悪夢のような裁判が終って、成歩堂は誰とも会話を交わさずに裁判所を後にした。
家に着くまでの間、携帯電話には何度も着信があった。御剣から、春美から、冥から。
公衆電話からの着信は、恐らく電話を壊してしまった、糸鋸から…。
けれど、誰からのにも、出る気はしない。
きっと、真宵はちゃんと解放して貰える。でも。
「王都楼のこと、有罪にしてやってよね」
あの真宵の言葉を、守ることが出来なかった。
だから、何もかも投げ出して、逃げ出してしまうつもりだった。
自宅に着くと成歩堂は手当たり次第に辺りのものをトランクの中に詰め込んだ。
必要に思えるものを厳選している暇はない。
適当に、着替えやタオルを無造作に放り込んだ。
そうして、トランクの蓋を閉めたその時、再び携帯が鳴った。
鬱陶しい音が部屋の中に響く。
もう、出るつもりはないから、電源を切ってしまおう。
そう思って、ポケットから携帯を取り出すと、液晶には見慣れない番号が見えた。
いや、一度、見たことがある。
裁判の開始前に、掛かって来たもの。
(王都楼…慎吾…)
その時、どうして通話ボタンを押したのだろう。
もし、これが御剣や真宵だったら、絶対に出なかった。
それなのに、今一番憎い筈の男からの電話を、何故。
どうにもならないと解かっていても、何か、恨み言の一つでも言ってやりたかったのだろうか。
気が付いたら、指先が勝手に通話のボタンを押して、耳元に携帯を当てていた。
「電話なんかして来るなって、言っただろ…」
怒鳴る気力なんかない。
力なくそう言うと、携帯電話の向こうから、楽しそうな声が聞こえて来た。
『そう言うなよ、先生』
本性を見せた、あの男の声。
成歩堂と対照的に、明るい、晴れやかな声。
神経が逆撫でにされるような不快感を覚えた。
『あんたに、頼みたいことがあってさ。まだ俺の担当弁護士は、あんたなんだろ?』
「お前みたいなやつに、ぼくが出来ることなんか、何もない」
『随分な言い様だなぁ…。始めはあんなに優しくしてくれたのに』
「……」
『それにさ、あんたにしか出来ないことなんだよ、弁護士先生』
「ぼくに……?」
多分、自分は酷く疲れきっていたのだと思う。
もう、何もかもどうでもいい、そんな気持ち。
もう、この街にいたくなくて、荷物を纏めて姿を消そうと思っていた矢先だった。
真宵にも、まして御剣になど、合わせる顔もなくて。
ひたすら惨めで、消えてしまいたいと思った。
そんな状態で、何処か、判断力が鈍っていたのだろうか。
少し前まで自分の依頼人だった男が、今は自分とどう言う状況にあるか。解からなかった。
ただ、依頼の延長のような。条件反射で頭が判断を下したような。
「解かった…。少ししたら、行く」
だから、そんな返事を返して、成歩堂は電話を切った。
ついでに、そこで携帯の電源も落とした。
誰からの電話にも、もう出る気はなかった。
成歩堂事務所の向かいにある、バンドーホテルの先に王都楼の家はある。
一度事務所に立ち寄ると、成歩堂はデスクの上に別れの言葉を書いたメモを置いた。
ぼやぼやしていたら、誰かが駆けつけて来るかも知れない。
そう思って、足早にそこを立ち去った。
重い足を引き摺って、二度と訪れたくもなかった場所に辿り着くと、成歩堂はチャイムを鳴らした。
「ようこそ、先生」
扉を開けた王都楼は…もうその抱いている二面性を隠そうともせず、傷の目立つ目元を顕にして、成歩堂に笑いかけた。
「ほら、入んなよ」
ぐい、と腰を抱かれて、無理矢理中に引き寄せられる。
反射的に思い切り腕を振り払うと、彼は口元を歪めて笑った。
中に足を踏み入れた後、背後で扉が閉められる。
ガチャ、と鍵の閉まる音が聞こえて、何故か嫌な汗が浮かんだ。
「ぼくに出来ることって、何だ」
「いいから、座ってくれよ、そこに」
抱き抱えていた猫の毛並みを整えるように撫でつけ、王都楼は唇の端を吊り上げた。
「……」
どの道、言う通りにしなければ、解放されることはないだろう。
一刻も早く、この胸に悪い場所から立ち去りたい。
自分で訪れておいて可笑しな話だが、成歩堂はそう率直に思っていた。
だから、言われるままに、大き過ぎるふかふかのソファに腰を落とし、彼の言葉を待った。
「まぁ、飲みなよ。無罪に乾杯…ってヤツかな」
王都楼が、手に持ったグラスの中身を揺らす。
その度にゆらゆらと頼り無く揺れる液体が、まるで今自分が置かれた状況のようで、居心地の悪さを感じた。
目の前に突き出されたグラスを取って、成歩堂は一気にその中身を飲み干した。
きついアルコールに喉が焼け付く。
でも今は、そんなことはどうでも良かった。
成歩堂が、零れた滴をぐいと手の甲で拭うのを見て、王都楼はゆっくりと口を開いた。
「最後のアフターサービスだよ、先生」
「…何だって?」
「あの殺し屋だって、自分の仕事に支障が出たのを何とか埋め合わせようとしただろう?弁護士先生ってのは、殺し屋以下か?」
くくっ、と彼が喉を鳴らす。
その様子が、何だか異様に滑稽に見えて、成歩堂は異質なものでも見るかのように目を開いた。
ぼんやりしていた頭の中に、少しだけ正気が戻る。
そうだ。
今の彼は、もう自分の依頼人ではない。自分を頼るような状況にない。
無罪を勝ち取った彼は、今はもう何にも束縛されない、自由の身。
それを手助けしたとは言え、自分は法廷で沢山のことを暴露した。彼の、今までの所業を。
イメージを何よりも大事にして、その為に殺人まで犯した男なのに。
それを考えたら、彼は成歩堂を恨んでいる…そう考えても可笑しくないのに。
何故か、今まで気付かなかった。
「さっきも言っただろう、何も出来ることなんてない。帰らせて貰うよ」
きっぱりとそう言って、立ち上がった途端に、酷い眩暈がした。
「……?!」
(何…?何、だ…?)
「どうした?弁護士先生…?」
覗き込む王都楼の整った顔が、ぐにゃりと歪む。
耳元に鈍く響く声に、成歩堂は始めて恐怖を感じた。
まさか、今の飲み物に…何か?
手足が軽く痺れを訴える。
いけない…。
今すぐ、ここから立ち去らなくては…!
けれど、もう全てが遅かった。足に力が入らない。
無理矢理ソファから起き上がろうとした成歩堂の体は、上質の絨毯の上にドサリと倒れ込んだ。
その上に、王都楼が馬乗りになる。
彼は怯えたように身じろぐ成歩堂のネクタイを捕まえて、ぐい、と自分の方に引き寄せた。
「あんたが色々ブチ捲けてくれて…」
「……っ」
「こんなんじゃ、暫く…女だって捕まるかどうか…」
「…ぅ、…」
―だから、代わりに楽しませてくれよ。
息が詰まって、苦痛に眉を寄せる成歩堂を、満足気に見下ろす双眸。
その目は、今まで目にしたことのないような、異様な輝きに満ちていた。
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