氷雨1




「どうしたの、なるほどくん。ボーッとしちゃって」
「あ、真宵ちゃん」

物思いに耽っていた成歩堂は、すぐ側でこちらを覗き込んでいた真宵の声で我に返った。

事務所のデスクに腰掛けて頬杖を突いたまま、延々と考え込んでいたらしい。
整理中だった書類が、所在なさげに放り出されたままになっている。
慌てて掻き集めて整えると、成歩堂は深い溜息を吐いた。

「何だか、今日は仕事が進まないなぁ…」
「もしかして、また考えてたの?ゴドー検事のこと」
「え…う、うん…」

曖昧な返事を返しつつも、心の中を見透かされたようで、どきりとした。
普段はあり得ないボケばかり口にしているのに。
たまに、彼女の鋭さには驚かされることがある。
やっぱり、あの千尋の妹なんだと、妙に感心させられる。
それはそうと、ゴドー検事。
確かに自分は今、あの正体不明の検事のことを考えていた。
普段、人から向けられる敵意には、割と敏感な方だと思う。
と言っても、それが清楚で可憐な微笑みの裏に完璧に隠されていたりするなら、別だけど。
けれど、弁護士と言う職業についてからは、依頼人との信頼関係が大事だったし、相手から向けられる感情には殊更注意を払ってきた。
増して、それがあからさまに向けられるものなら、当然だ。
だから、あのマスクの奥から感じる敵意が、普段成歩堂の回りを包んでいる優しさや好意を突き抜けて、自分の元に突き刺さるのが、気になって仕方なかったのかも知れない。
彼の敵意は静かで内に秘められていて、だからこそ根深くて厄介なものではないかと思う。
でも、それなら尚のこと、何故だろう。
成歩堂が再び黙り込むと、真宵はからかうような笑みを浮かべた。

「そんなに考え込んでたら、いつかゴドー検事のことだけで頭がいっぱいになっちゃうよ」
「うーん。それは、嫌だなぁ…」



そんな会話を交わした、数日後。
真宵が久し振りに里帰りすることになった。
やっぱり、春美のことが心配なのか。
彼女はこうして、たまに何日か事務所を空けることがある。
真宵がいなくなった後、いつもと打って変わって静かになった事務所で、成歩堂はまたぼんやりとしていた。
それでも、日課となっている、チャーリーの世話だけは忘れない。
一枚一枚丁寧に葉の汚れを落としながら、成歩堂はふと、千尋のことを思い出した。
真宵がいるときは、何だか千尋も一緒に側にいて、自分を見守ってくれている気がする。
彼女はいつも自分を助けてくれて、優しく厳しく接してくれた。
本当に、あんな女性は他にはいない。
真宵がいなくなると、千尋までまたいなくなったみたいで、二人分の寂しさが襲って来てしまう。
もう、あれから大分経つと言うのに。
いつまでも頼り切っていては…。
そうは思っても、あの自分を呼ぶ声とか、優しくて強い彼女の雰囲気とか、思い出すだけでどうしようもない。
気分転換に、外にでも出掛けよう。

(お客さんも、来ないしな)

窓の外を見ると、少しだけ雨が降っている。
薄手のコートを着て、傘を持って、成歩堂は事務所を出た。
けれど。
当てもなく街をぶらぶらし始めると、たった数分で、自分の行動が逆効果だったことに気付いてしまった。

(千尋さん…)

一人で冷たい雨の中を歩いていると、何だかますます物悲しい気持ちになってしまう。
今日に限って、思い出すのは千尋のことばかりだ。
どうしてこんなに寂しいんだろう。
今すぐ、温かい彼女の体に触れて、声を聞いて、安心したい。
堰を切ったように溢れ出てくる切なさは、どうしようもないほど膨らんでしまった。

ふと顔を上げて辺りを見回すと、事務所を出たときよりも雨が強く降りだしていた。
冷たい雨の粒が、傘から滴り落ちて肩に降り掛かる。
濡れた肩口が外気に晒されて、体温が下がる。

(不味いな、何だか…本当に…)

雨や低い気温も手伝ってか、本当に寂しくて仕方なくなってしまった。
もう、早く事務所に帰ろう。
熱いシャワーでも浴びて、着替えをして、千尋の温もりが残っているようなあの事務所で、真宵を待とう。
そう思って、成歩堂はくるりと踵を返すと、来た道を足早に戻り出した。



そして、事務所まであと少し、と言うところで。

「……?」

(ん、何だ…あれ)

視界の隅に何か不審なものが飛び込んで来て、成歩堂はぴたりと足を止めた。

(人、かな…)

道端の電柱の側に、蹲るように背中を丸めて、しゃがみ込んでいる人影。
酔っ払いが昼間から居眠りでもしているのだろうか。
そう思って、少し注意しながら足を進める。
けれど、もっと側に寄ってはっきり輪郭が見えると、小さく息を飲んだ。
傘も差さないでずぶ濡れになっている人物の衣服にも、変わった髪の毛の色にも、全て見覚えがある。
あれは…もしかして。

「ゴドー…検事?」
「……!!」

成歩堂が呼び掛けると、彼は声に反応して、ハッとしたようにこちらを見た。
正確には、マスクに阻まれて確認出来なかったので、こちらを見たように思えただけかも知れないが…。
表情も確認できなかったのだが、その時の彼の様子に、成歩堂は何故だか違和感を覚えた。
いつも、マスクの奥から感じるあの感情が、今は何も読み取れないような…。
その上。

「あの……ゴドーさん」
「……」

(え……?)

もう一度呼びかけると、彼は小さな声で何事か呟いたような気がした。
あんまり小さくて、その上雨の音に消されてしまって、聞き取ることができなかったけれど。
彼の唇が、知っている名前を呼ぶ形に動いたような気がして、目を見開く。
そんな筈はないのに。

(気のせいか…)

少なくとも、この自分の姿を前にして言う名前ではない。
あんまりあの人のことばかり考えていたから、そう言う風に見えてしまったんだろう。
これは、かなり重傷だ。
成歩堂は慌てて頭を振って、気持ちを切り替えた。



後で思えば、彼が成歩堂事務所に近いこの場所にいたのは偶然なんかじゃなかったのだろうけど。
そんなことは、今の成歩堂に解かる筈もない。
だから、この時はただ、彼に何か辛いことがあったのだろうかと…そう思った。

「ゴドー、さん…」

黙り込んでいる彼に、尚も声を掛けてみる。
もう行ってしまおうとも思ったけれど、何だかそれは出来なかった。
全身ずぶ濡れで、あとどの位こうしている気なのか解からないけれど、このままでは風邪を引いてしまう。
成歩堂は少し彼の上に傘をかざして、顔を覗き込んだ。
代わりに、自分の上にぼたぼたと雨粒が降り掛かったけれど、何だかどうでも良くなっていた。

「あの、こんなところにいたら、風邪、引きますよ」
「…余計なお世話だぜ、まるほどう…」
「……!」

(あ、喋った…)

何だか、周りの音が何も聞こえていないように見えたので、返事が返って来たことに、少し安心する。
言葉が通じるのなら、問題はない…。

「そう言われても、はいそうですかと言う訳にはいかないですよ。良かったら…事務所に寄って行きますか?」
「……!!」

成歩堂の言葉に、彼はハッとしたように短く息を飲んだ。

(……ん?)

何だろう。
自分で自分の出した提案にも驚いたけれど、彼の反応も少し過剰だったように思う。

「あんたの、事務所にかい…」
「え、ええ…。嫌でなければですけど」
「……」

ゴドーから返事はなかった。
ただ、無言のままゆっくりと腰を上げ、ぎこちない動きで歩き出した成歩堂の後を、少し間を置いて付いて来た。



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