矢張政志。
彼が突然事務所にやって来たのは、もうかれこれ数十分前のこと。
いつもなら、用件にも満たないただの世間話を一方的に喚き散らして帰って行くのだが。
今日に限っては、様子が違った。
来客用のソファに座ったまま、何事か考え込んでいるようで、一向に口を開かない。
彼の様子が可笑しいのはいつものことだけど。
また何か事件にでも巻き込まれたのだろうか。
「矢張、どうしたんだ?用があるなら早く言えよ」
暫く黙って様子を伺っていた成歩堂だけど、流石に焦れて来て、急かすように声を掛けてみる。
少しの、間の後。
「いやぁ、流石にちょっと…良心が咎めるかなって…」
「…え?」
ようやく口を開いた矢張は、また訳の解からないことを言い出した。
突っ込むのも面倒臭かったので、続く言葉を待って黙り込む。
すると、彼はすうっと真顔になって、いつになく真剣な様子で成歩堂の顔を覗き込んで来た。
「あのよ、成歩堂」
「な、何だよ」
「俺とお前って、その…親友同士…よな?」
「え、あ、ああ…」
「俺のこと、どのくらい大事に思ってる?ちなみに俺は、お前の為なら百円までなら貸せるぜ」
「それはどのくらいの重みがあるんだよ、お前の中で…」
呆れたように呟きを漏らして、成歩堂は彼の隣に腰を下した。
昔から彼のお陰で相当酷い目に遭いはしたけれど、決して憎めないヤツだ。
答えは、考えるまでもない。決まっている。
「お前は大事な友達だよ、矢張」
「…!成歩堂ぉぉぉ…」
面と向かって告げると、矢張は嬉しさのあまりうるうると両目に涙を溜めた。
それにしても、こんなことを聞きに、わざわざ来たのだろうか?
彼にも、こんな一面があったとは…。
「サンキュ、な。じゃあ、こんなことも、当然我慢できるよな」
暢気にそんなことを考えていた成歩堂の耳には、矢張の台詞は届かなかった。
ふと我に返ったときには、矢張の手が成歩堂の腕を後ろで纏めて、ぐるぐるとロープのようなものを巻き付けていた。
「え、な、何…?」
何が起きているのかよく解からなくて、呆気に取られたまま背後の矢張に呼び掛ける。
けれど、彼から返答はなくて、気付いたらあっと言う間に後ろ手に縛り上げられていた。
「な…?!何だよこれ?!」
裏返った声を上げたものの、もう遅い。
どれだけ厳重に縛ったのか解からないけれど、一つに括られた腕はびくともしなかった。
「どうだ、成歩堂。俺ちょっと勉強して来たんだぜ、朝、本屋で立ち読みして」
「え、な、何を…」
「初心者の為の縛り・百選、とか言うの」
「え……?」
いまいち、言っている意味が解からない。
そもそも、何故彼はこんなにも得意げなのか。
成歩堂は軽い頭痛がするのを感じた。
こちらが呆然としているのを良いことに、矢張は無抵抗な体をぐいぐいと押して、事務所の奥の部屋へと連れて来た。
そして、訳も解からないまま、無理矢理その場に座らせられる。
冷たくて固い床の感触が直に触れて、何だか嫌な予感が過ぎる。
その上、続く矢張の言葉に頭痛は更に鈍さを増すことになった。
「て、訳でさ。悪いけどお前、今日一日ここでこうしててくれよな」
「……?」
(は……?)
一瞬、頭の中には大きな疑問符が浮かんだ。
しかも、矢張は床に座らされたままの自分を放置して、そのまま立ち上がって部屋から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待て!矢張!!」
扉を閉められてしまったら、自分では開けられない。
ハッと我に返って、成歩堂は必死で矢張を呼び止めた。
こんなに必死に彼を呼び止めることなんて、もう二度とないだろう。
けれど、その必死な声にくるりと振り返った彼は、立ち上がろうと苦心している成歩堂の側に寄ると、今度はその体を床に転がしてしまった。
「うわっ!な、何するんだよ!」
弾みで軽く体を打ち付けて文句を言うと、彼はしまりのない笑顔でこちらを見下ろして来た。
ある意味、勝ち誇った笑顔に見下ろされるより堪えるものがある。
「いいからいいから、頼むからじっとしててくれよ。今日一日でいいから」
「お、お前…、訳解かんないぞ!理由を話せよ!納得出来る訳ないだろ!」
怒りの滲んだ声で喚くと、彼は悪戯っ子のように頭をかりかりと掻いた。
「ま、それもそうか」
「・・・・」
あっけらかんとした彼の口調に、もう言葉もない。
恐らく、腕が自由だったら思わず殴ってしまったに違いない。
けれど今は、力を込めても無駄にロープが腕に食い込むだけで、成歩堂は痛みと不快感に眉を寄せた。
そんな自分には全くお構いなく、矢張はすぐ側まで来て床に腰を下ろすと…。
「いや〜それがさァ…」
ようやく、この可笑しな行動に出るまでの経緯をだらだらと話し始めた。
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