ぬくもり1




とにかく、酷く気落ちして、疲れて傷付いていた。
簡潔かつ要約して言うなら、そんな感じだろうか。
弁護士バッジを剥奪されてからこっち、成歩堂は毎日そんな状況にあった。
きちんと日を数えてはいないけれど、あれから…十日ほどは過ぎている筈だ。
眠ろうとすれば、引っ切り無しに鳴る電話に起こされるし、ようやく転寝をしても、酷い夢に魘されて目が覚める。
御剣、真宵、千尋…。
思い切り甘えて弱音を吐いてしまいたい人物の顔は、何度も何度も浮かんだけれど。
一度そうしてしまったら、何もかも投げ出したくなって、二度と気持ちを切り替えられないような気がした。
まだ、やらなくてはいけないことがある。
今は、彼らが自分を信じてくれていれば、それで構わない…。
それに、実のところ…愚痴を聞いて欲しいとか、励まして欲しいとか。
そんなことだけでは癒されないくらい、成歩堂は傷付いていた。
ただ、誰かに物理的に縋り付いて体温を感じて安心したい。
けれど、当然のことながらそんな暇も相手もいなくて、ただの機械人形のように、苦々しい後処理をするだけの日が続いていた。

その晩も。
とても疲れているのに眠れなくて、酒でも飲めば少しは気晴らしになるかと…ふらふらした足取りで事務所を出た。
あの小さな女の子…突然独りぼっちになってしまったみぬきのことも、気になって仕方なかったけれど。
片付けなければいけない仕事が多過ぎる。
すぐに会いに行けないのが辛いところだった。
近くのコンビニに寄って、普段はあまり飲まないきつめの酒を何本か買う。
ふと、週刊誌の表紙に目を留めて、大きく書かれた自分の名前の文字に慌てて目を逸らした。
逃げるように事務所に帰ろうとした、その時。

「成歩堂龍一?」
「……!」

突然、背後から声が掛かって、成歩堂は息を飲んだ。
久し振りに、そんな風に誰かに名前を呼ばれた。
事務的な声、非難の籠もった声、そのどれでもない、少なからず知った人間へ向けて発せられるような声。
少しの期待を抱いて、弾かれたように声のした方を振り向くと。
それとは裏腹に、出来ればこの先ずっと、あまり会いたくなかった相手が立っていた。

(う…。この、男は…)

「…何してるんだい、こんなとこで」
「きみ、こそ…」

(牙琉…響也)

あの事件を思い出す度に、必ず一緒に思い出す羽目になる、若い検事。
成歩堂が言葉を詰まらせると、彼はじゃら、と音を立てて足を進めて来た。
こちらの買い込んだものに目を留め、指を鳴らすような仕草をする。

「酒、か…。解りやすく落ち込んでるってとこかな」
「……」

悔しいけれど、その通りだ。
率直な物言いに、何か言い返す気にもならず、成歩堂は力なく頷いた。

「どうせあんまり酔えないんだけど、眠れないからね…。やらなきゃいけない事は山積みだから、本当は寝る間も惜しんで仕事しなくちゃいけないんだろうけど…」

自虐気味にそこまで話して、何となく失言したような気がして、口を噤んだ。

(何…愚痴を溢したりしてるんだ)

しかも、よりによって、彼に。
過程はどうであれ、自分を追い詰めたのは、他でもない彼だ。
彼は、成歩堂が不正をしたと思っている。
だから、そんなものは自分のせいなんじゃないかと、揶揄されると思ったが…。
成歩堂の懸念は外れたようで、牙琉響也はそんなことを口にしたりはしなかった。

「あのさ…もしかして、あんたの事務所…ここから近いのかい」
「え、ああ…うん」

(そんなこと、聞いてどうするんだろう)

代わりに吐かれた言葉に、戸惑いつつもホッと胸を撫で下ろす。
今、当の彼に、あれこれ追求されるのは耐えられそうになかったからだが。

「で?どっちへ行くんだい?」
「え、そこの角を右、だけど」
「オーケイ。じゃあさ、さっさと歩きなよ」
「はぁ……」

どうやら、彼はここで別れる気はないらしい。
と言うことは、やはり気になるのだろうか。
あの後、牙琉響也の名は兄に並んで、世間に一気に知れ渡った。
そして、対照的に相手をした弁護士…つまり自分はバッジを剥奪された。
その相手がどれだけ惨めな日々を送っているか…興味でもあるのだろうか。
けれど、自分は何も言うつもりはない。
と言うか、何も話すことはない。
それに、今は本当のことを話しても、ただの悪あがきにしか聞えない筈だ。
まるで道案内でもするように響也の前を歩きながら、成歩堂は背中に当たる彼の視線に戸惑いを感じた。

(何で、付いて来るんだよ…)

話があるなら、ちょっと立ち止まって済ませてしまえばいい。
事務所に迎え入れて仲良く喋るような間柄でもない。
なのに響也は、他愛もない話をしながら、尚も後を付いて来る。
もう帰れと、自分が一言言えば良いのだけど。
敵意とかそんなものは感じないから…それも、出来ない。
辛い作業に関係する以外のことで、久し振りに側にある人の気配は、どうしても手放し難い。
それどころか、響也の態度に警戒しつつも、彼がここであっさり去って行ってしまったら、きっと空虚な気持ちが増したに違いない。
本当に驚くべき事態だけど…。
それだけ、成歩堂は今ぼろぼろで、心底傷付いていて、単に人と言うものに飢えていたのかも知れない。
でも。
そうだとしても、相手は、あの牙琉響也だ。
彼に何かしらの期待を抱くなんて、馬鹿げている。
解かっているのだけど。
背後から聞こえてくる足音と、じゃらじゃらと金属の擦れる音。
それから、少し軽薄な感じがする話し方。
今はそれが、何となく安心出来る。
もし、ここで少し立ち止まってしまえば、その分彼が歩み寄って来て、もっと近くで体温を感じることが出来る…。
って…。

(何を考えてるんだ、ぼくは…!)

ふと、そこまで思い巡らして、成歩堂は頭を打ち振った。
ずっと年下で、恐らくは…自分を快く思ってないであろう、相手。
それに、自分だって、彼のことは何も知らない。
温もりが欲しいだけにしても、相手が悪過ぎる。
こんな馬鹿げた変な気持ちをこれ以上育てる前に、はっきり追い払ってしまおう。
もう、ここまでだ。
でないと、事務所に着いてしまう。
誘惑に似た迷いを何とか振り切って思い立つと、成歩堂は一度足を止め、響也の方へと振り返った。

「牙琉検事」
「何だい?」

呼び掛けると、響也がこちらに向けて顔を上げる。
どんな表情をしているのかは、暗くて見えない。
けれど、そんなことは関係ないから…。
一度息を吸い込んで、一気に吐き出した。

「悪いけど…。ぼくは、きみとあの裁判の話をするつもりはないよ。それに、あのことは…勿論、ぼくにとってあまりいい思い出じゃない。きみに話せることは何もないし、話すつもりもないよ」

途中で止めようか…などと言う気持ちを押さえ込んで、ようやく最後まで言い終えて。
これで、妙な気持ちからは解放されると思ったのに。

「安心しなよ、別にそのことを話すつもりなんてないからさ」
「……」

彼は笑顔を作って、あっさりとそんな台詞を吐いた。
お陰で、もう彼を追い払う気力も理由も使い果たしてしまった。
じゃあ、一体何だと言うのだろう。
訝しげに思いつつも、結局別れることが出来ないまま、響也は事務所の前まで付いて来た。
ドアノブに手を掛けて、顔だけ動かして背後の響也を見やる。

「帰り道、解かるかい?」
「勿論だよ。だいたい、今のあんたに心配して貰う必要なんてないしね」
「ああ、そう…」

(そりゃ、そうか)

こんな状態の自分に心配される謂れは、確かにない。

(まぁ、でも…)

彼がどんな気持ちでここまで付いて来たのかは解からないが、何だか少しだけ気分が持ち直したように思う。
だからと言って、今晩眠れる訳じゃないけど。
とにかく、ここまでだ。

「じゃあ……」

じゃあ又、と言うのも変だったので、それだけ言って、くるりと前に向き直った、その時。

「成歩堂龍一」

呼び声が聞えて、直後、がしっと響也の手に腕を掴まれた。

「……?!」

ぎゅっと掴まれたそこから、響也の体温が直に伝わって来る。
心地良い、人の手の温かさ。
突然のことに息を飲む成歩堂に、彼は耳元まで顔を寄せ、そっと囁くように声を発した。

「あんた…眠れないって言ってたよね」
「……?」

耳に、響也の温かい吐息が掛かる。
話の内容より、その温かさに気を取られている間に、彼は成歩堂の動きを封じるように扉に押え付けて来た。

「ぼくが、何とかしてあげようか」

え……。

「……?!」

言い終わるなり、更にぐいと引き付けられて、思い切り唇を塞がれた。

「ん…ぅ、う…?」

何が起きているのか、頭で理解する前に、軽く舌を吸い上げると、響也は顔を離した。
余熱も残さないほど、呆気ない。
表面に触れただけで、冷え切った胸の中には届く前に打ち切られてしまったもの。

「……っ」

当然、酷い物足りなさを感じる。

「そんな安っぽい酒なんかより、もっといい方法があるよ」

そして、誘うような甘い囁きが耳元に転がり込んで来た。
すぐ側で感じる体温に、こちらを見詰める熱っぽい感じのする目。
本能的に、苦しいほど求めていたものを、あからさまに目の前にちらつかされて。

「…あんたはどうしたい?成歩堂龍一…」
「…ぼく、は…」

成歩堂に、拒絶する力は残っていなかった。



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