よく働かない頭で、王泥喜はのろのろと手を伸ばして、携帯電話を取った。
零れていた涙を片手で拭い、携帯の画面に目を落とす。
そして、思い切り息を飲んだ。
「……!」
見間違いではないかと思った。
でも、そこには確かに覚えのある番号が見えた。
これは、成歩堂龍一のもの。
どうして、彼が…?!
あの時のことを責められるのではないかとか、様々な不安要素があった筈なので…後で思えば、素直に電話を取った自分が信じられないけれど。
このときは、何かを考えている余裕はなかった。
(成歩堂さん…!)
王泥喜は慌しく電話を持ち直して、通話ボタンを押した。
緊張のあまり息が苦しくなったけど、夢中で叫んだ。
「も、もしもし…!!」
『オドロキくん…』
聞こえて来た声があんまり懐かしくて、ぎゅっと胸が詰まってしまった。
でも…。
気のせいか、何だか…様子が可笑しい。
受話器の奥から届く声が小さいのは、自分が感極まっている…からではないようだ。
ぐっと、痛いほどに耳に携帯を押し当てる。
「成歩堂さん?すみません、よく、聞こえなくて…」
声を張り上げると、自分とは逆に、か細い声が返って来た。
『オドロキくん…すまないが、助けてくれないか…何だか、まずいことに…』
「……?!」
(え……?)
一瞬、言っている意味が解からなくて呆然とする。
「な…、どうしたんですか?!成歩堂さん?!」
『ひょうたん湖公園にいるんだけど…が…』
「え……」
(き、聞こえない!何だ!?)
「聞こえないですよ!成歩堂さん!」
その呼び掛けに、応えは返って来なかった。
代わりに、揉み合うような気配と、彼のものではない、怒鳴り声。
何を言っているのかまでは、解からない。
しかも、電話はそこでぶつりと切れてしまった。
状況は何も把握出来てないけれど、ただ事ではない、それだけは解かった。
受話器の向こうから聞こえて来たのは、荒っぽい男の声だった。
喚いているような、怒りが籠もったような。
それに、確かに成歩堂は言った。
『助けてくれないか…』
助けを呼ぶ、と言うことは…身の危険が迫っているからで…。
そう思うと、急に頭の中が真っ白になった。
もし、あの人に、何かあったら?
考えるとぞっとして、恐怖で身が竦む。
王泥喜は何とか気を落ち着けようと、ごくりと喉を鳴らして唾を飲んだ。
自分だけで、何が出来るか解からない。
応援を…呼ばなくては。
誰か、誰か…。
そうだ…!牙琉検事!!
縋るような思いで、王泥喜は再び携帯を手に取った。
『どうしたんだい?おデコくん』
「も、もしもし!助けて下さい!牙琉検事!!」
すぐに電話に出てくれた響也に感謝しつつ、王泥喜は夢中で叫んだ。
『…!?どうしたんだい?何かあったのかな』
「な、成歩堂さんが…!」
『…!成歩堂、龍一?彼が、何だい…?』
「成歩堂さんが、危ないかも知れないんです!もしかしたら、誰かに襲われているかも知れなくて」
『何だって?!』
「はっきりは解かりません、でも…ひょうたん湖公園にいるって…」
『落ち着くんだよ、おデコくん。他には?』
「な、何も解からないんです、それだけで・・・」
『ちょっと待ってくれ、そんな不確かな状況じゃ、警察にだって…』
「お、お願いです、牙琉検事!!」
『……!』
焦って声を振り絞ると、受話器の向こうで息を飲む気配がした。
ややして聞えて来た声は、響也らしい、キザで落ち着いた優しい声だった。
『オーケイ、解かったよ。何とかしよう。だからきみも、あんまり無茶はしないようにね』
「はい!」
心強い見方が出来て、王泥喜は少しだけ胸を撫で下ろして、響也の部屋を飛び出した。
ひょうたん湖公園。
その言葉だけを頭の中に何度も何度も思い浮かべて、ひたすら急ぐ。
途中で見掛けたタクシーを捕まえて、出来る限りすっ飛ばして貰った。
ようやく目当ての公園が見えて、慌しく車を降りる。
響也が連絡を入れてくれているであろう警察の姿は、まだない。
「成歩堂さん!!」
大きな声で呼んでみたけど、当然、返事はなかった。
一体、何処に。
いっそ、さっきのも、いつもみたいに大袈裟に言っているだけだったらいいのに。
でも、相手の声も聞こえた…。
焦りだけが募って、胸が不安で押し潰されそうになる。
林の中を掻き分けて、必死に彼の姿を探した。
小枝が引っ掛かって、手も顔も擦り切れたけど、痛みは何も感じなかった。
「そうだ、携帯…!掛けてみれば…」
何か、解かるかも知れない。
相当パニックになっていたらしく、そのことも思い付かなかった。
とにかく慌てて携帯を取り出すと、王泥喜は震える手でボタンを押した。
数秒後。
すぐ近くで、何だか気の抜けたような着信音が聞こえた。
「……!」
聞き覚えのある音。
急いで駆け寄ると、地面に転がっている携帯電話を見つけた。
これは、成歩堂の…。
と言うことは、電話を掛けて来たときは、きっとここにいたのだ。
まだ、近くにいてくれれば…!
「成歩堂さん!!!」
ありったけの声を振り絞って、王泥喜は再び成歩堂の名前を呼んだ。
次の瞬間、後ろの茂みから、勢い良く飛び出す人影が見えた。
逃げ道を塞ぐように立ち尽くしていた王泥喜に、ドン!と思い切りぶつかって、凄い勢いで逃げて行く。
追うのも忘れて、慌てて茂みの中を覗くと、見慣れたニット帽が暗闇の中に浮き上がって見えた。
目を凝らすと、地面に倒れている成歩堂の姿が、はっきりと確認出来た。
「な、成歩堂さん?」
「オドロキくん…!ありがとう…助かったよ」
いつものだるそうな調子で言いながら、成歩堂は少し立ち上がるような仕草をした。
「な、何なんですか!今の人!」
慌てて走り寄って、側に屈みこむ。
抱えるように背中に腕を回しながら、彼の衣服が不自然に乱れていることに、ぎょっとした。
ジッパーの下がったパーカーに、捲り上げられたようなシャツ。
襟元は少し破れているようにも見える。
それに、先ほどの立ち上がろうとした動作が、下衣を整えるためだったと気付いて、ますますぎくりとする。
その上、ぐい、と乱暴に拭われた口元がまだ少し濡れているようにすら見えて、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「な、成歩堂さん…あの…」
「さっきのは、ボルハチの元客だよ。未だにポーカーで負けたこと、根に持ってたらしくてね」
「…そ、そうだったんですか」
王泥喜の顔が青褪めているのに気付きながら、成歩堂は何も言わなかった。
きっと、なるべく聞かれたくないんだろう。
でも。考えるより先に口を開いていた。
「な、何も…されてませんか?」
「ああ…。大丈夫だよ。あちこち触られはしたけどね…」
「そ、そうですか…」
良かったとは、とても言えないような状況だった。
でも、その場に崩れ落ちてしまいそうなほど、ホッとしたのは事実だった。
その後。
ようやく警察が到着して、響也に加えて茜まで駆けつけてくれた。
響也は、公園の出入口付近で怪しい男を捕まえたと言った。
「それって…グレーの上着にジーンズ?」
「ああ、その通り。どうやら、間違いなさそうだね」
成歩堂が尋ねると、響也は満足そうに頷いた。
「こう言うときはまず、警察に電話して下さいね、成歩堂さん!」
「うん、ごめん…茜ちゃん」
「あんたもよ!」
「は、はいっ」
茜は心配のあまり泣きそうになっていて、成歩堂よりも王泥喜が沢山怒られてしまった。
「刑事くん、今日のところはその辺にしてやって欲しいな。二人とも泥だらけじゃないか。少し休んで貰った方がいいかもね」
「……!!わ、解かってます!そのくらい!」
にこやかに咎める響也に一通り噛み付いて、茜は心配そうに何度も成歩堂を振りった後、去って行った。
三人でその場に残されて、王泥喜は改めて深々と響也に頭を下げた。
「あの、ありがとうございました、牙琉検事」
「いや、いいよ。あんなに必死に頼まれちゃね」
「す、すみません」
取り乱していたとは言え、あんなに無茶苦茶な頼みをよく聞いてくれたと思う。
しかも、手際、いいし…。
王泥喜が何となく口を噤むと、側にいた成歩堂がふっと笑う気配がした。
「…すまないね、牙琉検事」
「いや…。あんたには貸しがあるからね…。まぁ、これでチャラってことで」
「うん…ありがとう」
ふざけたような言い方だけど…響也なりに、成歩堂に対しては色々と思うところがあるのだろう。
「取り敢えず、事情聴取とかは後にしてあげるからさ。シャワーにでも入って来なよ」
響也の好意と計らいに甘えて、二人は近くのホテルに入ることにした。
着替えまで用意してくれて、響也には本当に、何と言って良いか解からない。
とにかく、汚れを落とすため、順番にシャワーを浴びることになり、王泥喜は成歩堂に急かされて先にバスルームへと向かった。
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