こんなものか…。
何だか、当てが外れたな。
もっと、落ち込んで、何も手につかなくなると思っていたのに。
ふと、忙しなく動かしていた手を止めて、王泥喜はぼんやりとそう思った。
いや、そもそも、そんなに落ち込むようなことだったか。
大袈裟に考え過ぎていたのかも知れない。
何だか呆気なくて、気が抜けてしまったけど…。
現に今はこうして…順調に掃除機を掛けて、床を磨いて、トイレ掃除をして、洗濯機も回して…。
「あのさ、おデコくん」
朝からせっせと家事に勤しんでいた王泥喜に、背後から呆れ返ったような声が掛けられた。
振り向くと、この部屋の持ち主、牙琉響也が疲れたような顔をして立っていた。
「何ですか」
「何ですか、じゃなくてね…。掃除するのはとても良いことだとは思うよ?でも、よく考えてくれ」
「はい…」
「今、何時か知ってるかな」
「ええと、四時ですね、朝の」
「…ぼくは昨日仕事が山積みで、帰って来たのは夜中の二時だったんだけど…?」
「す、すみません。でも、五時には発声練習を始めないといけないので、その前に…」
「か、勘弁してくれ、おデコくん」
響也の悲鳴のような声を聞きながら、王泥喜はまたもくもくと掃除に戻った。
あの事務所を飛び出したはいいものの、すぐに雇ってくれるところが見付かる訳でもなく。
王泥喜は途方に暮れて、牙琉検事の部屋に転がり込んでいた。
丁度、お手伝いさんが(お手伝いさんなんていたのか!)、夏休みでいないだとかで…身の回りの掃除やら何やらをやってくれればいい、と言う条件付きで。
それ以降、こんな感じのやり取りをしつつも、何とか安定した穏やかな生活に戻りつつあった。
たまにぼんやりした頭で考え込むこともあったけれど。
随分と前のことを思い出しているようで、何だか実感が沸かなかった。
(何だか…変な感じなんだよな…)
あの事務所にいたこととか、みぬきの笑顔とか、小道具で溢れ返った狭い部屋とか。
不気味でリアルな帽子くんとか、不安定なテーブルとか、デスクとか…。
それから。
「………」
それから、何だっけ。
(もう、いいや)
終ったことだし。
これからは、こんな生活が穏やかに続いて行くに違いない。
そして、全部忘れてしまおう。
そう思っていたのだけど…。
王泥喜の思惑は、僅か数週間で呆気なく崩れる事になってしまった。
「おデコくん、話があるんだけど」
「は、はい」
ある日、響也が何だか難しそうな顔をして、王泥喜を呼び出した。
「凄く言い辛いんだけどね…」
彼は一端言葉を止めて、長めの前髪を指先で摘んで、さらさらと流した。
「は、はい。何ですか」
改まって言われると、何だか緊張する。
王泥喜は背筋をぴんと伸ばして、無意識に床に正座した。
そして、響也はとてつもなく爽やかな笑顔を浮かべて、再び口を開いた。
「何て言うか、出て行ってくれないかな」
「え……!!!」
きっぱりと歯に衣着せず言われた言葉に、王泥喜はガァンとショックを受けた。
「ぜ、全然言い辛そうじゃないですよ!!」
側にあったテーブルを拳でバン!と叩くと、彼はほんの少しだけ怯んだ。
「い、いや。こう言うことは、ちゃんとはっきり言った方がいいと思って。悪いね…」
「うう…。ひ、酷いですよ、牙琉検事…」
今ここを放り出されたら、行くところなんてないのに。
「俺が路頭に迷って、明日の朝冷たくなっててもいいんですね」
「そ、そう言う言い方は止めて欲しいな」
恨みがましい視線を送ると、彼は少し後ろめたそうな顔をした。
まぁ、彼を恨むのはお門違いだと解かっているけど。
でも、じゃあ…どうすれば。
困ったように黙り込んだ王泥喜に、響也はパチンと指を鳴らすと、優しい声を出した。
「あの事務所に、帰ればいいじゃないか」
「……!!」
ぎゅっと、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
彼の言う事は尤もだ。けど、それはもう、出来ない。
「そんなこと、無理、ですよ…」
小さく呟くように言うと、響也は深い溜息を漏らした。
「あのさ、おデコくん…ぼくだって本当は、死者にムチ打つようなことはしたくないけど」
「な、何ですか、死者って」
「きみにあんまり長くいられると、正直ぼくも困るんだよね。女の子だって連れて来れないし」
「別に、いいですよ。俺のことは空気だと思って、いくらでも連れて来て下さい」
「だからさぁ、それが出来るならしてるよ」
「どう言う、意味ですか?」
首を傾げると、彼はじっとこちらを覗き込んで来た。
「おデコくん」
「は、はい」
響也がこう言う目をするときは、だいたい何か核心を突くことを握っている。
ここ数日でそれが解かっていたので、王泥喜は少し尻込みしながら返事をした。
「きみ、今…自分がどう言う顔してるのか、解かってるかい?」
「え……」
「物欲しそうな顔…って言うのかな」
「……!!」
「それも相当、限界。女の子なんか、連れて来れる訳ないだろう?」
「な、何言ってるんですか!俺はっ!」
「解かってるよ。あの男、だろ?だから…止めておけばいいって言ったんだけどね」
「ち、違います!!そりゃ、ちょっと色々ありましたけど、俺、思ってたより平気で…ここ数週間は、随分と穏やかに…」
そこまで捲くし立てると、響也が手を上げて、王泥喜の言葉を遮った。
「やれやれ、教えてあげようか、おデコくん」
「……?」
「きみは別に平気だった訳じゃない。あまりにショックで、それを考えたくなくて、心に蓋をしたんだよ」
「……?!そ、そんなことは……」
「きみはね、穏やかだったんじゃなくて、何も考えられなかっただけなんだよ」
「……!!」
そんなこと、ない。
そう言おうとしたけど、声が出なかった。
でも、本当に…違う。
だって、今は本当に何も浮かばない。
あの人の顔までも、よく、思い出せない。
それなのに、物欲しそうにしているなんて。冗談じゃない。
そこで、会話は途切れた。
響也は、出て行けと言う話は今のところ保留にしてくれたようだけど…本当に、いつまでもこうしている訳に行かないのは、よく解かっていた。
「じゃあ、ぼくは仕事に行くから…。あと、いい加減、スーツも放っておくのは良くないよ」
「あ…。は、はい…」
一応返事はしたものの、何もする気にならず、響也が出掛けた後も、王泥喜は放心したように座り込んでいた。
時間の感覚がなくなるほど呆然としていたようで、気付くと、辺りは薄暗くなっていた。
(あ…夕飯の、買い物…)
よろよろと立ち上がって、ふと、部屋の隅に目が留まる。
響也の言葉通り、床の上には、赤いスーツやシャツが無造作に重ねられていた。
そう言えば、この部屋に転がり込んでからこっち、牙琉検事の服を取り敢えず借りて、スーツは脱ぎ捨てたままだった。
クリーニングにでも持って行こう。
そう思って取り上げると、何かがポケットから落ちた。
(……ん?)
拾い上げると、よれよれになった封筒だった。
記憶を辿ると、すぐに行き着く。
あの時の、封筒だ。
みぬきから受け取って、ポケットに突っ込んだままになっていた。
もう、何の用もないものだ。
早く捨ててしまおう。
破こうと指先に力を込めて、王泥喜はふと動きを止めた。
(……?)
軽い力を込めれば、すぐにでも破けてしまう筈なのに、何だか抵抗を感じたからだ。
不審に思って封筒を開けて、王泥喜は小さく息を飲んだ。
その中には、王泥喜が入れたはずのメモの代わりに、一枚の写真が入っていた。
真っ黒で、何が写っているのか、よく見えない。
(何だ、これ…フラッシュ焚き忘れたのか…。変な…)
「・・・・!!!」
数秒見詰めて、ハッとした。
よく見ると、確かに見覚えがあった。
真っ暗な中に、少しだけ浮き上がった人影。
ぼやけた輪郭。でも、解かる。これは、あの時の。
そう思った途端、目の前に、皆で一緒に行った、夜の海の景色がいっぱいに広がった。
久し振りに、物凄く楽しかった。
何も考えずに、ただひたすら笑い転げて、夜が明けなければいいと思った。
自分は確か…彼の方ばかりを見ていた。
ここに来てからは、一度も、思い出しもしなかったのに。
どくどくと、少しずつ心臓の音が大きくなって行く。
でも、何故これが…?
そう言えば、牙琉検事に頼まれて、みぬきに渡したんだった。
少し考えれば、すぐ解かることだった。
みぬきしか、考えられない。
「馬鹿だな、あの子は…。こんなもの…」
こんな…何が写ってるか、よく解かりもしない写真なんて。
渡してくれたところで、どうなる訳でもないのに。
けれど、意思とは裏腹に、王泥喜の目の奥はじわりと熱を帯びたように熱くなってしまった。
そして、頭の中には、溢れそうなほど色々な情景が浮かび上がる。
酔っ払った彼と、触れるだけのキスをしたこと。
その後、勢いに任せて酷く乱暴なキスをしてしまったこと。
血の滲んだ唇も、ロケットに引っ掛けて作った指の傷も、もう治ってしまったけど。
痛みは、しっかりと思い出せる。
それから。
ぼやけた明かりの中に浮き上がった、彼の体とか…。
無意識に、皺になるのも構わず、手の中に写真をぎゅっと握り締めると、その上に涙の粒がぽたぽたと落ちて来た。
馬鹿なのは、自分の方だ。
あの、みぬきが大事にしていた貝殻のように。
本当に大切なら、こうしてぐしゃぐしゃにしてしまっても、離さずに握り締めておけば良かったんだ。
それを、自分から全部放り出して、逃げ出してしまった。
彼に、酷いことをしてしまった。
どうすれば、いいだろうか。
「成歩堂、さん…」
その時、本当に何週間かぶりに…。ここに来て初めて、絞り出すような声で成歩堂の名前を呼んだ王泥喜の耳に、小さく携帯電話の着信音が聞えた。
NEXT