「では、なるほどくん。誓いの口付けを…」
(……う)
幼いながらも真剣そのもので真っ直ぐな眼差しを向けられて、成歩堂は思わず言葉を失ってしまった。
何だか、裁判で追い詰められているときのように、生きた心地がしない。
一体、何がいけなかったんだろう。
事件の発端を考えてみて、成歩堂は深い溜息を吐いた。
確か、今日の朝のこと。
「じゃあ、あたしそろそろ駅に迎えに行って来るね」
「うん、気を付けてね」
久し振りに春美が倉院の里から遊びに来るので、真宵はそう言って事務所を出た。
あの子が来ると言うことは、今日一日自分の言動に気を付けなければ。
女の子の話題だけは、例え何があっても口にしてはいけない。
そんなことを思いながら、成歩堂は二人が帰って来るのを待った。
でも、一時間過ぎても二人は来ない。
寄り道でもしているのかと思ったのだけど、更に三十分過ぎても一向に帰って来ない。
何だか心配になって真宵に電話を掛けると、すぐ側で携帯の着信音が鳴った。
「あれ?」
音のした方を見ると、彼女の携帯電話がデスクの上に置いたままになっている。
(電話忘れて行ったのか、真宵ちゃん)
これでは連絡の取り様がない。
大人しく待つしかないか。
諦めかけた途端、急に事務所の電話が鳴り響いた。
「も、もしもし、成歩堂法律事務所です」
『成歩堂さんですね、堀田医院と言いますが…』
「は、はい…?」
どうして病院から電話なんか…?
不審に思う成歩堂に、電話の相手は予想外の内容を伝えて来た。
先ほど、女の子が転んで怪我をして病院に連れて来られたのだけど、身元が解からなくて困っていた。
それで、取り敢えず持っていた携帯電話を調べたら、成歩堂事務所の番号が入っていた、と言うことらしい。
『心当たりはありませんか?和服を着た小さな女の子なんですが…』
そう聞かれて、物凄く嫌な予感が胸を過ぎる。
ここの番号を知っている、和装の小さな女の子と言えば…。
春美しかいないではないか。
「と、とにかく今からすぐ行きます!!」
慌しく返事をして受話器を置くと、成歩堂は凄い勢いで事務所を飛び出した。
「あの、女の子が運ばれて来たって聞いたんですけど…」
病院に着くと、成歩堂は受け付けに直行した。
すぐに担当の医者が来てくれたので、血相を変えて詰め寄る。
「は、春美ちゃんは大丈夫なんですか?!」
「落ち着いて下さい、大丈夫です。転んだときに頭を打ったようですが、大したことはありません」
「そ、そうですか!」
(よ、良かった)
取り敢えずホッとして、大きく吐息を吐き出す。
そう言えば、真宵はどうしたんだろう。一緒ではないみたいだ。
駅で入れ違いになったのだろうか。
彼女もきっと心配しているに違いないから、もう連れて帰って大丈夫だろうか。
「あの、春美ちゃんはどこにいるんですか」
「それが……」
「……?」
尋ねると、医者は何だか言い辛そうに言葉を濁した。
「何と言いますか…いわゆる軽い記憶喪失になっているようで…」
「は……!?」
「意識はちゃんとあるんですが、何も覚えてないって言うんですよねぇ。しかも妙に怯えてて」
「き、記憶喪失…?!」
意外過ぎる台詞に、成歩堂は思い切り裏返った声を上げてしまった。
(参ったな…)
取り敢えず、春美がいると言う病室に足を運びながら、成歩堂は頭を抱えていた。
医者の話では、時間が経てば戻ると言うことらしいけど、どうすれば良いのだろう。
それから、戻った後は、忘れている間のことを忘れてしまうらしい。
何ともややこしい話で頭が痛くなる。こんな時、真宵がいてくれたら。
しかも、慌てていたので自分の携帯も事務所において来てしまった。
これでは、真宵が事務所に戻っていたとしても連絡の取りようがない。
深い溜息を吐きながら、病室の前に着くとドアをそっとノックした。
「春美ちゃん?」
呼び掛けても返事はない。
「入るからね、春美ちゃん」
あまり刺激しないように、優しい声で言いながらゆっくりと中に入る。
でも、ベッドの上はもぬけの空だった。
(あれ?いない…?)
慌てて辺りを見回してみると、ベッドの下からあの特徴のある形に結った髪の毛がちょこんと覗いていた。
(あ……)
いた。ベッドの下に蹲って震えている。
知らない人が怖いのだろうか。
そう言えば、初めて会ったときも逃げられたっけ…。
ますます頭を抱えながら、成歩堂は大きく息を吸い込んで、出来るだけ穏やかに話し掛けた。
「春美ちゃん、出ておいで」
「……」
「ええと、ぼくのこと、解からないかも知れないけど」
「……」
(うう、この無言の間、痛いな…)
「きみの家に連れて行ってあげるから。倉院の里、覚えてない?」
「くらいんの里…」
(お!反応があった)
何となく、家のことは覚えているのかも知れない。
ここは、もう一押し。
「真宵ちゃんにも会わせてあげるよ、だから出ておいで」
「…!まよい、さま…?」
流石に真宵のことは引っ掛かったのだろうか。
春美は少し安心したようで、ようやくベッドの下から出て来てくれた。
「あの、あなたは?」
「あ、ああ、ええと…」
まだ少し不安そうな目にじっと見詰められて、何だかこちらまで不安になる。
でも、ここはしっかりしないと。
「ええと…ぼくは成歩堂龍一。弁護士だよ」
「なるほどさま…」
「なるほどくん、でいいよ。いつもそう呼んでるから」
「はい。では、お言葉に甘えて。宜しくお願いします、なるほどくん」
「は、はい。こちらこそ」
深々と頭を下げる春美に釣られて成歩堂も頭を下げ、それから一緒に手を繋いで病室を後にした。
とは言っても、やっぱりいつも通りと言う訳に行かなくて、何となく気まずい空気が流れる。
とにかく、まずは真宵と連絡を取らないと…。
さし当たっては事務所に戻って、それから…。
ぐるぐると頭の中で考えながら歩いていると、急に真横からぐう、と言う音が聞こえた。
(……ん?)
音のした方を見ると、春美が片手でお腹を押さえて真っ赤になっているのが見える。
(ああ、そうか)
お腹空いたのか。そう言えば、もういつの間にか昼過ぎだ。
「春美ちゃん、お腹空いたんじゃない?」
「え……っ!」
「もうお昼だもんね。一緒に何か食べよう」
「で、ですが…見知らぬ方にご馳走になる訳には…」
やたらとかしこまる春美の頭を軽く撫でて、成歩堂は笑顔を作った。
「そんなことないよ。大丈夫だから、遠慮なんかしないでいっぱい食べてね」
「あ、ありがとうございます」
そんな会話の後。
取り敢えず近くにあったファミレスに入って、二人で席に着いた。
それにしても、まさかこんなことになるとは思わなかった。
一緒に味噌ラーメンを食べる予定だったのに。
真宵も、何か適当に食べてくれていると良いけれど…。
春美に聞こえないように小さく溜息を吐くと、成歩堂はメニュー表を広げた。
「ええと、春美ちゃんはサラダとカレーがいいかな?」
「は、はい!わたくし、カレーもサラダも大好きです。何故、わたくしの好きなものが?」
驚いている春美が何だか可笑しくて、成歩堂は笑顔を浮かべた。
「春美ちゃんは知らないかも知れないけど…ぼくはきみのことはよく知ってるからね」
「そうだったのですか…。流石です、なるほどくん」
ほんのりと頬を赤く染めながら、春美はうっとりとした口調でそう言った。
この反応は、大分打ち解けてくれた証拠だ。
(よ、良かった)
これで、いつも通りに話が出来る。
何となくホッとして、成歩堂は大きく胸を撫で下ろした。
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