zipper2




その後。
二人分のお茶を淹れて戻ってくると、彼は先ほどと変らない姿勢で、相変わらず膝を抱えて俯いていた。

「みぬき、本当にどこへ行ったんだろう」
「さ、さぁね……」

警戒する訳じゃないけれど、先ほどと同じ轍を踏むのは不本意だったので、少し距離を開けて隣に座る。

「……きみのところじゃないなら、本当にもう帰って来ないのかも知れない」
「ま、まぁ、元気出しなよ。きっと帰って来るって」

根拠のない台詞だけど、見たところあんなに上手く行っている二人が、これだけのことで崩れてしまうとは考え難い。
みぬきが出て行った元々の理由を考えれば、尚更だ。
全く、なぜ自分が親子喧嘩の巻き添えに…。

「あんまり思いつめるのは良くないよ、成歩堂さん」

そう思いながらも、響也は出来るだけ明るい声で彼を励まそうと努めた。
けれど、そんな労りの心も彼には通じなかったようで。

「牙琉検事……」
「……?!」

突然、彼の声で名前を呼ばれたと思ったら、温かい温度が体の上にドサッと圧し掛かって来て、響也は大きくバランスを崩した。
ずるりと背中がソファの上を滑って、床へと落ちる。

「……つっ」

弾みで軽く背中を打ち付けて、響也は小さく呻いて眉を顰めた。
何だ。一体何が起きたんだ。
目を見開いて顔を上げると、成歩堂と二人もつれるように床に倒れ込んでいた。
目を上げると、ぐったりとしている彼の水色のニット帽が見える。
倒れるなら、勝手に一人で倒れれば良いものを、何故自分を巻き添えに…。
床に転がるなんて、全く持って自分の趣味じゃ…。
胸中に怒涛のように文句が溢れてくる中、力の抜け切った成歩堂の声が聞こえた。

「みぬきが帰って来ないなら……もうぼくはどうなったっていいんだ」
「……ちょ、ちょっと落ち着きなよ、ヤケになるのは良くない……」

今にも消えそうなか細い声に、流石に焦りが生まれる。
これは、思っていたよりも彼は重症のようだ。
何と言ってなだめたら良いものか。
女の子を慰めるのは慣れているけど。
こんな……こんな厄介な男は、知らない。
そして。

「もう、好きにしていいよ、きみの」
「は……?」

続いて降って来た彼の声に、響也は思わず両目を見開いたまま時が止まってしまった。
好きにして良いと言われても……。
好きにって、何だ!?

「牙琉検事、きみの思うように、どうとでも」
「な、何……」

何だ、この、ただならぬ雰囲気は。
どうにでもしてくれと言いながら、彼は何故響也の動きを封じるように上に乗っかっているのか。

「な、何を言ってるんだい、あんた……」

冗談は止めて、さっさとそこから退いてくれ。
そう言いたいのに、言葉が出ない。
この状況は、響也の意思ではあり得ないのに。
何故だか、体が動かない。
そんな中、無意識に腕を持ち上げて、恐る恐る手を伸ばしてみると、すぐに手の平に彼の感触がした。
指先に温もりが伝わって、ごく、と小さく喉が鳴る。
合わさる形になった胸板が、彼の呼吸に合わせて上下に揺れている。
その奥で脈打つ小さな音。
たかだかそんなものに、思わず息を飲み込む。
こんなこと、今まで一度だってないのに。
そのままそうしていると、彼がゆっくりと吐き出した吐息が、ふと、響也の首筋を掠めた。
温かい、少し湿った吐息。
どく、と心臓が大きく鳴るのと同時に、響也は弾かれたように顔を上げて、それから彼の肩を両手で強く掴んだ。
引き剥がす為ではない。
掴んだ場所に強く力を込める。
あっと言う間に体勢は反転して、次の瞬間には、彼の体を自分の下に組み敷いていた。
目下で大人しくしている男を改めて見下ろすと、勝手に言葉が出来て来た。

「どうなっても知らないよ、成歩堂龍一」
「いいよ、牙琉検事…」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、響也は顔を寄せ、成歩堂龍一の唇を強く塞いだ。



一度触れてしまうと、後は簡単だった。
ぐぐっと強く押し付けても、成歩堂から抵抗はない。
寧ろ、その先を促しているように、彼の唇は緩く開いている。
何度か唇に噛み付くように味わうと、響也は口内に舌を捩じ込んだ。
中へと侵入して、彼の熱さをより深く貪ると、何だか甘い匂いが鼻先を掠めた。
その香りのせいなのか、何なのか。
男にこんなことをしていると言うのに、抵抗が全くない。
噛み付けば噛み付くほど彼の唇は柔らかく答えて来て、心地良さと同時に甘い痺れまでが体の中に疼き出す。
やがて、深くそうしているはずなのに物足りなくなって、ニット帽から覗いた彼の髪を手の平に握り締める。
キスはますます深くなって、次第に耳元に水音が聞こえて来た。
胸板を重ねると、少し早くなった彼の息遣いが衣服越しにもはっきりと伝わって来る。

「ん、……ンっ」

たまに漏れる吐息のような声と、荒く上下する胸板に、何だか煽られる。
これが一体何なのか、考えることも忘れて、響也は夢中でキスを続けた。
ちゅ、と軽く吸い付いては舌を深く絡める。
開いた足の間に体を押し入れる。
そのうち、勝手に持ち上がった腕が、彼の胸元へと伸びて、パーカーの前を合わせているジッパーへと掛かった。
そこへ来て、流石に痺れていた頭の中が少しだけ正気に戻る。
流石に、これを下へと引いてしまったら、終わりだ。
後には戻れないし、戻る気持ちにもならないだろう。
それは解かっている。
引くべきか、引かないべきか。これは、死活問題だ。
長いような短いような検事人生でも、こんなに決断を迫られたことがあっただろうか。
響也は一度気を確かにしようと、絡み付く成歩堂の舌を解いて、そっと顔を離した。
けれど、改めて彼を見下ろすと、思考は冷静になるどころか、かえって悪化してしまった。
あまりに乱れた彼の様子に、どく、と鼓動が早くなる。
響也が顔を離したせいか、彼の目が何だか物足りなさを感じて誘いを掛けているように見える。
気のせいかも知れないけれど…。
でも……。
知らず、ジッパーに掛けたままの指先が小さく震えた。
ほんの少し、ここに力を込めるだけでいい。
彼の肌に直接手の平を差し入れて、もっと感触を味わいたい。
思わず、こく、と小さく喉が鳴る。
もう、決めてしまおう。これを……。
響也が究極の選択をしようとした、正にその時。
突然、真下にいる成歩堂から、妙な電子音が聞こえて来た。
当然、響也はかなり驚いたけれど、今の今まで生気が抜けたようにぐったりとしていた成歩堂は、急に我に帰って慌てたようにパーカーのポケットを探り出した。
彼が慌しく取り出したのは携帯電話だ。

「もしもし、みぬきかい?!」

そして、相手も確かめずにそう叫ぶ。
でも、電話の相手が誰なのか、何となく響也にも解かる気がした。
それにしても、このタイミングで掛けてこなくても…。

「みぬき、今どこにいるんだい?心配したんだよ」
「うん、ぼくが悪かったよ。帰って来てくれるかい?」

胸中で呟く響也にお構いなく、二人の会話は続く。
これは、残念だけどここまでのようだ。
て、残念て何だ、これで良いに決まっている
こんな風に思うなんて相当自分も重症だ。
彼に中てられてしまったに違いない。
響也がゆっくりと成歩堂の上から退くと、彼は電話をしながら目を上げて響也を見た。
何だか何か言いたそうにも見えたけれど、それは彼にしか解からない。

「じゃあ、今からぼくも帰るからね、みぬき」

そう言って、成歩堂は電話を切った。

「じゃあ、そう言う訳で」
「あ、ああ……」
「又ね、牙琉検事」
「……夜中に来るのはもう勘弁して欲しいね」
「うん、すまないね、じゃあ今度は昼間に……」
「……」
全く持ってそう言う問題ではないのだけど……。

今晩吐き出した中でも一番深い溜息を吐いて彼を送り出すと、響也は乱暴な手つきで髪の毛を掻き上げた。

(まぁ別に、構わないけどね……)

静かに一人呟きを漏らすと、響也は何時間かぶりに自分のベッドへと戻ることが出来た。
けれど、既にそこは温もりが抜けて冷たくなっていて、いくら深く潜り込んでみても、あの男の温かさを思い出させるだけだった。