しるし1




その日、成歩堂は皆と御剣のマンションに集まっていた。
自分と御剣の他に、真宵と春美、そして矢張。
何だかんだと騒がしい夜を過ごした、その翌朝。
成歩堂が起きて来ると、御剣は難しい顔で新聞を読んでいて、真宵と春美はエプロン姿でキッチンに立っていた。

「なるほどくん、朝ご飯出来てますよ。わたくしと真宵様で作ったんです」
「でも、ヤッパリさんがまだ起きて来ないんだよね。なるほどくん、お願い」
「ええ〜?真宵ちゃん起こしてやってよ」

だるそうに言った途端、頬にパァン!と衝撃が走った。

「いけません!なるほどくん!真宵様はお嫁入り前なのですよ!?他の殿方の寝顔を覗くなんて!」
「わ、解かったよ、春美ちゃん」

朝からきつい平手を一発食らって、成歩堂は渋々頷いた。



それにしても、流石に御剣のマンションともなると、広くて綺麗で、部屋もいっぱいある。
矢張が一人で寝ている筈の部屋に入ると、ベッドにもなりそうな大きいソファの上に、彼は気持ち良さそうに寝転んでいた。

「起きろよ、矢張」

肩を軽く叩いてみたが、反応がない。
何やらいい夢でも見ているのか、思い切り緩んでいる頬を抓ってみても、まだ反応はない。

「矢張ってば!起きろよ!」

ちょっと強めに頬を引っ叩くと、初めて反応があった。

「う〜ん……痛ぇよ、ミユキィ……」
「……寝ぼけてるな、こいつ……」

呆れたように呟いた、直後。
突然、がしっと腕を掴まれて、成歩堂は矢張に向かって勢い良く引き寄せられた。

「な、何するんだよ、やは……」

怒鳴りつけようとした途端、首筋に妙な感触がした。
何と言うか……むに、と。

「……??」

続いて、思い切り吸い上げられるような痛みが走る。

「い、痛……っ!?」

慌てて矢張の顔を引き剥がすと、今度は容赦なく彼の頬を叩いた。

「目を覚ませ、矢張!!」
「え……あ……成歩堂?」
「お前、寝惚けて何をしてくれるんだよ!」
「え……?!い、今の・・・お前だったのか?!」

事態に気付いて、矢張もようやく飛び起きた。
二人の間に、微妙な空気が漂った、その時。

「何してるの?なるほどくん、ヤッパリさん」

中々姿を見せない二人に心配したのか、真宵が部屋に入って来た。

「ま、真宵ちゃん!!」
「あれ?なるほどくん、首のとこ赤いよ?何か、えっと……キスマーク、みたいな」
「えぇぇ?!!」

真宵の言葉に、思わず、先ほど吸い付かれた場所を掌で押さえると、彼女は何とも言えない顔をして、成歩堂と矢張を見比べた。

「な、なるほどくん……まさか……」
「ご、誤解するなよ、真宵ちゃん!これは、こいつがやって良いって言ったんだぜ!」
「ええー?!本当なの、なるほどくん!?」
「ば、馬鹿なこと言うなよ!!矢張!」

有り得ない言い訳をする矢張を取り合えず黙らせたものの、成歩堂は途方に暮れてしまった。
と、言うのも……。
こんなものを見られると、少しばかり厄介な人物がいるからだ。
それは勿論、このマンションの一室の持ち主。
困惑したように考え込んでいると、成歩堂を励ますように、真宵がポンと肩を叩いた。

「取り合えず、これで誤魔化しなよ、なるほどくん!」
「あ、ああ……ありがとう、真宵ちゃん」

一体何処から見つけて来たのか……。
彼女が差し出した包帯を受け取って、成歩堂は深い溜息を付いた。



「なるほどくん、その首の包帯はどうしたのですか?」

皆でテーブルを囲んで朝食を摂っていると、春美が突然、触れたくない話題を切り出して来た。
あからさまにぎくりとしてしまった自分を、御剣には悟られなかったと、思いたい。
返答に詰まっていると、代わりに真宵がからかうような声を上げた。

「犬に噛まれたんだよねぇ、なるほどくん」
「真宵ちゃん!待てよ!俺は犬じゃないぞ!!それはどうかと思……」
「……!!この、馬鹿!!!」

慌てて矢張の口を塞いだが。
どうやら、遅かったようだ。

「ほう、それは……きっと、痛かったのだろうな、成歩堂」

(う……)

妙に白々しい感じの、御剣の声。

「……い、いや、それほどでも……」

引き攣った笑いを浮かべて、彼と目を合わせないように成歩堂は居心地が悪そうに顔を伏せた。



その後、矢張は自分のアパートに帰り、真宵は春美を送って行くと言って、一足先に御剣のマンションを出ていた。
成歩堂は、先ほどまでとうって変わって静かになった部屋の中で、ぼんやりと窓から外を眺めていた。
窓ガラスに、仰々しい包帯を巻いた自分の姿が映っている。
無意識の内に、矢張に吸い付かれた部分をそっと、指でなぞった。
そう言えば……。
さっきは少し動揺してしまったけど。
御剣に見られたからと言って、実際、何と言うことはないのかも知れない。
ただ、何と無く、嫌だな……と思いはしたが。
何故かは解からないけれど……。

「どうかしたのか」
「……!御剣……」

不意に、すぐ側で御剣の声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、間近でこちらを見詰めている彼の目と、視線が合った。
別に、どうもしない……そう言おうとした、直後。

「……!」

唐突に腕を掴まれて、無言で彼の方へ向けて引き寄せられていた。
御剣の体温がすぐ側に寄って、そのまま唇を塞がれる。

「んっ……」

頭を抱えるように、彼の手が後頭部に回って、成歩堂の短い髪の毛を握り締めた。
もう、何度目になるだろうか。
近過ぎて彼の顔がぼやけているのを認めると、成歩堂は静かに目を閉じた。
親友だと思っていた筈の彼と、こう言うことをするようになって、大分経つけれど。
いつも、何が御剣の行動の引き金になるのか、成歩堂にはよく解からない。
機嫌が悪いのかと思えば触れて来るし、やたらと素っ気無い時もある。
何よりも、彼がこんなことをする理由も、未だによく解っていない。
なのに、それを黙って受け入れている自分が、一番不可解なのだけれど。
事件と違って、あまり、突き詰めて考えたい問題ではなかった。
考えたら、何かが変わってしまいそうで、怖かったのかも知れないけれど。
御剣は何も言おうとしない。
だから自分も、何も考えなくて良いと、そう思っていた。



「それは、随分……大層な包帯だな」

長い間、無言で交わしていたキスが終ると、御剣はぼそりとそう言った。
当然、不自然に首に巻かれた包帯のことだ。

「確か、犬に噛まれた……とか?」
「…………」
「見せてはくれないのか」
「う……うん」

包帯の下には、矢張が付けた痕が残っている。
恐らくは、まだ生々しく、くっきりと。
だからと言って、別に後ろめたい訳でもないのに。
何故か、胸の中が妙に騒いで落ち着かなかった。
成歩堂が少し躊躇していると、御剣の指がこちらに伸びて来た。
指先が首筋に触れ、思わず・・・びく、と過剰な反応をしてしまった。
変化に気付いた御剣が、何だか険しい表情をして、眉を顰める。

「解いて構わないな」
「いいよ、別に……」

どうせ、ばれてるだろうし。
半ば投げ遣りにそんなことを思うと、御剣の手が器用に包帯を巻き取り始めた。
少しずつ取り去られて行く包帯を見ていると、自分が顕にされて行くような錯覚を覚える。
段々、回りの空気が重くなって行く気がして、何だか急に息苦しくなった。



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