氷雨2




気まずい沈黙が広がったまま二人で歩いて、暫くすると事務所に着いた。
中に入ると、ゴドー検事は黙り込んだまま、何だか物珍しそうにぐるりと部屋の中を見回した。
しかも、本当に執拗に何度も見回している。
まるで、観察でもしているように。

(何だ…?)

少し引っ掛かったけれど、彼の言動にいちいち突っ込んでいてはきりがない。

「これ、どうぞ」

それだけ言って、成歩堂はタオルを一枚手渡した。
ゴドーの髪はすっかり濡れてしまって、ぽたぽたと落ちる雨の雫が、事務所の床まで濡らしている。
それに、マスクから流れ落ちて頬を伝う雨粒が、何だか泣いているように見えて、落ち着かない気分になるから。

「服、乾かしておきますから。シャワーでも入って来て、温まって下さい」

成歩堂の言葉通り、ゴドーは無造作に髪の毛を拭いた後、大人しくバスルームに向かった。
夏物しかないけれど、幾つか着替えはある。
成歩堂も少し肩が濡れてしまっていたので、スーツを脱いで着替えた。
余っているシャツは、ゴドーには少しサイズが合わないかも知れないけれど、この際いいだろう。
服が乾くまでの間だ。
バスルームに彼が入ると、無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い集めて、ハンガーに掛けた。
そんなことをしながらも、本当に何をしているのだと思う。
そもそも、どうして彼を連れて来てしまったんだろう。
今更ながらそう思って、成歩堂はソファに身を投げ出して溜息を吐いた。
でも、何だかあのままにしておけなかったし。
いや、それより…単に一人になりたくなったんだろうか。
けれど、相手はあの、ゴドー検事だ。
会ったときから向けられていた敵意を忘れた訳ではない。
でも…。
何だか、今日の彼はいつもと違うような…。
そう思いたいだけかも知れないけど。
そこまで思い巡らして、成歩堂は思考を停止させた。
ああ、また。
真宵の言った通り、彼のことばかり考えている。
可笑しいな。
さっきまでは、千尋のことで頭がいっぱいだったのに。



そのまま暫くソファに座って待っていると、ゴドーがバスルームから戻って来た。

「今、お茶淹れますから」

あ、いや、コーヒーか。

殊更明るい声を発しながら、普段あまり飲まないコーヒーの瓶を棚の奥から取り出してみる。
コーヒーの淹れ方なんて、あんまり自信がない。
上手く行かなかったらカップを投げ付けられそうだ。
少しびくびくしながら、成歩堂はティースプーンで黒い粉を掬った。

「ど、どうぞ」

ぎこちない手つきでカップをテーブルに置くと、彼はすぐに取り上げて一口飲んだ。

「味は、悪くねぇ…」
「あ、どうも…」

お礼なんて言っている場合じゃないだろうに。
本当に、何でこんなことに…。

「バカだな、あんた、まるほどう」
「え……?」
「敵を助けて、どうするつもりだ」
「……!」

タイミング良くそんな質問をされて、思わず息を飲む。
放っておけなかったとか、自分が寂しかったからだなんて、言える訳がない。

「ま、まぁ、そうなんですけど…」

成歩堂は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。

「ええと…そもそもぼくはあなたのことを、何も知らないですから…。敵が弱っている隙に情報を仕入れるのも作戦でしょう」
「クッ…よく言うぜ、で?何か解かったのかい、ぼうや」
「い、いえ…それは」
「そのいっぱいいっぱいの頭じゃ、どうしようもないだろうさ」
「ま、まぁ、確かに…」

返事をしながら、本当にその通りだと思う。

「真宵ちゃんにも言われましたよ。そんなことじゃ、いつか頭の中があなたでいっぱいになってしまうって」

今日の自分は、何だか可笑しい。
何故こんなに、彼に対してよく喋るんだろう。
彼が傷付いているように見えるからだろうか。
それに…。
先ほどから感じていたけれど、何だか今日のゴドー検事は、身に纏っている空気が違う。
懐かしささえあるような…。

「確かに、敵かも知れませんけど…。でも、今日のあなたからは何も感じません。気のせいでなければ…」
「……」

何気なくそう言うと、不意に、ゴドーの気配が変わった。
身に纏っていた空気が、明らかに険しくなる。

(ん……?)

何だ?
勿論、マスクに覆われていて、表情は見えない。
でも、懸念を裏付けするように、持っていたコーヒーカップが乱暴にテーブルの上に置かれた。
カツンと音がして、中のコーヒーに小さな波が出来る。

「今日の、俺が、何だって…?」
「……?」
「あんたには解るって言うのか…。まるほどう」
「え……?」

何を言われているのかは、解からなかった。
ただ、無造作に伸ばされた彼の腕に肩を掴まれて。
気付いたら世界がぐるりと反転して、あっと言う間にソファの上に寝転んでいた。

「……っ?!」

そして、体の上に、他人の重さと体温が圧し掛かる。
いつの間にかゴドーが馬乗りになって、動きを封じていた。

「クッ…どうやら油断していたようだぜ」

何が起きたのか解からず、ただ目を見開く成歩堂に、ゴドーが静かに声を掛ける。
その声には、先ほどまでの何処か抜けたような感じはなく。
裁判のときに聞けるような少しの棘と、それから熱に浮かされたような熱さが満ちていた。

「この俺が、あんた何かに見透かされるとはな…」
「ゴ、ゴドーさん?」

ぐい、と両足が彼の膝で割られ、無理矢理体が押し込まれる。
逞しい胸板を側に感じたとき、何故か懐かしい様な、奇妙な感覚がした。
こうして密着すると、よく解かる。
この人の体はコーヒーの匂いがする。
でも、それだけじゃない。
この感じは…。
それに、この事務所に、彼は一度も訪れたことはない筈なのに。
どうしてここにいる彼の存在には、全く違和感がないのだろう。
一瞬、そのまま身を預けてしまいそうになって、成歩堂は慌てて首を振った。

「退いて下さい…!ゴドー検事!」

やっとのことで拒絶の声を吐き出して、小さく身を捩る。
けれど、こんなものが抵抗になる訳ない。
それは解かっているけれど、触れている彼の体温はあまりにも心地良くて思い切り振り払うことが出来なかった。
その感覚に反して、早く逃げなくてはいけないと、頭の中で警報が煩く鳴り響いているけど。
それ以上に、どくどく胸を叩く鼓動が煩くて、逃げ出せない。
彼が何をしようとしているのか、何となく解かるのに。
強張った体に触れた手が胸元を弄って、首筋に寄せられた唇がそこを柔らかく噛んだ。

「…っ!や、止めて下さい」

ぞく、と妙な感覚が全身を駆け巡り、慌てて両手でゴドーの体を押し返そうと力を込める。
けれど、その手が掴まれて、頭上に捩じ上げられてしまった。

「男に二言はないんだぜ、まるほどう」
「…?!え…」
「さっき言っただろう、あんたが、自分で」
「…なに、を…」

ゴドーの手が、狭いソファの上で、更に逃げ道を塞ぐように、顔のすぐ横に置かれる。
そして、彼は耳元に顔を寄せると、直接鼓膜に送り込むように低い声で囁いた。

「あんたの言った通り…。俺のこと以外、考えられなくしてやるぜ」
「……!!」

どく、と胸の奥で心臓の音が高く鳴った。
何か抗議の言葉を言おうとしたけれど、声が出なかった。
気付いたら鼻先に微かにコーヒーの香りがして、それから唇が温かいもので塞がれていた。



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