてしまった。
何だ、今の不自然な間は。
しかも、何だ”ええと”って!更には途中まで言い掛けた名前は?!
まさか、もしや。
暫く会っていない間に、またしても名前を忘れられていた?!
(そんな、バカな…)
ガン!と鈍器で頭を殴られるようなショックを受け、王泥喜はよろよろとよろけながらその場を立ち去った。
それから、数時間。
何だかあまりにも虚しくて、事務所へ戻る気にもならず、王泥喜は外をあてもなく歩き回っていた。
もうとっくに日は暮れて、外は結構寒い。
手も足も冷え切ってしまったけれど、それ以上にこう…心が寒い。
何と言うか、何であんな厄介な人を好きになってしまったんだろう。
虚しいだけだ。もう、諦めよう。
そんな風に思った、直後。
「オドロキくん」
「……?!」
不意に背後から聞き覚えのある声が掛かって、王泥喜は弾かれたように振り返った。
目の前には、もう見慣れた成歩堂龍一の姿がある。
「な、成歩堂さん」
「どうしたんだい、こんな時間まで。帰って来ないから、随分探したよ」
「え……」
「ずっと外にいたのかい。風邪でも引いたら困るじゃないか。これ、着ていいよ、特別に」
彼はそう言って、自分のパーカーを脱いで、冷え切った王泥喜の肩に羽織らせてくれた。
「な、成歩堂さん…?」
あまりのことのぼうっとして、一瞬動きが止まったけれど、すぐに我に返って声を上げた。
「い、いいですよ!成歩堂さんが風邪引いちゃいますから!」
「ぼくは大丈夫だよ、きみの方が心配だ。それより早く帰ろう」
「成歩堂…さん…」
優しく言って、彼は王泥喜の冷え切った手を掴んで歩き出した。
ぐいぐいと自分の手を引く成歩堂の手の平はとても温かい。
それに、先ほど掛けられた優しい言葉に、冷え切っていた王泥喜の胸の内は込み上げて来るものでジーンと熱くなった。
今まで、何を悩んで、あんなにも回りくどいことをしていたんだろう。
彼はこんなに優しいじゃないか。
恐らく今までのことだって、悪気はないのだ。
彼は究極に鈍いだけなのだ。それを失念していた。
彼に気持ちを知って欲しければ、最初から素直に伝えれば良かったのだ。
今更ながらそんなことに気が付いて、王泥喜はようやく意を決した。
「成歩堂さん、あの、俺…」
物凄い緊張でおデコはてかてかになっていたし、声も震えそうだったけれど、肩に掛かったパーカーをぐっと握り締めて言葉を続ける。
「いきなりですけど…、驚かないで聞いて下さい」
「………」
「あ、あの…、俺…、あなたのこと、好きみたいなんです。も、勿論、最初はただの憧れだったんですけど…。でも、今は違います。あなたが好きです、成歩堂さん!」
ようやく、言えた。
もう頭の奥まで痺れてドキドキしてて、酸欠でどうにかなりそうだ。
でも、やれるだけのことはやったから、後は、成歩堂の返事を待つのみだ。
けれど、流石の彼もいきなりのことに驚いているのか、すぐには何も言ってくれなかった。
断る言葉を、考えたりしているんだろうか。
一体、何て言われるんだ。
そんなことを考えて、ずっと待っていたのだけど。
「……」
(……ん?)
いつまで経っても、成歩堂から返事はなかった。
(え…、え…?)
段々と不安になって来て、そっと前を行く人物に再び声を荒げる。
「あ、あの、成歩堂さん?!聞いてますか?!」
途端、彼は急にハッとしたように顔を上げて、いつも通りの笑みをこちらに向けた。
「ああ、オドロキくん。何?」
「な、何って、え…?」
「今、なんか言ったのかい」
「……?!」
「お腹が空き過ぎてぼうっとしてたよ、すまないね」
「え…、あ…」
「悪いけど、もう一回言ってくれるかな」
「は、はい…」
そうか…。こんなときにまで、お腹が空いて、だなんて。
王泥喜を迎えに来たのもきっと、お腹が空いたからなんだろうな…。
全く、この人は本当に、どこまでも天然と言うかボケてると言うか。
そう言うことなら、仕方ない。
彼の為に、もう一度、愛の告白を…。
……って。
「言う訳ないだろ!!そんなの!!」
直後。
くらえ!と言う怒鳴り声と共に、バキィっと鈍く重い音が、秋の夜空に響き渡った。
「オドロキくん、一体どうしたんだい」
「知りませんよ!あなたには関係ないです!」
「関係ないのに、一発ヤられたのかい、ぼくは。ちゃんと責任取ってよ」
「みょ、妙な言い方は止めて下さい!と言うか、もう放っておいて下さい!!」
その後。
成歩堂事務所では、そんなやり取りをする二人がよく見られるようになっていた。
いつになく冷たい態度を取る王泥喜に、何度も話し掛ける成歩堂。
それは、王泥喜の計画がある意味成功している証だったのだけど。
本当に心の底から怒っていた王泥喜は、そのことに暫くの間気付かなかった。
終