「おーい、誰か、いないッスかー」
暫くの間の後、二人の耳元へ届いた声は、よく知った刑事のものだった。
(この、声…!イトノコさん!)
これで、本当に助かる。
もしお客さんだったりしたら、ハサミを買って来いだなんて頼めるはずない。
弁護士としての信用もがくっと落ちてしまうだろう。
(イトノコ刑事、恩に着るよ!)
胸中でそう叫んで、成歩堂は彼を呼ぶ為に大きく息を吸い込んだ。
が、その直後。
「イト…むぐ!」
呼び声を上げ終える前に、いきなりこちらに向かって伸びた矢張の手に、ガバリと口を塞がれてしまった。
「ん、んう…!?」
首を振ってもがくと、矢張の力は更に強くなる。
「静かにしろって!成歩堂」
耳元に押し殺した声で怒鳴られ、ぐいぐいと容赦なく押し付けられる掌のせいで、呼吸が上手く出来ない。
成歩堂は軽く酸欠になってしまい、早く解放されたくて何度も首を縦に振った。
確認した矢張がそっと手を離すのを見計らって、小声で抗議を上げる。
「な、何するんだよ!」
「バカか、お前!あいつ、前に俺を取り調べした刑事だぞ!こんな状況見たら、どう見ても俺が逮捕されるだろうが!」
「あ、ああ…」
(そ、それもそうか)
「お前、前科あるしなぁ、矢張」
妙に納得しつつも、ここで引き下がってしまっては、本当にいつ解放されるか解かったものじゃない。
これは、最後のチャンスかも知れないのだ。
それに、縛られたままの腕も痛くて仕方ないし、濡れたシャツはやっぱり不快だし。
だからと言って、又矢張に拭いて欲しいと言えば、何をされるか…。
「本当に誰もいないッスか?仕方ない、また明日来るッス」
糸鋸刑事の独り言が聞えて来て、成歩堂は焦ったように身を乗り出した。
「イトノコさん!待っ…」
「…!静かにしろって!」
「むぐぐ、…んぐ…」
けれど、再び矢張の手に塞がれて、無駄な呻き声が上がるばかり。
でも、大人しくしている義理はない。
成歩堂は自由の利く足だけでもじたばたと暴れさせて、必死で身を捩って、矢張から逃れようと苦心した。
「成歩堂、暴れるなって!」
暴れる成歩堂を取り押さえようと、矢張は咄嗟に口から手を離して、両手で体を押さえ込んで来た。
息苦しさから解放されて、ぷは、と息を吐くと、成歩堂はチャンスとばかりに目を輝かせた。
大きく息を吸い込んで、もう一度声を上げようとしたとき。
気付いた矢張が舌打ちするのが聞えた。
「あー!全く!!黙れって!バカ!」
「……?!」
イトノコ刑事!そう呼び声を上げる前に、成歩堂の唇には勢い良く何かが押し当てられた。
柔らかい、温かい感触。
「んん…ぅ、ん?」
(……え)
あまりのことに、声どころか、呼吸までぴたりと止まる。
矢張の手はまだ成歩堂の体を痛いほどに押え付けたままだから。
この、自分の唇に押し当てられているものは…。
「…ん、ぅ!?」
ようやく我に返って、成歩堂はこれ以上ないほど目を見開いた。
その双眸に、矢張の顔がアップで映し出されている。
(な…何だよ、これ!)
頭の中が一気に爆発したように何も考えられなくなった。
「ん、んっ!」
夢中で首を振って逃れようとすると、矢張の手に捕えられる。
いつの間にか、無造作に開いていた足の間に矢張が体を押し込めていて、びくともしない。
そのまま散々いい様に貪られて、ようやく解放される頃には呼吸はすっかり乱れてしまった。
「はっ…はぁ、はぁ…」
乱れた息を整えようと、大きく肩を揺らして息を吐く。
成歩堂は目を剥いて泣きそうな声を上げた。
「し、舌を入れるなよ!!」
「あ、しまった。つい、クセで」
「つい、じゃないだろう!」
どこをどう間違ったら、矢張とこんな濃厚なキスを交わす羽目に…。
それに、この騒ぎの間に糸鋸刑事は帰ってしまったらしく、もう隣の部屋では物音一つしなかった。
(何で、こんな)
何だか呆れるのを通り越して泣きたくなってきた。
更に…。
『その人物と口付けを交わせば、運命の赤い糸は確実なものになるのです』
ふと、脳裏を掠めた台詞に、一瞬血の気が引く。
口付けを交わした人物。
それは、どう考えても…。
(ぼ、ぼくじゃないか!)
物凄く嫌なことに気付いてしまった。
成歩堂は少し間を置いて、それから諭すように口を開いた。
「あのさ、矢張…。もう諦めろ」
「え?何がよ…?」
やっぱり、彼は何も気付いていないらしい。
ここは…気の毒だけど、真実を聞かせてやって引き下がらせるしかないようだ。
「あのさ、お前の運命の人って、ここでキスをした人なんだよな」
「え、ああ。それが何…」
言い掛けて、矢張もそこでハッとしたように息を飲んだ。
「そ、そうか!成歩堂、お、お前ぇぇぇ!どうしてくれるんだよ!」
「それはこっちの台詞だ!お前がして来たんじゃないか!」
「うう、そ、そうだっけ…」
「まぁ、そう言うことだから…残念だけど、占いは外れたんだよ。もう諦めて、とにかくぼくの手を解いてくれ」
「……」
「きっと、いい人また見付かるからさ」
「………」
慰めの言葉を吐いても、矢張からは何の反応もない。
「聞いてるのか、矢張?」
不審に思って顔を覗き込むと、珍しく真剣に考え込んでいる顔が見えた。
何だか、物凄く嫌な予感がする。
「な、何だよ、お前。急に考え込んだりして」
警戒しつつも探るように声を掛けると、とんでもない返答が返って来た。
「うーん、何かよぉ…。お前でも大丈夫かも」
「……?」
(は……?)
「付き合い長いしな、俺たちってば」
そう言って、満面の笑みを浮かべた、彼。
(ま、まさか…)
お前でもいい、その意味が解かって、成歩堂は蒼白になった。
「か、勝手に話を進めるなよ!!」
「それに、都合のいいことに縛られてるし、ま、据え膳てヤツ?」
「し、縛ったのはお前じゃないか!」
ムキになって喚いた途端、ぐい、と矢張の側に引き寄せられてぎくりと体を強張らせる。
そのまま、抵抗する暇もなく又思い切り唇を塞がれた。
「……っ!!」
さっきよりも、押え付ける力が強い。
「や、やは…んんっ!」
文句を言おうと開いた唇の隙間から舌が侵入して、好き勝手に口内を舐めまわす。
「んー、んむ、ぅぅ…!」
濡れた舌の感触と息苦しさにパニックを起こして、成歩堂はがむしゃらに首を打ち振った。
上手く動かせない足も必死でばたつかせて、腰を浮かせて逃げようと試みる。
でも、どれも上手く行かなかった。
そして、散々好き放題に口内を侵食した後。
「成歩堂よぉ…」
矢張は何だかやるせないような声を上げた。
「な、何だよ!」
「うーん、何か違うんだよなぁ…」
「な、何がっ」
息苦しさに涙目になって喚くと、矢張は不満そうに眉根を寄せてみせた。
「もっと、こう、色気のある声出せないか?やる気出ないんだけど」
「バカか、お前は!やる気出ないなら諦めろ!」
「そう言う訳には行かないんだって。あの人、これが最後のチャンスです、って言ってたし・・・」
「お、男に興味ないって言ってたくせに!」
「そうよなぁ…」
それは、そうなんだけど…。
言いながら、彼は又何事か考え込んでいる。
冗談ではない。
「だったら、さっさと止めろよ!」
結構な気迫を込めて大声で怒鳴ったのに、矢張は全く堪えた様子もなく、更に平然と言い放ってみせた。
「ま、でも。お前なら、あるいは…」
「何が、あるいは、だ!!」
もう、誰かどうにかしてくれ。
何だか、大変なことになってしまった。
矢張から、とてつもなく不穏な空気を感じる。
「成歩堂…」
「……!」
そんなことを考えていたら、矢張の気配が側に寄って、何だかいつもより低い声で名前を呼ばれて。
成歩堂の頭の中には絶体絶命の文字が浮かび上がった。
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