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深夜。事務所の扉が開く音がして、成歩堂は顔を上げた。
ソファにぼんやりと腰を下ろして、どれくらいぼうっとしていたんだろう。
部屋は暗いままで、テーブルの上には酒の瓶とグラス。微かに手元を照らしているのは、外の街灯の明かりくらいだ。
我ながら、解かり易いくらい落ち込んでいる。
事務所の鍵を掛けることも忘れていたらしい。

「どうしたんですか、こんな遅くまで」
「牙琉…先生」

続いて現れた人影を見上げて、成歩堂は思わず視線を伏せた。今、彼の顔、いや、正確にはあの検事に似た顔は見たくなかった。

「牙琉で構いませんよ。私も成歩堂と呼びます」
「いいよ、何でも、そんなの…。で?何か用かい?」

投げ遣りな言い方だったけれど、彼は気分を害した様子などなかった。

「きみの家へ行ったのですが…誰もいないようだったので、こちらにいるのかと思いましてね」
「……」

酔っ払いの扱いは心得ているのか、彼が人格者なだけか。霧人はあくまで優しい口調で言って、部屋の中に足を進めて来た。

「顔色がよくありません。酒を飲むのは止めなさい。ただでさえ、あまり強くないのに」

手にしていたグラスを奪おうとする手を、成歩堂は苛立ちを隠せない仕草で払い退けた。

「放っておいてくれよ…ぼくのこと、何も知らないのに、そんな風に言わないでくれ」
「……」
「きみの好意は嬉しいけど、余計なお世話だよ」

そんなことを言った後、すぐに酷い罪悪感が襲って来た。
最悪だ。こんなことを、言うつもりではなかったのに。
胸の中がざわざわと落ち着かなくて、心にもないことを言ってしまう。ただの八つ当たりだ。みっともない。

こんなとき、あの子だったら、あの人だったら、何て言ってくれるだろう。それに、あいつだったら。頭の中にぐるぐると巡るのはそんなことばかりで、ちっとも前に進めない。
お酒なんて、何の役にも立たない。苦い気持ちが溢れる中、顔を上げると、静かに佇んでいる牙琉霧人の姿が見えた。

「牙琉…、すまない…。きみには、凄く良くしてもらったのに、こんなこと言って…悪かった」

実際、彼がいなければ、もっと厳しい処分が下されていたかも知れない。彼だけが、成歩堂への罰に異議を唱えてくれたと聞いた。どうしてそんなことをしてくれるのか解からない。
第一、牙琉響也、あの不正を暴いたとされている検事は、彼の弟だ。普通に考えても可笑しいし、妙だと思う。
でも、今はそんなことを考えて、いつものように突き詰めていく気力なんかなかった。
酒のせいで思考力が低下しているせいだけじゃない。

「牙琉」

一度気を落ち着けるように吐息を吐いて、成歩堂は目の前に立つ霧人に向けて視線を上げた。

「何でしょうか」

穏やかな顔。弟と大分雰囲気が違うけれど、顔はそっくりだ。だから、余計に苛々してしまうのかも知れない。でも、あの検事だって、自分が正しいと思うことを貫いただけだ。何も悪くない。いや、彼だってある意味被害者だ。

「このままだと、きみにどんな八つ当たりをするか解からない。すまないが、帰ってくれないか、お礼とお詫びは、後で又…」
「成歩堂」

言い掛けた言葉が、静かな、でも強い口調の呼び声に遮られた。反応して顔を上げると、彼はゆっくりと腕を組んで、口を開いた。

「私が、そんなにお人好しに見えますか?」
「……?どう言う意味だい」
「ただの好意だけで、こうして何度もきみに会いに来て…ここまでするほど暇だと、思うんですか」
「牙琉…?」

何を言っているのか解からなくて、ただ呆然と名前を呟く。
牙琉霧人。
最近、一番よく口にしている名前だ。ついこの前までは、こんな風に呼ぶことすらなかったのに。
今は、丁度回りに誰もいない。そのせい、だろうか。妙に落ち着かなくて、何だか縋るような目をしてしたのかも知れない。
成歩堂の視界に移った彼の姿が、一歩こちらに近付く。
思わずびくりとして、咄嗟にソファから立ち上がると、一歩ずり下がった。途端、腰の辺りにデスクの感触がして、あっと言う間に追い詰められる。足元に影が落ち、ハッとして顔を上げると、彼の整った顔がすぐ側まで近付いていた。

「成歩堂。私は、きみを信じていますよ」
「……え?」

どく、と音を立てて鼓動が大きく鳴った。
何を言われているのか、今度はよく解かった。
彼が言ったのは、あの裁判のことについて。そしてそれは、今きっと、一番誰かに言って欲しかった言葉だ。
でも、何だか妙に怖くて、携帯の電源は切ったまま。電話も、一度も出ていない。
そんな状況だったから、その言葉を紡いだ霧人の目に捉えられて、成歩堂はそれ以上動くことが出来なかった。

「何も悲観することなんかない。あなたには、私がいますよ」
「…牙琉、…っ」

持ち上がった彼の手がゆっくりと頬に触れる。
正気の状態でなら、撥ね退けているはずの動きも、今は拒絶出来ない。彼は、解かっていてやっているんだろうか。そんなことも、考えられない。
ただ、彼の顔がもっと側に寄せられて、見開いた双眸に彼の姿がぼやけて映っても、身動き取れずに立ち尽くしてしまった。



唇に熱が触れたのは一瞬だった。
腕が掴まれて、ぐい、と側に引き寄せられる。

「っ…、離し…」

離してくれと言い掛けた言葉が、喉の奥で止まる。拒絶の言葉を吐かない自分を ちらりと一瞥して、霧人はそのまま成歩堂の体に腕を回して引き寄せた。

「ぁ…、っ!」

シャツの前が割られて、暗闇の中で白い肌が彼の目下に晒される。噛み殺そうとして失敗した声が室内に響いて、ただ目の前の人物に縋るようにしがみ付いた。

ぎりぎりのところで立って、何もかもに傷付いたような気分になっていた自分に、先ほどの彼の言葉の効果は覿面だったから。何も知らない人物の言うことを信じて受け入れるのには、その言葉だけで十分だったのかも知れない。
だからなのか、何なのか。
それ以来、牙琉霧人弁護士は成歩堂の一番近しい人間の一人になった。