頭の痛くなるような理由で矢張に拘束されてから、一時間ほどが過ぎた。
その間、何度となく説得を試みたり、ロープを解く努力をさせてみたりしたのだけど、全く効果がなかった。
そもそも、一体何でこんなことになったのか…。
この騒動の原因を始めから考えようとして、成歩堂は止めた。
考えても仕方ない。
今まで、彼に巻き込まれたのが最後、良い結果になった例がないから。
とにかく、怒鳴ったり説得したりで喋りすぎて喉が痛い。
それに、床に腰掛けたままで結構あちこち痛い。
成歩堂は顔を上げると、暢気にソファに腰掛けてテレビを見ている矢張に恨みの籠もった視線を向けた。
「矢張…」
「ん?何よ、今いいところなんだけど」
「…喉、渇いたんだけど」
「それが?」
「……」
それが、じゃない!そう怒鳴りたいのを堪えて、成歩堂は深い溜息を吐いた。
「あのさ、ぼくはこんな状況だから、お前が飲ましてくれないと飲めないんだよ」
「ん、あ、ああ…そうか」
「冷蔵庫にペットボトル入ってるから。適当になんか取ってれくよ」
渋々頷いて、名残惜しそうにテレビの前から離れる矢張を目で追って、成歩堂は疲れたように肩を落とした。
こんなんで、一日も持つんだろうか…。
暫くして戻って来た矢張は、成歩堂の目線になって屈むと、きゅっとボトルのキャップを捻った。
「ほら…」
「ん……」
何でこんなこと、と思いつつも、口元に押し当てられたボトルの先を口に含む。
途端、矢張が勢い良くボトルを傾げたので、成歩堂の喉には冷たい液体が急激に流れ込んで来た。
「う、…ゲホッ!」
堪らなくてむせ返ると、彼は慌ててボトルを引っ込めた。
けれど、弾みで手が滑ったのか、ボトルは大きく揺れて中身が零れ落ちてしまった。
「バカ!溢すなよな!」
「お前の飲ませ方が下手なんだよ!」
何とか呼吸を整えて、成歩堂は咳き込んだ為に涙が浮かんだ目で抗議をした。
首筋の辺りにも水が降り掛かって、シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
「とにかく、拭いてくれよ」
「ん、ああ。タオルは?」
「そっち」
「そっちってどっちだよ!解かんねぇよ!」
「手が使えないんだからそんなに怒るなよ!」
これでは埒が開かない。
どこにあるか口頭で説明すれば良いだけの話なのだが、不毛な会話は疲れるばかりだ。
そもそも、手さえ解いて貰えれば…。
そう思って、もう一度抗議を試みようとした、直後。
「ああもう…面倒くせェなァ」
「……?!」
何だか投げ遣りな様子で呟いた矢張は、何を思ったのか急に成歩堂の側に顔を寄せると、頬を伝っていた液体をぺろりと舌先で掬い取った。
「うわっ!舐めるヤツがあるか!」
生温い舌の感触に戸惑って、成歩堂は引き攣った声を上げたけれど、彼は全く気にも留めない。
しかも、更に首筋にも顔を寄せて、その場所にも舌を這わせた。
「……!」
ぬるりとした生温い感触と、矢張の僅かな息遣いが首筋を掠める。
不覚にも、ぞくりと悪寒に似た痺れが背筋に走って、成歩堂は思わずぎゅっと目を瞑った。
「や、止めろよ、矢張…っ!」
誤魔化す為に上げた声は物凄くぎこちなくて、矢張は少し驚いたように顔を上げた。
そのまま、こちらの反応を探るように、じっと目を向けて来る。
まじまじと見詰める視線が居心地悪くて、成歩堂は思わず顔を逸らした。
これは、まずい。
過剰に反応し過ぎてしまったかも知れない。
くすぐったいだろ!とか怒鳴っておけば良かったのに…。
尚も無言のまま見詰める視線に、妙な焦りが生まれる。
何だ、この…雰囲気は…。
矢張が、こう言うのに弱いのは知っている。
思い込みの激しさだけは天下一品なのだ。
告白される夢を見て好きになっていたとか、ふざけてキスしていたら、そのまま本気でしていたとか、そう言う男だ。
悪ノリされると後で困る。
「成歩堂…お前さァ」
「……っ!」
そんなことを考えている間にも、何だか今までと違うトーンの声で呼ばれて。
ぎくりと身を揺らした、直後。
不意に、事務所の入り口の方で、ガタンと大きな音がした。
「……?!」
続いて、小さく聞える足音。
二人の間に緊張が走り、同時にごくりと喉を鳴らす。
「だ、誰か来たのか?」
「丁度いいよな、助けて貰おうぜ」
「そ、そうだな。知ってる人だったら、ハサミ買って来てもらおう、飛び切りよく切れる」
小声でそんな会話を交わして、顔を見合わせて頷き合う。
誰だか解からないけれど、これで助かるかも知れない。
膠着した状況に一筋の光が差し込んで、成歩堂は目を輝かせた。
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